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未題  作者: 門林はみめ
2/7

 朝。教室に入った僕は、安達が手招きしているのを見つけた。

 安達の元へ行くと、彼女すっと眼を窓側に向けた。僕がきょとんとしていると、「ほら見て。」と囁いた。朝日が集中している端の席で山下さんが、斜め上四五度を見つめていた。強い光を浴びて真っ白に見える。

 安達は、目をパチクリさせて、「ね、何かを考えてる。」と言う。

 僕には考えていると言うよりも、見ているに近い様子に映った。確信を持って斜め上を向いているかのような、そんな風に見えた。

 「ねえ、なに考えてるのか聞いてきてよ。」

 「でも、話した事ないよ。」

 そんなやり取りをするうちに先生が入ってきて、自由なる朝は終わった。先生が入ってきて授業して出て行く、高校生の日々なんていうのはその繰り返しだ。特に、僕は一番後ろの席だから緊張感もない甘い生活だ。

 女性の先生が『こころ』を朗読する。僕は夏目漱石自身は好きだが、先生のゆっくりした声は苦手だった。いや、不愉快になるから苦手とかいうのではない。先生の朗読者の声として苦手なのだ。僕にとって彼女の声は、睡魔を呼び寄せる魔笛であった。

 朝のあまりにも清潔な光も相まってうつらうつらし始めて、それでも寝るわけにはいかぬと上を向いたり横を向いたりしていると、安達が教室のほぼ中心の席で突っ伏しており、白い首が長く伸びた黒い髪から覗いているのを見つけた。

 安達の間の抜けた姿を見ていると、こちらまでいよいよ眠くなってくる。目を窓側に移すと、山下さんは教室の端でやはりなにかを見上げていた。手を淡い色の唇にあてて。その様子は斜めうしろからでもよくわかった。

 彼女の目の先に何があるわけでもない。しかし、僕には見えない何かが見えている気がした。たとえば、詩や絵画に描かれるような空間とかが見えているのではなかろうか、彼女のビーズのようなきらりとした目には。感覚的にそう思割れる。

 想像してみる。青い芝が生えた海沿いを走る古びたバスに乗っている彼女に姿を。バスが小石を踏むたび、彼女の体は右に左に振られる。ギシギシ音を立てる座席に座りながら彼女は……。

 コン、と頭に何かが当たるのを感じた。笑い声に教室が沸く。ふっと意識が薄暗い教室へと引き戻される。

 「門林君。集中する。」

 先生が指し棒を持って目前に立っていた。

 「すみません。」と謝って、安達も注意されて仕舞えば良いと思って確認するとニヤニヤとしてこっちを見ていた。ついさっきまで、あいつは突っ伏していたというのにと、腹ただしさがこみ上げてきた。

 先生が教壇に戻ると、僕は少し安達にだまされたような錯覚に陥って彼女の頭に消しゴムを投げてやった。狙った通りに、こんと後頭部に当たって消しゴムは落ちた。彼女がきょろきょろしているのを見ると復讐を果たしたように感じられ、気分は落ち着いた。

 昼休みになると、安達が声をかけてきた。彼女は休み時間には常に同性のグループで固まっているので珍しいことだ。消しゴムのことかと思っていると、彼女はこう言った。

 「ねえ。現代文の時間。山下さんのこと見つめてたでしょ。」

 どこか非難するような、でも心のどこかでは面白がっているような口調で彼女は言った。そんな風に言われるとは思ってもみなくて、困惑した。ただ眺めていただけなのだ。見つめていたというその言葉のセレクトが良くない。その言葉は、ストーカー的不気味さを思わせるではないか。という旨を伝える。

 「言い方なんてのは、どうでもいいんだけど。クラス中が専らその話だよ。で、確かに山下さんは可愛いと思うけどさ。あんまり見つめたりしないほうがいいと思うよ。眺めてたにしても、いろいろ問題がある。」

 安達は髪をそわそわと触る。そうだ。佑希君が言うように安達は常に正しい。しかし、なにか違うのだ。

 「いや、そうじゃなくてだね。」

 「なにが」

 「いや、そうだ。」

 しばらくの間があった後。はあ、とため息をつくと安達は女子だけの輪に戻っていった。そこで彼女は笑みを保ち続けている。ときおり控えめに笑う。

 僕は、それを横目に弁当を広げた。ブロッコリー。トマト。ハンバーグ。白米。料理にはマメな母がプロトタイプの昼食を作っている。。

 もごもごと口を動かしていると、うしろから男の甲高い笑い声が聞こえた。僕は、少し不快さを感じる。

 「なあ、門林。」

 「一緒に食べる?」 と僕は言う。

 声の主は同じクラスの福井だった。陸上部に属し、理不尽な環境で汗を流すことが青春と信じてやまぬ人間である。

 「じゃあ、トマト。もらうぞ。」

 福井が手を伸ばした。陸上部のエースらしく、筋肉質に洗礼された腕だと思った。

 「そんでさ。山下のこと、どうなんだ?」

 口に赤いものを含んだ彼はとぼけたハイエナのようだ。

 「どうなんだとはなんだ。」

 安達と同じ話であろうというのは察しがついていた。幾度も聞かれていると、さすがに恥ずかしさを覚え、余計に意識が向いて耳の縁が熱くなる。

 「隠すなよ。可愛いよなアイツ。わかるよ。そうだ。聞いてきてやろうか。あいつがお前のことをどう思っているか。」

 ニヤニヤとしているのはいつもの事だが、そこには子供らしい好奇心が見て取れる。好きなおもちゃを前にした少年と同じ表情だ。

 「なあ。どうなんだよ。」

 福井は腕を僕の首に回した。角張った肉が頬に当たり、彼のニキビの目立つ顔が接近する。暑い。

 「どうであっても、自分でなんとかするよ。」

 かんがえなしに、そう。ただ彼に放っておいて欲しくて言ったのだ。

 「そうか。じゃあ。お前、今日中に告れよ。そうじゃなきゃ、俺がお前の気持ちをかわりに言ってやるよ。」

 はははと高音で笑ってそう言うと、彼は僕から離れた。冷えた空気が僕らのあいだを抜けた。

 午後の授業中の頭の中は福井との約束をどうするか。その事ばかりであった。一方的に押し付けられたものではあるが、やはり条件付きである。条件を満たさねば彼は宣言した内容を遂行する予感があった。

 事実、山下さんが好きかと言われれば違う。しかし、度々の質問に誘導されるかのように意識は彼女の方へ向いていた。もし、気になっている人がいるかという問いがあれば僕は肯定する。そんな気持ちであったのだ。単純だと思う。話したことも数えるほどだというのに。

 日が赤くなる少し前、すなわち放課後が来た。

 一日のカリキュラムの終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、安達がひょっこりやってきた。そして、眉を寄せて言う。

 「ねえ、十五分後。運動場のウォータークーラー前。来れるよね。」

 ただ一方的に告げる。唇を尖らせる事で、反論はなしだという顔つきをした。

 僕はこくんと頷いた。普段は何を考えているのかを、あえて見せつけるかのように振る舞う彼女であるが、今回ばかりはそうではない。おそらく意図して隠しているのである。

 何の用で呼ばれたのか。さっぱり見当がつかない。ただ、いつもの帰宅途中では伝えづらい、もしくは伝えられない何かであることは分かった。

 十五分は長かった。その間、とくに何もする事がなかったからというのが一点。そして、彼女がああいうことを言う以上、何かが起こるというその不安と焦燥が一点。その何かがわからないというのは、僕の心をかき乱した。

 きっちり一五分経った頃、グラウンドにつうじる長い階段を降りる。コンクリートが日光を反射していて、下は向けなかった。つーっと汗が脇腹を流れるのを感じる。秋になっても、空を覆うものがないと暑い。

 グラウンドに足がついても、部活に精を出す運動部諸君の姿しか見えない。何かの悪戯にやあらん。と言う考えが浮かんだ。しかし、安達がこんな意地の悪く、つまらぬことをするだろうか。

 こんな真夏日の中にポンと取り残されて、十五分経った頃だろうか。ぐるっと一周グラウンドを見渡してみる。男子野球部の行進。女子バレー部の掛け声。風に流された汗の匂い。帰宅部である僕には不要な青春の一ページをおうかする彼らは、僕とは互いに干渉しない相手のはずである。それが目障りに映り、僕をからかっているかに聞こえた。

 「お待たせ。悪いね。待たせちゃって。」

 安達の声が後ろから聞こえた。いつも通りの声である。

 「遅いよ。帰ろうかと思ってた。」

 そう言って振り返ると、安達の他にもう一人いる事がわかった。

 山下さんだった。半袖のカッターシャツに、紺のスカートである。

 彼女を目にして、僕は焦りを感じる。見つめていたことが本人にも知られたに違いないのだ。

 「それで?」

 僕が話を本題へと移そうとすると、安達はそう焦るものじゃあないと返した。

 その言葉の続きはなく、続いたのは互いに言葉も変わさず目も合わせずにコミュニケーションを取ろうとする、無駄な時間だけだった。

 蝉がジィと鳴った。

 野球部のランニングが5周目に突入した。

 ヒュウヒュウ言いながら、涼しい風がぶつかってきた。

 それでも、我々はだんまりだった。

 この永久に続きそうな沈黙の破壊の担い手は山下さん、これにかかっていた。僕や安達はただ待っていたのだ。

 「ねえ、門林くん?」

 山下さんが言った。グラウンドの広さを考えると、あんまりにも小さい声だった。すました声だった。

 「うん。」

 なにか、僕はいけないことをした子のように、まともに彼女を見ることはできずうつむいていた。視覚情報は脳に届かなかった。ぼーっとしたもやを見ていた。

 「好き。」

 体にじっと張り付いていた汗が、一斉にひやりとした。想定していた問いと異なる。一体なんと返すべきか。そもそも、これはからかいだろうか。聞き間違いだろうか。それだってありうるじゃないか。

 いつもの二倍か三倍の脳内物質が溢れ出るのを感じる。一番の安全策は?唾液をぐっとのみ込んで僕は言った。

 「ありがとう。」

 山下さんの顔がこわばった。視線は僕に向いていない。少し外れて、それか僕を通り抜けて何かを見ていた。

 「ごめんなさい。いきなり、こんなこと言われても困るよね。撤回します。」

 彼女は、ふふ。と笑った。その笑い声に水気はなかった。そして、いつもの思案するときの顔に戻る。

 僕は、何かの決意を固めた。その音がことんと胸の奥で鳴った。しかし、なんの決意か。考えているうちに言葉が先をついて出てくる。

 「ねえ。僕もさ。好きだったんだ。付き合ってもらえないかな。」

 空は紫となっていた。日もずっと弱くなって、寒さが広がる。

 彼女は、ため息をついて。軽い笑みを浮かべて、「本当に?」と尋ねた。

 僕は頷く。ちくりと罪悪感が胃を刺した。お前は数日前まで彼女を気にしたこともなかっただろうと。

 数秒の沈黙をおいて、

 「そっか。じゃあ、ふつつか者ですが。よろしくお願いします。」

 彼女はにこりと微笑んで、その笑みに僕はこちらこそと言った。

 「ほんと、夢みたい。これ連絡先ね。」

 ちっぽけな紙切れに、記号が羅列してあった。トットと心臓が波打ち、目が滑る。僕は受け取ると、「また、連絡をする。」と言う。

 グラウンド全体が、影で覆われた。夕暮れが終わりに近づいていた。

 「それじゃあね。」

 山下さんは、突っ立っている僕の手を握って去っていった。柔らかくて、温かかった。そして、その感触は何か後悔を含んでいた。僕はカタンカタンといわせながら階段を上りゆく彼女を見つめた。

 「あのさあ。」

 安達は不機嫌そうであった。

 「あんまり、いちゃいちゃされると私も鬱陶しいんだけど。」

 特に返す言葉はなかった。安達に邪魔されず、夢心地でいられればななどと思った。僕に彼女ができた。僕を好きと言ってくれる人がいる。なんということだろうか。

 日が完全に下りてしまって、あたりが暗くなる。それに呼応するように蝉たちが黙った。ふと、意識がうつつに戻ってくる。

 「ああ、祐希君。いつもみたいに、校門前で待ってるじゃない?連絡した?」

 あ。と言うと安達は、ニヤリとした。

 「忘れてたわ。」

 結局、祐希君は校門前に座り込んで待ちぼうけしていた。僕らが一連の出来事について話すと「微笑ましいなあ」というのみである。どこまで気にしているのかはわからない。

 「ていうかさあ。」

 安達は、三人で駅まで向かう途中に足を止めていった。

 ちょこんとした、店が点々と並ぶ田舎町の真ん中である。

 「門林。山下さんのこと本当に好きなの?」

 僕は、ああ。そうだ。と肯定したが、彼女はいつもよりも半音低くいう。

 「別に、好きでもない人と付き合ったら、それで好きだなんて言ったら。相手に失礼だよ。わかってる?」

 うん。と言うが、僕は彼女の目を見られなかった。それでも、彼女がきっと怪訝そうな表情をしているであろうことはわかる。何となくその場の衝動的な決意で起こした行動、それを正しくないと宣告された気持ちになる。

 「そう、ならいいけど。」

 彼女はそう言うと、ぷいとそっぽを向いた。

 黙って三人で歩いていると、果たして山下さんのことが好きであったのか。という問いが強く突きつけられた。否、きっとこれは実感が湧いていないだけに過ぎない。そう、付き合っているという実感が必要なのだ。そうすれば、相応に大事にしてあげられる自信はある。

 そして、いつもどおりファミリーレストランへとたどり着いた。

 「私、今日は都合悪くて。帰るわ」

 安達はそう言って、一人で駅の方へ向かった。

 「あれ。帰っちゃったな。めずらしい。」

 祐希君は、としていた。

 「どうする。二人でも時間殺してく?」

 結局、僕らは安達抜きで普段通りただ時間が過ぎるのを感じ、本来ならばせねばならぬことから目をそらして過ごした。

 気が向けば言葉を交わしたが大抵の時間は各々好きにした。僕は娯楽小説を読み進め、祐希君はぼうっと客が歩き回るのを見ていた。

 その日は話が弾まず大して話さぬままに別れた。恋人が出来たばかりの僕と、自分に都合のいい時期で別れようと試みる彼。この非対称的な僕らの背景が気まずくしていたのかもしれない。帰り道、少し彼に優越感を感じながら歩いた。風が、お前だって彼女を都合よく見ているじゃないかという少しの後悔を感じさせないでくれた。

 家に着いたのは七時くらいだった。食事をし、風呂を出てから特に机に向かう気にもならず、ぼうっと外を眺めていた。二階の自室からはぽつりぽつりとある多様な形をした家々がいずれも光を発しているのが見える。

 彼女もどこかの家で家族と過ごしているにちがいない。

 そう思うと、無性に山下さんと話したくなった。何も知らない彼女について知りたいという、猟奇的といえばそうなのやもしれない願望に襲われた。

 何も知らないのにそして今なお知らぬうちに、僕の中で彼女は普通のクラスメイトではなくなっていた。告白という儀式を経たからか、単に二人の肩書きが彼氏・彼女になったからか。

 そんなことを考えながら、携帯電話に彼女からもらった連絡先を打ち込む。

 トゥ トゥ トゥ トゥルルル。

 何も気負いをする必要はないのに、僕らは恋人同士であると決まったのに。何故か、脈が速くなる。ツーンと胸が痛くなって、電話をおいて逃げ出したくなった。

 「あ、門林君。なあに?」

 その声がした時、僕は逃げられないと悟って彼女の声と向かい合った。

 しかし、脈は僕の意思に反して強く強く、速くなってゆく。

 「え、いやあ。なんか、話したくってさ。ごめん、忙しかった?」

 「ううん。全然。」

 唾液が粘っこくなって、口にまとわりつく。そいつが邪魔して、うまく話せない。なにか、気の利いたことを言おうと思うのに。 

 僕が悪戦苦闘する一方、彼女はのびのびと言う。少し、上ずっているように聞こえるが気のせいだろうか。

 「ねえ、今度デート行こうよ。どこがいいかなぁ。」

 「うん。」

 「そうだなあ。映画とかどう?話せないと寂しいかな。」

 「僕は構わないよ。」

 「何時がいいかなあ。来週の日曜でどう?」

 「そうしよう。」

  手が小刻みに震え始めた。緊張のあまり、しかしなんの緊張なのだろう。

 「きまり。」

  彼女は電話の向こうで笑った。

 「ねえ、門林君。空を見て。月が綺麗だよ。」

  僕は、窓から空を覗いてみた。深い曇りだった。彼女の家と僕の家でそれほどの距離があるとは思えない。きっと見上げている空は同じだ。

  そう考えた時、合点がいった。これは夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話を真似たものだろう。なにかうまい返しをせねばならない。

 「こっちは曇ってるなあ。」

 数秒考え抜いて、そう言ってみた。彼女はふふふと笑い、愛してるって遠回しに言いたかったのよと小声で囁いた。

 「なんだか、デートが来週かと思うとさみしくて。心は晴れないよ。」

 そうぽつんと言うと、山下さんはしんと黙ってしまった。

 そして、素敵ね。と鈴のような声で言った。

 時計を見ると、相応の時間になっていた。じゃあねと彼女が電話を切った後、僕はもう一度空を見上げて、先が見通せない未来を思う。


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