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あれから暫くしても、僕の指の輪郭だけやけに濃く感じられた。
そもそも僕自身が、全体としてはっきりしていた。彼女の発する一言一言が思い起こされ、それが僕を確かにしたのだ。
彼女の存在は「僕にとって」何か。あの質問は僕の方が主体なのだ。
彼女がどういうつもりで言ったのかは知らない。でも、僕が彼女によってどうなったかと同じ質問ではないか。答えはたった一行の質問自身にあったのではないか。指の輪郭をなぞっているとそう思えてきた。
コピー用紙を広げ書き込んで行く。
彼女が僕に何をしたのか考えて行く。
僕は、変わった。そう、変わったのである。彼女が「女の勘は当たる」と言った時、僕のことを好きだと言った時、質問を投げかけてきた時。そして、手をつないだ時。
僕にとっての彼女とは僕の内側にいたのだ。だから、僕がいる限り彼女は損なわれない。ただ更新されて行くだけだ、僕がいかに変容させられたかで。
それで、万事解決する。
彼女そっくりのクローンがいたって、そいつは僕を変えちゃいない。
さて、これでどうだ。
最初から山下さんに見せるのは恐ろしかった。だから、安達に電話をかけてみた。彼女はウォーキングの途中らしく、ふうふうと荒い息をしながら出た。
僕は持論の概要を話してみた。安達は黙って聞いていたが、話が終わったのをみると「ははん、文字に起こしてみな」と言った。
「文字に起こすと整理ができるから。それから論理の穴が見えるよ。その穴を埋める。書き起こす、埋める。という繰り返しをするといい。ものになるかもしれない。」
いざ、書き始めてみるとなかなかに難しいものであった。どうやら頭の中では論理の飛躍が起きるらしく、前後が続かない文章が出てくる。それを調整すると、矛盾が出てきたりもする。僕のパソコンは文字をカウントしてくれるのだが、その数字は少しの増減の周期を退屈そうに繰り返していた。三日くらいキーボードを叩いて、書きあがったものは三千字の小さな論文だった。印刷してみると十ページにも満たない。
それでも、幾部か刷る。安達に見せよう。そうだ、ゆうきくんにも。
自分でも読んでみる。なるほど持論だけあって、正しいことを言っている気がする。と思ううちに、小さな論文はあっけなく結論に至る。するとさっきまでの自信はどこかへ行って、反対にこの程度なのかと不安になった。
まず、学校の帰りに安達に見せた。安達は、田舎の寂しい道をとろとろ歩きながら読んだ。僕が何時間もかけた論文はどんどんとめくられてゆく。僕の方は手持ち無沙汰であって、ただそのページが流れてゆくのを居心地の悪さと共に見ているしかない。はいと、論文を差し返し、安達は言葉を選び選び話始めた。
「あのねえ。まず、自分を変えたことで他者は意味を持つっていうけどさ。自分の規定がないよね。そもそも、基盤を持たない論理なの。
でも、及第点なのかな。私は山下さんじゃないし分からないけど。本人に見せてみても、いいんじゃない?」
自分が何かなんて規定できる人いないしね。とポツンと言った。
ゆうきくんが後から追いついてきた。彼は初体験を済ませたのち数日休んでいて、僕らは今日も休みであろうと思っていたのだ。
久しぶり。とゆうきくんは、はにかんだ。口元には恥じらいが浮かんでいた。
安達はそれを認めたのか分からない。でも、曖昧にうん、と言ったきり黙ってしまった。
僕はその薄気味悪い空気を打破すべく、ゆうきくんに話しかけた。
「ねえ、見てよ。僕の書いた論文さ。」
ちっぽけな冊子はひらりと彼の手に渡った。彼は、木枯らしの走り抜ける道の、その端に座り込んで読み始めた。彼は時折唸ったり、頷いたりしながら読み進めた。
「へえ、いいじゃないか。言い得て妙だ。」
最後のページに至ると、彼は感嘆した。
「どこまでも、ご都合主義に書いてありますけどね。」
と相変わらず、安達は皮肉を込めていう。さっきの「及第点」というのは、かなり優しく評したつもりらしい。
「と、いうと?」
ゆうきくんは、好奇心に満ちた目を安達に向けた。ふうと、安達はため息をついて話し始める。あらかたは、最初に評した内おく容と同じであったが、その後ろにこう付け加えられていた。
「『あなたにとって私とは何か』というのはかれの恋人からの宿題だそうよ。門林はどこまでも、都合よく彼女を唯一かつ不変にしたかった。そういう、願望が見え透いてるわ。論文なんてたてまえよ。これはオーバーなラブレター。いかにも門林らしい。」
そう言い終えてから、安達はおっと言い過ぎたという表情を浮かべて、こちらをみた。そして、にーっといたずら心を口に浮かべる。
ゆうきくんはというと、落ち着いた音程で「相変わらず手厳しいことで」と笑ってから、少し考え込んでいた。
「でも、感覚的には門林の言ってること正しい気がするよな。俺も、ご都合主義者なのかな。」
安達は阿保らしいという風に眉間にしわを寄せた。
「なんにせよ、安達みたいに睨みつけて読まないかぎり、みんなそれなりに納得すると思うよ。俺も彼女に使ってみようかな。『都合のいい論理』を。」
ゆうきくんはおどけて言う。それは、安達を露骨に不機嫌にした。
「うわ、最低。先輩みたいな、綺麗好きなクズは痛い目見ればいいわ。」
情緒不安定な彼女と付き合って、その子が自分に依存しているのをいいことに付かず離れずでいようとして。と安達はまくし立てた。
バカな男の考えなんて手に取るように分かるわ。とまずい酒を吐き出すかのように言った。
「なんだよ。いいだろ、俺の恋愛だぜ。安達みたいに頭が固くちゃあ、さぞモテないんだ。」
ヘラリとして、ゆうきくんは嫌味にいう。
あら、元彼の数は両手じゃ収まらないけれど。と安達は言い返す。僕が知っている限り、それは事実であった。安達に振られた男というのは数知れない。一方で、長続きしたという話も聞かない。
そのくだらない論争と口喧嘩の間の戯れを、僕は幸せを実感しながら眺めた。
こう、罵り合っていても、疲れるまでやってしまえば普段通りに戻れる友がいることを知って。僕は、安達に前の彼氏とは何ヶ月続いたかと聞いた。
二週間と叫んだ彼女の声が、夕暮れに突き刺さった。
月が東から控えめに覗いていた。