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授業中は、みなが単なる一人の生徒である。
男でも女でも。いくつであっても。バカでも賢明でも。椅子に座ればみな同じである。平等と言われればそうだが、何か物足りなくて退屈だ。そう思っているうちに古典の授業が過ぎ去った。先生もまた教団に立てば教師になるのだ。淡々と役割をこなしては去って行く。特急かのように時間はビュンビュン過ぎてあっという間に四時である。
学校が終わりを迎えてもちらちらと思考が移りゆく僕に、安達が声を掛けた。考えの世界にいた僕の脳は急に現実に呼び戻されて当惑している。
「ね、何してんの?」
「ん。考え事。」
それを聞き安達は普段の仕草とは不整合な、端正な顔立ちを崩して笑った。
男子高校生諸君の間では、評価は真っ二つに裂ける彼女。その所以の一つである無意味に高い笑声は、赤茶けた放課後の教室にはよく響いた。
だんだんと意識が戻ってくると、心地よい秋風が吹き込んでいる事に気付いた。
「なんか、笑えることかね。」
「いやぁ、門林にも考える事があるんだなと思ってさ。」
彼女のけらけらと笑う姿は人を小馬鹿にしているかのようで気にくわぬと言うものは多いが、個人的には元気でいいなと思う程度だ。中学以来のつきあいであるから慣れているのもあろうが。きゅっと細くなった目を開き直して彼女は続ける。
「そういや、山下さん。彼女も何か考えてるよね。ずっと。」
僕は山下さんを思い出そうと試みた。肩でざっくり切った黒い髪と、白いシャツから覗いた健康的な太さの、でも筋肉質ではない柔らかそうな二の腕。その二つだけが浮かんだ。が、二の腕の質感などを言及できるはずもなく僕は誰だっけと返した。
「ほらほら、えっとねえ。」
そういうと、安達は山下さんの特徴を列挙した。つめに艶があるだの、髪留めが何色である事が多いだの。そんな話だ。いずれも、僕にとっての山下さんを想起させるには至らなかった。
そのとき窓から入ってくる風がふっと止まった。一瞬の静寂がもたらされた。
それを破るかのようにガラガラと教室のドアが開いて一人の女性が入ってきた。いかにも大人っぽい女性、それこそが山下さんであった。短い黒髪と赤い日に染まった白い肌、そして何かを考えているというよりも何かをじっと見つめているかのような綺麗な目。そのとき、名前とイメージが一致した。それこそが僕にとっての山下さんであった。
彼女はただ教室に置かれた鞄を拾いにきたらしく、数分と経たぬうちに僕らに会釈だけをして出て行った。その間、僕と安達は一言も言葉を発しなかった。長い高校生的夕暮れを感じ入っていた。
彼女が出て行って、十秒かそこらも我々は言葉を交わさなかった。沈黙に酔って、僕は吐き出すように「佑希君をさそって帰ろう。」と言った。安達もうなずいた。なにやら、妙な雰囲気になってしまった。しばらく黙っていたせいだ。また、山下さんと共有した空間がドロリとしていたせいでもあろう。何より、彼女は僕らの噂話を聞いていたかもしれないのだ。
佑希君というのは僕らより一つ先輩であるが、その気さくな態度のために友人として何一つとして遠慮する事なく付き合っている。
「先輩。そろそろ受験じゃないですか。こんなところで油を売っていて大丈夫なんですか?」
安達はスマートフォンから目を離す事なく言う。帰ると宣言したのに、僕らは駅へ続く道の途中にファストフード店に来ていた。
「さあねえ。一応、勉強はしてるけどな。志望校が志望校だから。」
全国でも一二を争う名門大学に進学を志す佑希君は、学校では群を抜いて秀才だという話であるが、一つ下の僕らと遊んでばかりでいつ勉強しているのかさっぱり見当もつかない。
「ということは、帰って勉強しなくてもいいの?」
僕も言ってみる。
「いやあ。帰っても勉強しかする事がなくって。」
やはり、ひょうひょうとした彼は本人のペースでしか事を成しえないようだ。
よくわからない返答に僕が困っていると
「むう。しかし。この青春の一ページを下らぬ受験勉強とやらに費やすのもそろそろうんざりした。」
額にぎゅっとしわを寄せて佑希君は言う。
「あれえ。先輩。彼女さんいたんじゃあないの?」
「ああ、そうだ。しかし、そういう高校生らしい事には疲れてしまった。そうだ、きいてくれよ。」
佑希君はメガネを押し上げ、安っぽいプラスチックの机を細い腕でたんたんと叩いて話し始めた。
話の大筋は、かつては彼を魅了した彼女のメッキがいかにして剥がれ落ちていったか、という事であった。あざとさを含んで可愛らしいように映っていた彼女の本質は、精神的に不安定な女性であり、しばしば「構ってくれなきゃ死んでやる」などと言って脅すのだそうだ。
「そんな女。別れちゃいなよ。」
ふんふんと聞いていた安達はあっけらかんとして言う。その声は明るさを含むも、どことなく乾いた印象であった。つまりはいつもどおりの彼女の声である。
「そうは言ってもなあ。死なれちゃあ困るし、それに下手なことをしたら俺が刺されぬとも限らないし。」
佑希君は眉間にしわを寄せたまま、コーラを舐めるように飲み、真面目そうな顔をして言った。
「まだ、人生やり残した事があるんだ。死にたくないよ。」
安達は、ふうとため息をついた。
「先輩、『死んでやる』なんて脅しです。誰も先輩のためなんかに死にたかないですよ。それに先輩なんかを誰も殺しやしません。殺したら先輩のために人生パーなんですよ。誰がそんなバカなことするんですか。うぬぼれないでください。」
そうかなあ、なんて言ってる佑希君を放って安達の集中は再びSNSに向かう。
僕がろくに話さぬうちに、外はすっかり暗くなりラッシュの時間が近くなってきた。混雑した電車は避けたいと思い「そろそろ帰ろっか。」と僕が言うと、個々に残っている食べ物を口に入れたり、伝票を見て小銭をあさったりし始めた。
「じゃあね。」
塾にむかう必要のある安達は、お金を置いて一足先に去った。
安達がいなくなると同時に、佑希君は口角を緩めていった。
「安達の『別れろ』っていうのは、正しいよ。でもさ、なんかやる事やってから別れたいなっていう下心もあってさ。なあ、酷いよな。これは不純な動機ってやつだよ。」
僕は、どきっとした。それが身体目当て、セックスがしたいというだけの交際ならば、彼の考えは倫理的に誤っていると思った。彼女さんの好意を利用して踏みにじっているのではないか。でも、それは彼も認めている。つまり、僕は彼がそういう風なことを言う事に驚いたのだ。
「佑希君。メッキ、剥がれてるよ。」
笑ってやれば上手くこの場をやりきれると思ったが、声は震えているし、表情だってきっとぎこちなかっただろう。
「そうだなあ。」
幼いのか、大人っぽいのかわからない澄んだ目を僕に向けて、彼は無邪気そうに、んーっと唸った。
「でも、きっと俺のメッキを剥がし続けたら、玉ねぎみたいになっちゃうんじゃないかな。ほら、なんにも残りやしないんだよ。安達はそれだって見抜いてるのかもな。」
ぼそりと言う。彼はそのままレシートを手に取って立ちあがった。
「つまんない事を言ってごめん。今回はおごりね。」
それに対し、喜ぶ事はおろか。ごちそうさま、とも言えなかった。なにやら彼が思いつめているかに見えて。また、半透明な雰囲気を醸していたのだ。
外はすっかり暗く、涼しさが強すぎて半袖からむき出しの肌を刺す。僕らは各々帰路に着いた。