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彼女の問いへの答えは、君は変わりゆくものだと答えることなのか。
今もなお連続的にどこか遠くへ向かう彼女がいるということが事実だと、認めたくない強い拒否感が僕にはあった。掴もうとするとつるりと抜け出す液体のような存在ではどうしてもいて欲しくない。
帰り道に安達にそれを話すと、「エゴだよ。自分勝手だね。」といつになく冷たく言った。声が枯葉を踏んだようにガサリと乾いていた。
「彼女は門林の京人形じゃない。いつも変わらない格好で、そこに美しくいて。気が向けば着せ替えられる存在じゃないんだよ。」
多分、彼女は怒っていたのだと思う。僕に有無を言わさず淡々と続けた。
「気付いてないかもしないけど、彼女が次の段階に進もうとする足を引っ張ってるよ。私たちはいつまでも高校生じゃない。大学生になって就職して、結婚する奴もいるし子供を産む奴もいる。だから、変わらない彼女を望む方がバカ。女の子は、お前が愛でるためにいるんじゃない。」
「そうだけど。」
「だけど、なんなの?」と返す声には感情が高まりがあってかハリが出ていた。閑散とした秋の街に反響して、安達の方が驚いたような顔をしている。
僕は黙ってしまった。やはり、安達が正しいのだろうか。かもしれないが、では僕は山下さんの何が好きなんだろう。彼女があの日を脱皮してしまえば、もう僕は好きでいられないのか。
「じゃあ、僕らってなんだい?」
「人間の細胞って、脳と心臓を除いて十年で一新されるんだよ。」と言った。
だから、脳と心臓なんじゃない?という言葉がきっと続くのだろう。
「そんなつまらない答え。」
「だからいってるじゃない。面白くなくたっていい。門林は自分の思い通りになる箱庭で、思い通りになる人形を並べて遊びたいんだ。そんな子供っぽいこと。」
だんだん声は小さくなって、ついに安達は黙ってしまった。
直感が邪魔をして真理を認められない僕に呆れてしまったのだろうか。謝罪したいような気がしてきた。きっと僕は彼女をがっかりさせたのだ。
安達は急にしゃがみこんだ。制服の灰色のスカートが風で揺れる。
「でもさ、見てみ。門林。」
僕も彼女に目線を合わせる。
「ほら、小さい頃見てた景色と一緒。心の奥っていうのかな、それがきゅって。懐かしいって鳴くんだよね。」
彼女はここで育っていないはずだ。中学の時に遠方から引っ越してきたのだから。ちらと彼女の顔を覗く。
「車が大きい怪物みたいに走り抜けて、ビルが上から睨みつけてて。いろいろ恐ろしくならない?この目線のために世界は設計されてない。」
珍しく、安達が長く話しているので驚きつつ聞いた。
「立ち上がれば良いんだけどね。そしたらこの恐怖は消えてしまう。でも、この感覚は子供の頃から私に流れてるものだよね。」
答えがわかったら教えてよ。彼女は確かにそう言った。
彼女が言ったことを道しるべにしてみようと思い、家に帰ってからぼんやりと考えていた。
なるほど、彼女は流れていると言ったけど、過去から現在まで僕らを貫いている軸を捕まえれば良いのではないか。と思った。流れと言うと捉え難そうな、川の水のようにさらりと抜けてしまいそうな印象を受けるが、軸というと握りしめられそうではないか。
そんなイメージがどこからともなく降ってきた。
しばらく、そのいかにも前進と思われた功績に酔いしれていたが、焼き鳥の匂いが我が家の台所から匂ってくるのを感じて可笑しくなった。
なんだ、今まで小難しく考えていたのに、焼き鳥がその串のイメージが無意識的にヒントとなるとはどこか馬鹿馬鹿しい。と思うと笑いが止まらなくなって一人でケラケラと笑い続けた。
結局、人が過去を脱皮するというイメージから串のイメージに乗り換えたのは、僕が前者を認めたくなかったというのもあるだろう。都合の良い方に乗ったのだ。でも、うすうす気付きつつ、人見知りのような感覚を抱きつつ僕は見て見ぬ振りをした。
次の日、僕は何が僕らを貫き通してるかを考えた。
大学ノート、本来なら世界史の板書をするためのものだがそこに一本の線を引いてみる。線の周りに丸をいくつも書く。
視覚的イメージから想起されたものは、細胞、遺伝子、記憶。
細胞はどうやら、10年ですべて入れ替わってしまうらしいことを安達が言っていたなあと思う。
遺伝子はどうだろう。なんだか話が大きすぎで正直想像がつかない。でも、山下さんのクローンは山下さんかを考えれば良い。どこか違う。
記憶は?想像すると寂しい気持ちになったが、記憶喪失になっても彼女は彼女だろう。それで、僕は彼女を別人と扱えるとは思えない。
これ以上は無理だ気が狂ってしまうと思いペンを放り出した。事実、最近はどうしようもない不安が僕を取り巻いている感じがする。
「どう。進捗状況は。」
山下さんが無責任に聞いてきたのは、昼休みだ。
「そうだなあ。とりあえず君を貫いてる何かをつかめれば良いと思って。ちょうど焼き鳥の串みたいに。」
彼女はふふふと笑って言った。
「手術台に乗っけられて、串で刺されてる図を想像しちゃった。」
僕もつられて笑った。恋仲のはずなのに、こんな風に笑ってばかりの関係を期待していたのに、どうして僕は悩まされ続けねばならないのかという疑問が浮かんだがすぐに蒸発した。
「で?もう少し聞かせて」
僕は遺伝子案、細胞案なんかを話した。
すると彼女は鈴みたいな声でうーんと唸った。
「門林くん、私のクローンがいたら判別できる?そっくりに細胞が入れ替わってたらわかる?」
え。と僕があっけにとられていると、彼女は眉間にしわを寄せて言った。
「あのさ。私の質問おぼえてる?『あなたにとって私とは何か』だよ。『私とは何か』じゃない。どこかで、こんがらがってるじゃない?」
つまり、僕というものが彼女の意味を決定するという前提から、すべてを知り尽くしたいわば神の視点に移ったことが問題であったのだ。僕が彼女と識別できねば意味はない。そういうことだろう。
「やり直し。かな。」
山下さんは寂しそうにそっと言った。
また考え直しか、今までの時間は一体なんだったんだ。そう思われ、ただただ絶望のみがそこにあった。
僕の感情を考えてのことか彼女は
「それはともかくさ。今度ご飯行こう?」と優しかった。
彼女の誘いにもちろん僕は乗った。
あの彼女の神々しさを目の当たりにした日以来、僕らはほとんどデートと呼べるものをしていなかった。
彼女が箱入り娘でかつ、部活で多忙だったというのが大きな原因であるが、それゆえに食事を二人でするだけでもぎこちなかった。二人の間の空気は強い摩擦を生じていた。僕がそう感じただけだろうか。
食事では、僕らは例の論題の話はせずに、クラスメイトの噂なんかを話した。
お昼ご飯なのに彼女はパンケーキを頬張って、珍しくニヤリとした笑みを浮かべる。幸せそうである。
食べ終わってから、僕らはあてもなくふらふらとしていた。
「ね。手、つないで良い?」
僕の返答を聞かず、彼女は細い指を僕の指の間に滑り込ませる。
良いのだろうか。僕はこの人と手をつないでいて。とおもった。神への冒涜、倫理に背く行為に近しい背徳感情がグツグツとしてきて、とても愉快だった。
僕らは黙って、歩き続けた。
僕の緊張と興奮が混ざったような感覚が治まってくると、彼女の物理的な温かさが指の先から伝ってくる。
僕は確かにこの人はここにいるのだと思った。少なくともこうして触れ合っている間はそう思えた。同時に僕の輪郭が感じられる。
なんだろう。お節介にも僕らの存在を目が前に呈示され、すごく気分が悪かった。心地の良い、気持ち悪さであった。
「いつまでだって答えは待つよ。あんまり焦らないでね。」
「うん。」
「あんまり、根詰めちゃダメよ。ニーチェは発狂したし、そうでなくたって、哲学者には病んじゃう人多いんだから。」
自分が受け入れたくない仮説は全て主観でなかったことにしてしまうのだからそんな大層なものじゃない、とは言わずに、僕はこくんと頷いた。
彼女は真っ黒な目をこちらに向けていたが、気恥ずかしくてそれを直視できなかった。
「じゃあね。」
「大好きだよ。」
時間なんて。消えて仕舞えば良いのに。