東北サイクリング(1993夏)
93夏、東北サイクリングの旅
1994年元旦、小坂隆之君から年賀状が届いた。裏面は結婚式の写真だ。幸せそうな彼が利口そうでかわいらしい奥さんとふたりで肩を寄せ合ってろうそくに火をつけようとしている。「たぬきに似てるんでポンというあだ名で呼んでいるんですよ」と彼が言っていたのでその先入観を持って見てしまったせいか、そう言われてみれば確かにタヌキ科の面影もないことはないなと思えた。「ペンギンに似ているというのでぼくはペンと呼ばれてます」と彼は言っていたが、この写真の彼にはペンギンの面影はなくなっていた。しかし昨夏、仙台駅で久しぶりに再会したときの彼は体がふっくらと膨らんで、数年前信州で別れたときの精悍な彼を記憶にとどめていたぼくには、おもわずほほえんでしまうような、あとで思い返してみるとたしかにペンギンが胸を張ってよちよち歩いているようなユーモラスな様子だった。しかし、93年夏の東北でのサイクリングが、彼自身が「毎日体が引き締まってきて腰ベルトをしめるときの止め穴をひとつずつ内側に寄せないと半ズボンがずるのです」と言ってたように、彼の体を再び引き締めたのだった。'93夏東北サイクリング、この旅行を遅ればせながら記録しておくことは、再び弛み始めたぼくの心のベルトを引き締めるのに役立つだろうし、いつかサイクリングをやめる日がきてもこれを読むことにより精神をそのつどリフレッシュする手だてとなるであろう。
1993年8月13日
朝、仙台駅集合
ぼくは、1990年夏の信州山岳サイクリングのときと同様、今回も旅行のあいだのリーダーシップを小坂君に委ねたので地図さえ持参しなかった。彼に従って行けば辛くとも好ましい旅ができることを信じていたから自分が地図を見てコースをとやかく言う必要はなかったのだ。出発一週間前に小坂君はぼくに地図のコピーを送ってよこし、その中に彼が提案するコースを青色鉛筆でなぞっていた。ぼくはそのコースでいいと思ったので、それをもうひとりの同行者の川上氏(以下「専務」とも呼ぶ)に送り出発の日を待った。専務からの電話連絡でコースは批准され、ぼくらのリーダーは小坂君ということも了解された。しかし小坂君はリーダーと言われるのを嫌い、ナヴィゲイターだと自称した。従って彼は要所要所でいつも地図を開き、現在位置とこれから進もうとするコースを人差し指で専務やぼくに示し、ぼくらがうなずくのを待って出発した。
特急「やまびこ」でぼくは仙台駅に朝9時頃に到着。専務は一つ前の「やまびこ」ですでに仙台入りしており、ぼくが自転車を組み立てていると黒光りするヘルメットをかむり戦国時代の武将のような印象を与えるいでたちと顔つきでぼくの前に現れた。彼の今回の旅に対する意気込みがひしひしと感じられた。しかし彼は一年見ないあいだに(なぜなら、去年の夏に北海道を一緒に走って以来会っていなかったから)そのまなざしが柔らかくなっているのをぼくは見てとって心配した。かつての挑みかかるような眼光、それに射られたら腰がすくんで動けなくなってしまいそうな強い視線が彼の目から消えていた。かわりに人をいとおしく思うような柔らかい涙のように温かなまなざしが彼の目から溢れていた。ぼくは何かあったなと思い、「どうです、今回も仕事を忘れて思う存分走りましょう。一緒に来る小坂君もいいやつできっと気に入っていただけますよ」と投げかけた。専務はうなずき、新兵器だと言っていくつかの新しい物を披露してくれた。全体がメッシュのノースリーブ・アウトドア・チョッキ、プリムスの自動点火バーナー、そして究極のラジオだと言って本体イヤフォン巻き取り式の小型AM/FM ラジオを取り出した。ぼくも新兵器なら幾つかあった。アンテナ付きヘッドフォンラジオや食パンをトーストしたり餅や魚も焼くことができるプリムスの把手付き金網、そして雨の中を走るときに有効と考えられる度付き水中眼鏡。またどんなところでもシャワーを浴びることを可能にする折り畳み式ウォーター・タンク。
小坂君は、小坂より夜行バスで11時ころ到着した。予定は8時着であったが交通事情がいろいろあったらしく、ずいぶん遅れての到着であった。彼を専務に紹介するとき「小坂君はこの11月に結婚することになってるんですよ」とぼくが言うと、専務は何か思い当たることがあったのか、一呼吸おいてから、「それはおめでとう」と言った。ここにひとつの皮肉な出会いがあった。あとでわかったことだが専務は一週間ほど前に、「孫の顔は見たくないよ」と言って愛娘を、気に入ることのできなかったらしい青年に嫁がせていたのだ。娘を嫁がせてその寂しさを紛らわせるために旅に出てきた父親と、人の娘を娶るための不安と希望とに高ぶる胸をペンギンのように膨らませ独身への最後の未練を汗とともに振り落とそうとして自転車旅行に出る青年との出会い。このめぐり合わせはちょっとしたストーリーを形成することになった。
ぼくの小坂君との最初の出会いは、もう何年も前、彼がまだ大学生で、ぼくもまだ30代半ばの頃のことだった。初めて野営装備で自転車ツアーに出たぼくは夏の北海道を10日間走行した。旅も後半に入ったある日、日本海オロロンラインを逆風をついて南下したためずいぶん遅いペースで進み、その日の予定地苫前町までたどり着くためにはナイトランをすることが必要だった。そこで初山別の電気屋でナイトランのためにライト用の予備の電池を購入した。電気屋から出てくると、同じように強い風に逆らって南下を試みる二人のサイクリストが通り過ぎようとするのに出会った。ぼくは喜んだ。困難で愚かなことをしているのはぼく一人だと思っていて心細くなっていたときに、同じことをやっている人にめぐり会えたときの安堵感は大きい。ぼくは手を差し延べて止まらせ、これからどこまで行くのか尋ねた。ずっとひとりっきりだったぼくはできることなら彼らを風防にしてお供したかったのだ。すると、ハンドルにぶら下げたウォークマンを聞いていた小坂君がイヤフォーンを外しながら、日も暮れそうだしもうここらへんで野営しようかと思っている、と言った。すると同行していた森という工専の学生もそれに相づちを打った。そこでぼくもナイトランをやめて彼らといっしょにここで夜を過ごすことにした。地元の人に野営に適した場所を聞くと広場を教えてくれたがそこは寺の墓場のすぐ横だった。そしてその夜にそこで盆踊り大会があり、たくさんの村民や帰省者が集まりにぎやかになった。多くの人が墓に供え物をしたが、何人かが「どうせカラスなんかに食われるのだから」と言って、供えたあとの果物や酒などをぼくらの所に持ってきてくれ、「盆だから今夜は出るかも知れんぞ」などと話して行った。その夜は森君の大きなテントの中で三人は寝た。翌朝、早くからたくさんのカラスがやってきて墓の供え物を荒らして騒いだ。するとバーンと大きな音がしていっせいにカラスたちは飛び去ったようだった。テントから出てみると、寺の婦人が害鳥・害獣を脅すための空砲でカラスたちを威嚇したのだった。しかししばらくするとカラスたちはまた舞い戻ってきて、供え物の奪い取り争いをするのか大いに騒いだ。とんでもないところに野営したものだが、小坂君も森君もしっかり眠ったままだった。(若き自転車乗りたちよ、君たちはいったいどんな騒々しい夢を見ていたのだ、貪欲なカラスも銃声も呼び覚ますことができないとは!)
この出会いの後、小坂君とは何度か再会し、90年には信州をいっしょに走った。しかし彼は正義感は強いが同時にけんかっぱやい側面を持っており、いつも危なっかしさがあった。ところが今回の旅での彼は違っていた。彼のフィアンセが彼をうまく馴らしたのであろうか、それとも営業マンとしての経験が彼を冷静な大人に育て上げていたのだろうか、いずれにしても彼からは危なっかしさがほとんどなくなり、むしろ人を導く能力が培われてきていた。
森君は一度、日本一周旅行中に埼玉県のぼくの家に寄ったが、かわいそうなことにぼくが不在の折で、彼は女ばかりの家族を見て遠慮しておいとましてしまった。
さて、そろそろ仙台駅を出発しよう。天候は晴れ時々曇りの一日だった。まず松島海岸を目指した。交通量が多く道路の端を擦るように走る。松島では瑞巌寺をまず訪れた。拝観料は500円。境内に多くの洞穴がある。小坂君は鰻塚に関し、昔はこれらの洞穴で鰻を貯蔵していたのだろうという推論を提唱した。しかしみやげもの屋派遣のガイドの説明でその誤りが明白になった。これらの洞窟は僧侶たちの修行生活の庵であった。
松島は、数年前に一人でJR青春18キップを用いて来たことがある。各駅停車の列車を乗り継いで仙台に到り、仙石線の快速に乗り換えて松島海岸駅にたどり着いた。その時は帰りの汽車の関係もあり小一時間の滞在だった。曇りがちの日で、帰るころには小雨が降りはじめ、やがてそれはみぞれになった。観光客もまばらで静かな松島だった。松島の島々は海岸に立って見るものより、松島海岸駅の手前のトンネルに入る前の電車の窓からのものが最も印象的だった。電車が進むにつれ遠近の島々がそれぞれの動きをしてみせ、遠くの小さな島が手前の大きな島影に寄って消える。曇り空の下たくさんの島が幽玄の世界を展開してみせる。急ぎ足で橋を渡った福浦島では和服を着た美しい婦人と作業服の男性のカップルに会った。いい景色のところだったのでこれをバックに自分の写真を撮るべく彼のほうに頼んでカメラのシャッターを押してもらった。彼女のほうはずっと彼の影に隠れるようなふうだった。松島の重なり合うどの島影の美しさよりもこのカップルの姿がずっと印象に残っている。また急ぎ足で駅のほうに引き返していると蓑を被った托鉢僧たちの列に出会った。夕暮れの古い街並みの中に消えていくその後ろ姿をみぞれが山水画のような幽玄の図に仕上げてゆく、ぼくもどこかの路地に消えてゆきそこからの記憶はない。
今回は天気がよく、島影はくっきり見え、カメラのシャッターは何度も押したが、観光客が多すぎたせいか、前回のような心に残るシーンにめぐり合えることはなかった。
しかし、今回の東北旅行全体を見ると心に残ったシーンはたくさんある。それは写真で残した固定シーンとはちがっていずれも数秒間の長さにわたり活動する態様をとっており、音や匂いを伴うこともある。たとえば、小坂君が首を傾げたり体を揺すりながらリコーダーを吹いているシーンとか、専務が持参したワサビ下ろしでワサビを擦っているシーン、あるいは盆踊りの列で前の女性が上手に体をひねって踊るシーンだ。
牝鹿半島に入り、荻浜に着いたころ日暮れとなったので、この浜でテントを張り三人で夕食を料理した。料理長は調理師の資格を持つ小坂君がなり、味にうるさい専務は味見係、ぼくは風向きの変化をつぶさに察知しそれに応じて座る場所の移動を繰り返し、常に風がバーナーの火を消さないようにする火守の役をした。空腹は最大のソース、サイクリング旅行中に食べるものでまずいものはないが、これに加えて天才的シェフ小坂君が腕を振るったのでぼくは旅が終わるころには太り気味になっていた。
酒を飲み過ぎたせいか早く眠くなったぼくは、先に自分のテントにもぐった。しばらく専務とシェフの話が聞こえていたが、静かになったかと思うときれいなリコーダーの音色が聞こえてきてアンデスの音楽が奏でられた。眠気をふりはらってそれを聞きつづけようとしたが、こくりと油断したすきに眠りに落ちてしまった。
8月14日
朝早く起きて辺りをひとりで散歩した。昨夕交換した古タイヤを捨てるところを探すためだった。やっとごみ箱を見つけてタイヤを捨てると、その近くに石川啄木の歌碑のあるという標識があった。高台の神社に通じる急斜面の階段があり、その途中に歌碑があった。歌は一泊した旅籠の少女との淡い恋を歌ったものだった。この旅の最終訪問地盛岡で、啄木新婚の家というのを訪ねたが、そこに置いてあった「全国啄木歌碑集」に荻浜で見た歌が歌碑の写真入りで載っていた。しかしこの歌のヒロインである少女とのくだりは解説されていなかった。もしぼくにも歌心があったらこの旅行記にもたくさん歌を記したいところだが、歌を詠むのはぼくの性分ではない。歌を詠じる人達はやはり徒歩旅行をするのであろう。歩きながら左手で短冊を持ち右手には筆を持って言葉が浮かんでくるままに芭蕉よろしくそれを書いてゆく。しかしサイクリストは常にハンドルに少なくとも一方の手を置いておかねばならず、言葉が浮かんできてもすぐに記録することは出来ない。そしてカーブを切るたびに名歌は脳裏から昇華してゆくのだ。それにぼくらはいつもテントで野営したので旅籠の少女との淡い恋というのもありえなかった。啄木の歌碑の傍にはみごとな浜ユリが咲いていた。
簡単な朝食のあと荻浜を出てしばらくすると雨が降り始めた。雨粒で眼鏡が見えにくくなり目にも雨が打ち込んでくる。ぼくは度付きの水中眼鏡を取り出してはめた。始めは便利だったが、しばらくすると内側と外側の温度差のせいでレンズが曇りだした。名案と思っていたこの秘密兵器も残念ながらレインランの問題解決にはならなかった。
牝鹿半島の背骨にあたる牝鹿コバルトラインを走った。用足しと水の補給のため、ある展望所のレストハウスに寄った。専務とぼくは体を温めるために温かいものが飲みたかったのでウェイトレスにホットミルクはあるかと問うとメニューにはないが特別に作ってあげましょうということになった。ぼくらは砂糖もたっぷり入れて味わって飲んだ。
小坂君が電話で天気予報を聞くとやはり午後まで雨は続きそうだった。牝鹿半島の先まで行って金華山を望みたかったがこの雨ではつまらないだろうということでコースを変えることにした。それで鮫浦湾の方に下り、半島を引き返した。幸い半島を出るころには雨は上がり景色も遠くまで見渡せるようになった。
しかしリアス式海岸はサイクリストにとってはきびしい。隣の入江に行くたびに峠を越えねばならないからアップダウンの繰り返しが続く。距離が進まないわりに体力の消耗が大きい。きょうは気仙沼まで行きたいという小坂君の計画が危うくなっていた。
雄大な北上川を渡ったところで村の旧青年団とのふれあいがあった。御馳走などに与かることになり、あとで礼状を出したのでそれをここにそのまま複写して次に進もう。
『拝啓、皆様お元気でいらっしゃいますか?8月14日でしたか、太陽もずいぶん傾いたころ、幅広き北上川を渡ってしばらく走って自動販売機のそばで缶ジュースなど飲みながら一休みしていると、庭で蓙を敷いて宴に興じる貴殿らに声を掛けられました。こっちへ来て一杯やらないかというのをぼくらが遠慮していると、「ふれあいを求めて旅しているのではないのか」と言われ、これには参りました。確かにそのとおりでした。
地図を片手に名所はしらみつぶしに訪ねても、人とのふれあいをパスしていたのでは思い出の乏しい旅となるのがおちです。ぼくらは大切なものを忘れかけていたわけで、それを思い出させていただきました。実際、雄大な北上川の思い出も貴殿らとの交流によりもっと豊かなものになりました。
さて、こうして午後の宴の仲間に入れていただきましたが、一杯だけのつもりの酒にもつい度が進み、さらにたいそうな御馳走にも与ることができました。止めどもなく焼き上がってくるウグイには堪能いたしました。緊張の続く自転車旅行の中のオアシスのようなひとときでした。旅の最中にて何のお礼もできませんでしたが改めて御親切に感謝いたします。その時の写真を同封しますので、皆さんにお分けください。
敬具』
その夜はかろうじて日暮れ前にたどり着いた志津川駅の軒先でテントを張った。ここでもシェフがリコーダーで食後の音楽を奏でたが、駅前広場に車数台で乗り入れて同窓会からの帰りのような感じではしゃいでいた男女の若者たちもしばらく聞き入り、やがて清酒の差し入れをしてくれた。その後シェフは自慢のリコーダー演奏をいろんなところで披露したが、必ずまわりのキャンパーたちなどから拍手を受け、しばしば食べ物や飲み物の差し入れもあり、ぼくもその恩恵に与った。
専務は信州の大王農園で買ったという自慢のワサビ下ろしで家から持参した特撰ワサビを擦り、ぼくらにも分けてくれたので刺し身やウニがとても美味しかった。美食家の専務はどんな所に行くときも特撰ワサビとこのワサビ下ろしを欠かさない。いっしょに知床に行ったときもこの下ろしのおかげで毛ガニをすばらしい味付けで食べることができた。
やがて駅前広場から若者たちが去ってゆくと誰が始めるでもなく話題は結婚のことになった。シェフはヨーロッパへの新婚旅行の計画を披露してくれ、専務は結婚生活についていろいろアドヴァイスし、ぼくも自分の結婚式や新婚旅行のときのことを思い出して話す。シェフと専務とは互いに相性のいい性格の持ち主であるのだろう、今回の旅で初めて知り合ったとは思えないくらい互いにうちとけあって話をはずませる。ふたりともとても酒が強いことも彼らをして互いに愛着を感じさせているのだろうか。酒に弱いぼくはやがてろれつが回らなくなってふたりについてゆけなくなり、そのうち完全な聞き手になって、ついうとうとしてくる。たまに専務やシェフの笑いやアクセントのある声で目が覚め、それでもまたうとうとを始める。
「ふざけんじゃねえってんだ・・・」目を開くと専務がバーボンウイスキーをぐいっと飲んでいる。彼は娘婿の悪口をひとしきり言ってから絶句する。・・・「箱入り娘でしたからね・・・」いつしかシェフは自分とフィアンセの父親とのやり取りを語っており、自分らも初めは仲がよいとは言えなかったが、何度か会っているうちにうまく話ができるようになった、だから専務も娘婿にもっと会う機会を持つべきです、というようなことを言っている。・・・次に気づくと、話はいつのまにかまたシェフのヨーロッパ旅行のことになっていた。「ロンドンに行ったら、ミントソースでラム肉を食べるんだね」そう言うとぼくは立ち上がり、歯を磨き、先に寝ますと言ってテントに潜った。「ふざけんじゃねえってえの・・・」専務がまた話題を元に戻したらしい。
8月15日
サイクリスト三大地獄というのがある。あとの二つがどことどこだったか覚えていないがひとつはこの三陸海岸だ。リアス式海岸は前にも述べたように狭い入江と入江が急峻な峠によって隔てられているので、海岸沿いに進むサイクリストは何度も上り下りを繰り返さねばならず、このため地獄の思いをするというわけだ。ぼくらはそこで今回は三陸海岸は昨日の一日だけということにして、志津川より列車で輪行して八戸までゆくことになった。駅員の話では、志津川から気仙沼線を北上するよりは、一旦気仙沼線を南下して小牛田駅に戻って、そこから東北本線に乗り換えて北上したほうが早いというのでぼくらはそのように切符を買った。
三人は大きな荷物を持っているので分散して列車に乗った。ぼくとシェフは同じ禁煙車に席を見つけ、専務は隣の喫煙車両となった。しかし乗換の小牛田駅にディーゼルカーが近づいたころ、専務が神妙な顔をしてやって来て、すまないが自分はこのままこの列車で南に向かう、と言う。持病の腎臓結石が気になりだしたということだった。そういえば知床を一緒に走ったとき彼は熊の湯温泉のトイレで石が出て、そのことを旅行記におもしろおかしく書いていた。彼は腎結石はそんなに深刻な問題ではないというようにいつもぼくらに語ってくれていたが、やはり出てしまうまでは気になるのだろうか。
ぼくらは残念がったが、彼の体のことは彼が一番良く知っているのでしかたがない。ぼくとシェフは専務を車中に残したまま小牛田で下りた。しかし専務は賢明な選択をしたのだということがあとでわかった。それはぼくとシェフのこれからの二人旅がさらに恐山、八幡平などの様々の難関が待ちうける過酷なものであったから、というわけではない、むしろぼくらの旅はこれからさらに素晴らしく展開するのだから。否。仕事において発想の転換をモットーとしている専務は、サイクリングツアーにおいても思いがけない提案をよくしてきたが、腎結石くらいでツアーよりリタイアするということは今までになかった。ではなぜ今回にかぎって・・・
彼はこのまま列車に乗ってゆけば福島に着くことを知っていたのだ。だからこの列車に乗ったときから彼はある選択を迫られていた。ぼくらと一緒に小牛田で乗り換えて八戸へ向かうか、それともこのままこの列車で福島まで下るか。後者のほうが彼にとってはずっと勇気のいる選択肢だった。しかし二つの物体が近づけば近づくほど相乗的に互いに引き合う力を増すように、専務は福島に近づくにつれ、始めはほんの思いつきだったことが次第に彼の中で磁力を増してくるのを感じた。そして彼は勇気のいる選択肢をついに選んだのだ。彼の今回のサイクリング旅行の最難関は福島にあった。ハネムーンから帰ったばかりの娘夫婦が新居を構える福島だ。
川上専務との別離はぼくらを急に心細い思いにさせた。仲間意識が強まっているときに仲間が一人でも抜けると、薪の束から一本が抜かれると束が緩むように、残された者は自分たちの結束が一瞬緩んでしまうのを感じる。締めなおすのにしばらくの時間がかかる。ぼくと若いシェフとは八戸に向かう電車の中で3年前の信州旅行のこと、そしてその後のそれぞれの歩みを語り合った。
彼は週日は仕事で毎日営業車を運転しており、特に担当地区の和歌山県内はほとんどの道を走り、自分がかつて自転車で苦心して登った峠などを越えるときにはその時を思い出し、それぞれのカーブの眺めを記憶の眺めと符合させながら通り過ぎた。休みの日には恋人とドライブを楽しんだり、後ろに彼女を乗せてオートバイで遠乗りしたりしてデートを重ねてきたという。しかし三年近くサイクリングはしておらず自転車はそのあいだずっと輪行袋に包まれたまま押し入れの片隅に置かれていた。彼はたまに重装備のツアー・サイクリストを見かけると胸騒ぎがするという。それは彼の内なる野性の叫び声であろう。そして自分の膨らみはじめた体にも不安を感じ始めていた。しかし恋人は彼に自転車での旅行を許さなかった。少なくとも自分が同行しない旅を許さなかった。彼女は自分もそのうちツーリング自転車を買うから一緒に旅行しよう、と言って理解者を装ったが、決して自転車を買おうとはしなかった。そして彼も自転車よりも恋人を選んだのであり、それはそれで自然であった。しかしある日曜日、彼女とドライブしていると、ロードレーサーのサイクリストがカーブを曲がり切れず木立に飛び込んだ。彼は急いで車を止め、血だらけで意識の朦朧としたサイクリストを背負い、自分たちの車に乗せ病院に運んだ。学生時代、北海道から京都に帰る途中、アルプス山道の下りでカーブを曲がり損ねてガードレールにぶつかったときの自分自身を思い出していた。病院では彼はサイクリストの手帳から電話番号を見つけ家や学校に電話して事故の連絡をした。その時の彼の懸命で献身的な様子を見た彼女はついに彼に再び自転車に乗ることを許したという。彼が彼女の心を自分のものにしたと初めて実感したのはその時だった。こうして彼はその年の5月の連休に久しぶりにツアーに出た。この旅行にはぼくも誘われたが、あまりに急だったので調整ができず断った。彼は一人で南九州の山岳地を自転車旅行し、その帰路に求婚を決意したという。
ぼくはといえば、信州旅行のあと、八丈島、宮古島、北海道2回と、計4回のロング・ツアーに出た。これだけのツアーをこなせたのも、シェフとの信州旅行の成功がぼくのツアーに対する自信を増大させていたからだった。シェフはそれらの旅行の様子をぼくの旅行記で読んで知っていた。また、それらの旅行記は彼の職場でも読まれたらしく、是非今回の東北旅行も旅行記にしてくださいと彼は強く希望した。ぼくは、仕事が忙しくなりそうなので約束はできないと言った。宮古島や北海道道南のときのように前半をぼくが書き、後半を専務が引き継いで書くということが今回はできなくなったのもぼくを億劫にさせていた。おそらく書かないだろう、とぼくが言うと、シェフは残念がった。
八戸に着くまでに、さらに二回列車を乗り継いだ。乗り換えるたびに違うサイクリスト達と車両がいっしょになった。たいてい高校生あるいは大学生らしい若者たちだった。サイクリング・ツアーをするにはもうぼくは年をとり過ぎているのではあるまいか、と不安な気持にさせられる。専務がいるあいだにはこのような不安は少しもなかった。どんな種類のグループにおいてもそうだが、その中で自分が最年長者であるということはいつも哀愁感を伴う。落第して進級できないで年少組のクラスに編入された生徒の心境だ。
ツアー・サイクリストたちはぼくの年齢を2で割っても足りないような連中がほとんどだから、ぼくももう本格的サイクリングからは引退が許される歳になったのだと考える。これからはミドル・エイジの特権を与えられてもいいのではないかと思っている。もうぼくらは役目を果たした。これからは楽をして楽しむことが大いに許されるべきだ。山を越えるときも、若い小坂君は自転車で登り、ぼくはバスに乗る。そして7合目くらいにある「なんとか温泉前」のバス停で下りて、温泉につかりビールを飲んで一眠り、目が覚めてから自転車を組み立てる。すると出発時とは見違えるほど日焼けして、身も引き締まり精悍になった小坂君が汗を垂らしながら自転車をこいで登ってくる。そしてぼくら二人は並んで自転車でくねくねする急な登り道を攻める。登りの呼吸を知っているぼくは彼から離されることはない。8合目を通りかかるとたばこを口にした専務が「ごくろうさん、遅かったね」などと言ってにこにことぼくらを迎え、こんどは三人で頂上を目指す。こういった秩序正しい段取りがぼくらのツアーをより楽しいものにしてくれよう。
ぼくらは昼になるとディーゼルカーの中で昼食をすませた。ぼくは食パンにバターを塗った。自転車走行中ならプリムスの把手付き金網を用いてパンをトーストしてバターを塗るところだが、車中では火は使えない。
食後の浅い眠りから目が覚めると、シェフが車掌と何やら話をしている。気の弱そうな車掌は、シェフに証人になってくれと言っている。何の証人かというと、特急の通過待ちで暫く停車した前の駅でこの車掌が確かに出発10秒前の車内放送をしたという証人だ。なぜそんなことの証明をせねばならないのかというと、運転士がその放送をしなかったと言い張り、上司にそのことを報告してやる、と車掌を脅かしたからだ。そうなると車掌は自分のボーナスに影響がでるというわけだ。車掌が本当に放送したのかうっかり忘れたのか眠っていたぼくには定かではないが、それをいちいち上司に報告するという運転士も大人げない。シェフは証人になることを約束して、住所電話番号、それにこれからの旅の行く先までも車掌に知らせた。
ディーゼルカーがやがて八戸駅に着くとぼくらは早速駅前広場で自転車を組み立てた。するとさきほどの車掌がにこにこしながらやって来て、「お蔭様で話がうまくつきました、ありがとうございました」と丁寧に礼を言い、ぼくらの旅の無事を願ってくれた。
八戸からは自転車で北に向かった。製紙工場の横を通り、やがて国道338号線に入る。平坦な楽なコースが続く。町や村ではねぶた祭りの準備が進んでいる。すでに山車の行列が行われているところもあった。子供たちもはっぴや浴衣を着て並んで歩く。笛や太鼓の音が狭い路に響く。ぼくらは初めはこれらを珍しく思い、自転車を止めて写真を撮ったりしたが、やがて素通りすることが多くなった。
砂森というところで野営することにした。国道から少しそれたところに盆踊りのセッティングがされた広場があり公民館風の立派な建物と、新築の神社もあった。神社の境内にてぼくらが夕食の準備をしながらビールを飲んでいると、車が一台また一台とやってきて広場には浴衣姿の人々がたまってきた。そしてしばらくすると風格のある初老の男性がぼくらのところにやって来て東北弁で何やら話す。ぼくは彼の言っていることが定かにはわからなかったが、シェフはかなり理解できていた様子だった。やがてこの男性を親分と呼ぶ若い衆が二人ほど近づいてきて親分の言い分をもっとわかりやすい東北弁で補佐する。親分と呼ばれる人は村長で、無断でこの村の公共施設の敷地内で野営することに関し苦言を呈したのだった。ぼくらは丁重に応対し何とか許可を取ることができた。
食後、ぼくは小坂君に散歩に行ってくると言って席を立った。やがてほろ酔い気分のぼくの千鳥足は遠回りをしながらもいつしか盆踊りの人の輪の中にぼくを運び込んだ。すると目の前にやさしい体つきの浴衣姿の婦人がおり、上手に踊りながら後ろ向きにさがってくる。彼女の振り向き際に目と目が会った時、ぼくはつい後ずさりするのを忘れてしまいぶつかりそうになったが、彼女は敏捷な動きでぼくをよけた。
踊りの身振り手振りは曲ごとに一連の動作が組み合わさってできており、その手振りの中には前後の人と手を取り合うという場面もあり、これが何ともうれしい。しかしたいてい若い女性はただ細い手をこちらに差し延べるだけで手が届かないふりをしてこちらの手を握ってくれることはない。
やがて遅れて来た人達も踊りの列に加わり、輪は大きくなり、一重の輪が二重の輪になり、これらが同じ方向にぐるぐる回りながら祭りは高揚してゆく。ぼくがなかなか戻ってこないのを怪しんだ料理長はぼくのあとを追い広場にやって来て、ぎこちなく踊っているぼくを見つけ、笑いながら彼もこの輪に加わった。
この盆踊りに参加してくれたということで、村人たちはぼくらにも恒例のお楽しみ抽選会に参加する権利を与えてくれた。ぼくも小坂君も当たらなかったが、参加賞としてウェットティッシュ一缶ずつをもらいこれが旅行中に大いに役に立った。
ぼくらが神社の食卓にもどって飲みなおしていると、盆踊り大会が無事終了したことで上機嫌になっていた村長たちがまたやって来てこれを飲めと酒や缶ビールをくれ、ひとしきり話して行った。この地は三沢市の一部で、主要農産物は米だということだったが、この年は冷夏で彼らの収穫は皆無に近かったのではなかろうか。地元から出た有名人はと聞くと、三沢高校の太田幸司ということで、ぼくらが将来有名になったらこの村のことを思い出して恩返しをしてくれというようなことを言っていた。人との交流のあった地はいつまでも記憶に残る。
ぼくらはその夜は結局神社の社の中で眠った。
8月16日
朝、ぼくらが社の中で後片付けや掃除をしていると、村長がやって来て、しばらく話をする。こういう旅行をするのはみな学生という先入観があるのか、ぼくまで学生と思われていたようだ。ぼくらが自転車に荷物を乗せていると、彼はぼくらが手荒なことをしていないかと心配そうに新築の社の中を見回していた。自転車に荷造りが終わって、村長にお世話になりましたと礼を言うと、無事な旅を祈ってくれた。
砂森を出て338号線を北上し続けると、やがて六カ所村に入る。原子力発電関係の施設が林立する。多くの一流電気会社が看板を建てており敷地を確保している。
しばらく行って、川に差しかかると橋の上から大きな納豆入れのような藁の束を川に投げ込む男性がいた。よく見るとその中には色とりどりの供え物が入れてある。この辺のお盆の習慣なのだろう。
横流峠を越えてむつ市に入る。公衆電話の横で困ったように地図を見ていたロードレーサーの青年がいたのでシェフが話しかけると、きょうのうちに北海道に渡りたいが大間港から最終便が出る時間までにそこにたどり着けそうにないのだと言う。シェフは確か大畑からも北海道に行くフェリーが出ているはずだから電話してみたらとアドヴァイスした。すると確かに室蘭行きのフェリーが2時間後に出る予定だった。彼は感謝して去って行った。
ぼくは前タイヤの膨らみが一様でないのが不安になってきていたので、自転車屋に寄り一度空気を抜いてバルブの付け根のナットを緩めて空気を入れ直した。こんどはきれいに膨らんだ。それからぼくらは恐山を目指してむつ市を出た。坂を上っていると、先ほどのロードレーサーの青年が登ってきて、恐山を越えて大畑に行くことにした、と言いながらすいすいと追い越して行った。
ぼくは標高874メートルの朝比奈岳を見つめながら、あれが恐山頂上かと思いながら力んだが、実は恐山はもっと低いところにあった。途中、湧き水を樋のようなものに集めて利用しやすいように流している所があったので、顔を洗い水筒を充填した。ここまでの登りでぼくはへばりかけていたので、この休憩場所はオアシスであった。恐山は、むつ市側から登ると古い一里塚がずっと並んでおり、あと霊場までどのくらいあるのかわかって便利だ。あと数里となってくると、なんだか霊気を感じているような気がしてくる。そしていよいよ霊地が近いぞと思っていると、急な下り坂が始まりしばらく続くので道を間違えてしまったかと不安になる。しかしこれが湯坂で、そのまま下ってゆくとエメラルド色の宇曽利山湖が現れ、太鼓橋まで下りは続く。
湯坂を猛スピードで下ってゆくと、先に着いていた小坂君が太鼓橋の向こうの箱のような小屋のそばに立ってぼくを手招きしている。行くとその中でイタコが何やら呪文のようなものを唱えておりその前に夫婦らしい中年の男女とその息子と思われる高校生くらいの男子がうつむき加減でそれを聞いていた。ぼくが着いてからはすぐにその呪文も終わり、夫人はおいくらですかと尋ね、イタコは相場は三千円ですと小声で答えた。それに対して夫人は機械的に千円札を三枚差し出した。それをイタコはつまらなさそうに受け取った。死者の口寄せはなされなかったのだろうか、あるいはなされたが死者がろくなことを言わなかったので夫人が腹を立ててしまったのであろうか。占い師もそうだが、客から多くを望むなら客が聞きたがっていることを言ってやるのが基本だ。
次にぼくらは賽の河原に向かった。そこに行くためには、宇曽利山湖の北岸にある霊場恐山菩提寺の門を入らねばならない。閉門時間が過ぎていたのか正門がもう閉まっていたので横の通用門を通って中に入り、地蔵堂などを訪ねた。死者の霊が集まると言われる境内には、硫黄の匂いが漂い異様な雰囲気が醸し出されている。賽の河原には至る所に石積がされており、この上に糸トンボたちが止まっている。岸辺の石に登ってまさに脱皮してトンボになろうとしているヤゴもいた。湯煙の出る石置き屋根の古いバラックのような建物がいくつかありそれらは温泉小屋であった。ひとつを覗いてみるとそれは混浴だった。肌からもうもうと湯気をたてながら婦人たちがちょうど更衣室にやってくるところで、ぼくらは遠慮して彼女らが着替えるのを待って中に入った。熱い湯だったが我慢してつかって旅の疲れを癒した。専務がいれば喜んだろうに、とふたりで彼の不在を残念がった。専務が去ってからというもの、ぼくらはすばらしい風景や温泉などの恵まれた経験をするとたいてい、「専務がいたら・・・」という言い方でこれらを愛でた。この温泉へは翌朝も訪れてつかった。
ぼくらは宇曽利山湖を臨むバス待合所を兼ねるレストハウスの庇の下にテントを張った。この湖は強酸性のためウグイしかすんでいないという。夕食を済ませ、ビールを飲んでいるとタクシーがやって来て目の前で止まり、サイクリングウェアを着た困った様子の青年と運転手が下りてきて、白い服と黒のパンツで赤のロードレーサーに乗った男は通らなかったかと聞いた。話によるとこの青年はスピードに乗って先に行き過ぎて相棒とはぐれてしまいタクシーで引き返して来たのだった。すでに日は沈みもう見つけることは難しかろう。仲間と走るときにはトップは独走してはいけない。
ぼくはこの霊気豊かな恐山は賽の河原のほとりで寝るなら、今は亡きある美しきひとと夢の中で再会できるのではなかろうかという期待を持って就寝した。しかし疲労のせいかぐっすりした眠りが訪れ夢さえ見なかった。
8月17日
始発のバスが来る前にテントを畳んで、朝湯に入り、簡単な朝食をとった。賽の河原を遊歩してから、恐山をたって、あすなろラインを下り薬研温泉に向かう。奥薬研のほうにしばらく進むと途中に川原の岩場が露天風呂になっている所に出る。河童の湯という。ぼくらはここで朝二度目の温泉につかり、清流で冷やした缶ビールを飲む。岩魚釣りの人達がたまに対岸の細道を通る。口癖になった「川上さんがいたらなあ・・・」を連発した。いいところは専務の目で見てしまう。
大畑町へ下って279号線を北西に進み、下北半島の突端大間埼を目指す。このあたりは逆風を突いて懸命にペダルをこいでゆくだけで特に記憶に残っていない。途中の掲示板に「本州最北の灯台である弁天島大間埼灯台を現在一般公開中」とあり、少しでも生家に近づきたいシェフの希望で島に渡ることになった。小坂君の両親の家は海峡を隔てた函館にある。弁天島への最終の渡船は4時であったので、ぼくらは急いだ。逆風だったが4時より10分くらい前にたどり着いた。岸壁に本州最北端の碑が建っており、まず記念撮影をした。そばに二階建ての小さな展望台があり、車道を隔ててみやげ物を売るたくさんの小店が並んでいて、市のような雰囲気がある。
島に渡るための切符を求めるために展望台横の切符売り場に行くと、そこには防波堤をバックに仮設された白い屋根テントがあり、その下に高校生らしい男女がテーブルに5・6人座って雑談していた。夏休みのアルバイトであろう。まだ島に行く船は出るのかと聞くと、一番そばの少女がはいと言って氏名と住所を書くようにと乗船票を差し出した。するととなりの女の子が唐突にアハハと笑いだした。ぼくは乗船票に名を書こうとする手を止めて、どうしたの、と問うとこんどは連鎖的に女の子たち皆が笑いだして、ひとりがやっとのことでなんでもないのだというようなことを身振りで示した。それでも笑っているので何がそんなに面白いのか気になったが、箸が転がっても笑う年頃の女の子たちだ、たいしたことはないのだろうとぼくは問い詰めなかった。しかしあとまで気にはなった。ぼくのいでたちがおかしかったのだろうか。今その時の本州最北端碑を背にした記念写真に写る自分たちの姿をながめて我ながらずいぶん野性的な恰好だと感心する。我々ツアーサイクリストの多くは美的要素よりも実用性を重んじて服装等を選ぶ。したがって、そのまま町中に出ると好奇の目を引くような服装も敢えて避けない。そしてその服装は旅を続けるにしたがってさらに変容しついに自転車なしでは説明のつかない様子となる。自転車がすぐそばにあれば、人々は風雨をくぐってやってきたつわものサイクリストとすぐわかりその服装の異様さにも納得できかえって尊敬の眼差でぼくらを見つめもしようものだが、ぼくらが自転車なしでこの風化しかけた非日常的な身なりのままうろついたら、それは怪しい姿を呈し警戒されるか、あるいはまだ人を疑うことを知らない少女たちにはとても滑稽で思わず吹き出さないではいられない姿としてとらえられるにちがいない。箸が転がっても笑う女の子たちなのだ。こんなわけで、ぼくからおくれてやってきて切符を求めた小坂君も少女たちの大笑いのうちに名前と住所を乗船票に記入した。彼も少女たちにどうしたのかと問うのであったが、それは火に油を注ぐように笑いをさらに高めこそせよ説明を引き出すことはできなかった。箸が転がっても笑う乙女たちよ、今のうちに笑えるだけ笑っておけ、そのうち君らは涙をもってつわものサイクリストを見送る日もくるだろうから。
焼きイカを買って食べたりトイレに行ったりしていると最終船の出発の時間が来てしまった。一旦出発しかけたのを呼び戻して乗った船は十数人乗りくらいの船外機付きボートで、これには大人の操舵手の他に補助船員として中学生らしいアルバイト少年が乗ってロープを渡したりして手伝う。彼らは皆同じデザインのジャージを来ていたので、ここでは町ぐるみでこの特別企画に勢を出しているらしい。最北端とか最南端とか「最」の字がつくとつい行ってみたくなるのが人間の性格で、おかげでこの町にとってこの企画のある夏が年間で一番の稼ぎ時なのかもしれない。そういえば、日本最北端の稚内では、最北端到達証明書というような手形みたいなものを売っていて、みんなが買うのでついぼくも買ってしまった。ちなみに小坂君はこの「最」のマニアで、学生時代は日本の最がつくところを狙って何度もツアーに出ており、ほとんどすべて回っている。しかし自分の生家の近くの「本州」最北端は盲点だったらしい。
弁天島には多くのウミネコがいた。ぼくは今までウミネコとカモメはてっきり同じものだと思っていたが、ウミネコはカモメとちがってくちばしの先に赤と黒の斑があり、尻尾の先端が帯状の黒色をしているのだそうだ。「ウミネコがいるところで餌を投げ上げるとそれが落ちないうちにかすめてゆきますよ」とシェフが子供のころの経験を思い出して言った。
灯台の中に長い螺旋階段があり,これを昇るのに一汗かいた。階段が終わると外の展望回廊に出る。一周すると、手すりにもたれてシェフが感慨深げに函館のほうを見つめている。海峡を隔てているとはいえこの辺の生活様式は対岸の函館とそっくりであるらしく、子供時代に遊びなじんできた漁港の様子が海の香りに乗ってよみがえり彼は旅愁の中にひたっていた。中学時代はブラスバンドでフルートを吹いており、漁港の防波堤によくやってきて練習した。ある夕方、学校からの帰りに練習していると、湾の向こう側からカラスの大群がまるで彼を襲おうとしているかのようにカアカア鳴きながら飛んでくる、後ろの函館山に帰ってきているのだと知っていながらも彼はおののいて立ち去ろうとする、そして振り返ったときに見た西空の夕焼けの何と美しかったことか。アーアーと鳴きながら先頭のカラスが頭上をかすめていった。
ぼくらはみんなが去っても灯台にいたが、最終の船が戻るというのであわてて船着場に行った。
その夜は佐井のキャンプ場で野営することになった。ここでシェフが食後にリコーダーでアンデスの音楽を奏でると、となりにテントを張っていた家族から喝采を受け、ぼくらは食卓に呼ばれた。カレーライスやさいぜんに海に潜って採ってきたというアワビやもずくが皿に盛られてぼくらの前に置かれた。よく冷えた缶ビールも回された。聞くと、そこの奥さんは久慈の海女で、街ではスナックを経営しているという。亭主は横に座っていたが、座を仕切っているのはその海女さんだった。シェフがさらに数曲披露すると、拍手をしたりリクエストをしたりするものの恥ずかしがってテントの中から出てこなかった男女の子供たちがお返しにと「翼を下さい」を合唱してぼくらを楽しませてくれた。シェフはこれに対して自分の十八番「コンドルは飛んでゆく」を演奏して皆を感嘆させ、子供たちもついにテントから一人また一人と出てきた。
この曲に関してシェフには逸話がある。初めて聞いたときから彼はこの名曲をいたく愛し、そのためにアンデスの民族楽器ケーナをマスターしてこの曲を吹けるようになろうと願った。彼は十分な小遣いを貯めるとすぐにその縦笛を買い求めた。しかしリコーダーに慣れていた彼はその笛に穴が七つしかないので一つ足りないと早合点し、憤り、あっさりその笛をあきらめて人に与えてしまった。
シェフよ、君は間違っていたよ。ケーナは穴が七つで正しいのだ。表に六つと裏に一つ。それですべての美しい音が出せるのだよ。しかし、ケーナのことはもうしかたないとしよう。だが君は今から奥さんを娶ろうとしている。この場合はそう簡単に話は納まらないのだよ。くれぐれも早合点しないことだ。辛抱してマスターすれば必ず・・・それはもうケーナよりも美しい音が・・・
8月18日
夜半、雨が降ったようだったが、朝には上がった。潮騒で早朝に目が覚めたぼくは、テントから出て顔を洗った。余分にビールを飲んだので二日酔い気味だ。水をたくさん飲んで、さらに昨夜飲み残した気の抜けたビールを向かい酒に飲んだ。そしてザックからポケット・ワープロを取り出して海のよく見えるベンチまで歩き、そこにすわって昨日のことなどをメモした。しかしたいして書くことはないようだったので十行足らずで終えた。
怒濤を聞きながら崖の上の小道を散策する。地図を持たないぼくは、今自分たちが下北半島のどの辺りにいるのか定かではない。このような呑気さはぼくの人生においても見ることができる。自分は40代半ばにさしかかろうとしているが、今が盛りの熟年パワーファイターなのか、まだよくわかってない若僧なのか、あるいはもうそろそろ老後の設計を真剣に考えるべき初老なのか、よくわからない。だからこの歳になってもサイクリング・ツアーなどに出てくるのだろう。今自分が人生のどの辺りにいるのか定かではない。かなり来たことはよくわかるが、まだ先がどのくらいあるのかわからない。まだまだ急坂のダート道を選んで、汗だくになりながら自らを鞭打って登らねばならないのか、もうこの辺でなだらかな下りの遊歩道に入って適度にブレーキをかけながらのんびりと下っていけばいいのか。
すると小坂君がテントから出てきて「きょうは海峡ラインを走ります、楽じゃありません、山間部に入ってアップダウンが続き、ダートもたくさんあるでしょう、がんばりましょう」と言う。ぼくはできるだけ平静をよそおって「オーケー」と言う。
一時間後にはぼくらは海峡ラインを登っていた。中国画の中に出てくる古の人物像を思わせる奇岩の並ぶ仏ケ浦を見下ろしながら崖の上に造られた道を行く。やがて海を離れ山間に入る。きらめく海がたまに山の切れ目から見えると美しい。日差しが強く暑いが、高地のため空気はひんやりして風は気持ちいい。途中牧草地があり、牛が放牧されていた。ダートが多いラインで車が通るとほこりが舞い上がりつらい。舗装工事中の所がいくつもあった。
見晴らしのいい道端でパンと魚の缶詰とソーセージの昼食をとる。ぼくは食パンをバーナーでトーストしてイチゴ・ジャムをたっぷりつける。小坂君はいつものように食パンにマヨネーズをべったり塗ってほおばる。この夜々の美食家も昼にはトライアスロンの選手がレース中にとるような簡便な食事を早々に済ませる。しかし彼女から持ってゆくようにともらったビタミン剤をいつも飲んで栄養バランスにぬかりない。そして食後には愛用のトウモロコシのパイプに火をつける。その時ぼくは岩などにもたれて読書をする。今回は読みやすい英語で書かれた Roger Lancelyn Green の「トロイ物語」から20数枚を切り取って持ってきた。読み終えた頁葉を一枚ずつ捨てていく。毎朝の満員電車で本を開くスペースにも窮するサラリーマンの得た知恵だ。シェフはパイプを吸い終わると、こんどはその掃除を始める。そうしている間にぼくは二三枚は読み捨てることができる。
海峡ラインはやがて脇野沢川と合流し下りになる。脇野沢村に入ると「世界のサル生息北限地」という標識があり、小さな公園があった。中には猿の山があり、外の山へいつでも戻れるよう通路のようなものもあった。ぼくは飲み干して空になったコーラの中瓶を吹き鳴らしてサルたちの注意を引こうとしたが、サルたちには無視され、手すりにもたれてサルを観察していた小坂君の注意を引いただけだった。
この地が世界のサルの生息北限であるなら、サルたちはここまでは自力で北上してきたというわけだ。しかしここから先はどうにも北にゆけそうになく自分たちの限界を知ってとどまった。同じ霊長類である人間にとってもこの辺から北はもともとは住むべからざる地であったのかも知れない。ここから北は熊や鹿、狐などのより寒さに耐えうる動物たちだけに与えられた聖域だったのかもしれない。しかし火を得た人間は容赦なく北上を続け、ついに地上から生息北限をぬぐい去って北でも支配者として君臨した。だがサルの生息北限がいつもぼくら霊長類に、ここから北はまちがいなく他の動物の固有の北方領土であることを印し続ける。
脇野沢港に着いたのは4時頃だったろうか。もう青森に行く最終フェリーは出てしまっていたので、ぼくらはとなりの九艘泊まで行ってキャンプすることにした。九艘泊から先は道がなくなる。そこまでの海岸道路は海の景色が面白い。牛ノ首岬、鯛島と、見る角度によりさまざまのものを連想させる奇岩が海の中から突出している。イカを干している漁婦たちがいたのでシェフが自転車を止めて話しかけ、「一匹なんぼで売ってくれますか」と問うと、大きいのをひとつただでくれた。九艘泊に近づくにつれ逆風が強くなりぼくらを苦しめる。最後の岬の曲がりでは自転車が停止しそうになってぼくは立ちこぎをした。
九艘泊の唯一の食料品店に入って食購したが、魚はなく、けっきょく店の若奥さんの好意で干魚を一束もらった。それは売り物でなかったのでサービスだった。九艘泊で車道は終わり、あとは岸壁の下を歩道が、それもところどころ海水によって洗われていてかろうじてマウンテン・バイクで行けるような舗装された細道が続く。この道の終わるところに小さな入江があり、そこに村営のキャンプ場がある。バンガローもあった。ぼくらはここにテントを張った。まだ5時になっていない。ぼくは、度付き水中眼鏡とスウィミングパンツを持ってきていたので泳ぐことにした。しかし冷夏のため水は冷たく早々に切り上げた。水道で頭と体を洗ったあと、こんどは展望所があるらしかったのでひとりで岬を登り、木造の展望台に上がった。海が様々の色をしてきらめいている。沈みゆく真紅の太陽とピンクの雲と青い空気と緑の島々が映り、無数の波に断たれてドットに変えられ混ざり合いゴッホの絵のような海を展開していた。
ぼくらがテントを張ったそばにすでに一人用のテントが張られてあり、ぼくらが洗濯をしていると、そのテントから若者が出てきて挨拶をした。話によると室蘭工大の三年生で、夏休みを前に早々に留年が決まってしまったのでもう今年度は学校をずっと休み、オートバイでひとり旅に出ることにしたという。できれば九州まで脚を延ばしたい、しかしお金はたいしてないのでアルバイトをせねばならないという。できるだけ食事は質素にするが、好きな酒だけは毎晩欠かせないのだという。そしてこれから脇野沢村へ一走りしてウィスキーを買いにゆくが、何かついでに買ってきて欲しいものはないかと問うた。ぼくらは酒のつまみを頼んだ。そしてお礼に彼を夕食に招待した。
シェフとぼくは山の枯れ木や浜に打ち上げられた流木などを集めて饗宴の準備をした。まだ日の暮れないうちに起こされたキャンプファイアーが音を立てて空気をむさぼり始める。米が炊けて、日が暮れかけても村に行った工大生は戻ってこなかった。ぼくらは待ちくたびれて漁婦にもらった干しイカを焼いて肴にして酒を飲んで待った。シェフの小型ラジオが青森からの放送をキャッチして鳴っている。他のいくつかのキャンパーグループが食事を始め賑やかな談笑が聞こえてくる。多くは釣りに来た人たちのようだ。やがて工大生が帰って来てぼくらも食事を始めた。火にさらされた干魚が香ばしい匂いを放ちながら身をよじらす。虫たちが飛んできて火に入る。
工大生は飯を頬張りながらシェフの人生観を感心しながら聞く。会社に入ればどこの学校を出たかなどはまったく問題でなくなり、実力で社員は評価される、とシェフは断言し、ぼくもそれに相づちを打った。それはシェフの自らの体験に基づく意見だ。彼には二流大学から一流会社に入り、そこで超一流の女性を射止めたという自信があった。工大生は勧められてすまなさそうにご飯のお代わりを盛りながら、「留年などしたら就職は難しいでしょうか」と問うた。ぼくは、その留年の間に何をするかによっては4年で卒業するよりはよりバネをきかせて社会に出ることができよう、と言った。これもぼくの体験に基づいている。ぼくは大学で2年留年しており、その間に英語で飯を食う自信をつけたことを話した。すると工大生は箸を止めて飯を食うのを止めしばらく何かを思案しているふうであった、が再び思いなおしたように箸を忙しく動かせて食べ始めた。
食後に工大生のウィスキーがふるまわれ、ぼくらの心は高揚し北海道に飛び、彼の地の讃美がひとしきり語られる。あたりのいくつかの大型テントの中から老若男女の笑い声がたえず聞こえてくる。
キャンプ場の夜はいつまでも騒がしいようで、夜半にテントの中で目が覚めてみるといつしか空気の動く音しか聞こえない静寂が訪れている。ぼくは寝返りを打って美しきひとたちのこと思い巡らす。そしてそれもいつまでもきりがないようで いつしかまた眠りが訪れている。
8月19日
「'93 北海道を楽しく,安全に,快適に。Safety Summer Hokkaido HOKUREN 」。翌朝工大生がぼくにくれた黄色い三角フラグにこうプリントされてあった。ぼくはこれを旅行が終わるまで自転車の後部に取り付けて走りつづけた。
のんびりしている工大生と別れてぼくらはキャンプ場をあとにし、釣りをする人のたまにいる崖下の歩道を、海にはまらないようおそるおそるペダルをこいで行った。九艘泊の漁港に行って青森に行く船の乗船券を買い、しばらく時間があったので漁港を散歩してみた。イカや魚がたくさん水揚げされており、老漁婦がいくつかの容器に振り分けていた。すると一匹小型のサメがいて、これも食用になるらしかった。一尾だけギザメがいたが見向きもされていないようだったので、どうするのかと聞くと、そんなのは食べやせんで捨てるのだ、と言う。このカラフルな魚はぼくの好物で、少年のころ瀬戸内海で舟に乗って沢山釣ったことがあり、酢醤油で食べるときのそのあっさりした味はぼくの味覚をいつも快く刺激した。しかし北の地方ではあっさりした味は物足りないのだろう。ラーメンもそうだ。
船が来る時間が近づいたので船着場に自転車を移動した。魚はいるかと海面を見ていると海底が見え、白い自転車が一台横たわっている。だれかが船に自転車を乗せようとして失敗して落としてしまったものらしかった。ぼくらは大量の荷物を装着したマウンテンバイクを船に担ぎ込むので足場をしっかり確保しながら乗り込まないと足を踏み外し自転車どころか人間も海の中にはまってしまう恐れがあった。ぼくは不安になり少し荷を自転車から外して待機した。仏ケ浦のほうからやってきた水中翼船は定刻に到着し、ぼくらは無事に自転車とともに乗り込んだ。船はテープ放送による観光ガイドもしながら脇野沢港に向かった。脇野沢港で多くの人が乗り込んできたが、盆が終わって青森に戻ってゆく人達だろう。見送りの中には孫たちとの別れを涙ぐんで惜しむ老人たちもいた。
水中翼船は陸奥湾を横切って青森に入港した。ぼくらは一般の乗客が降り終わるのを待って自転車を押して下船する。波止場に退役した青函連絡船が記念館として接岸されていた。シェフはぼくを青森の魚市場に案内してくれた。そこでスモモと盆用に作られた生菓子を買った。しかしスモモは道中で落としてしまい、生菓子はすぐにいたみはじめ、たくさん捨ててしまった。
青森の町の大通りを走ってぼくらは十和田湖方面に南下してゆく。ぼくはシェフを見失わないように追いかける。そのためには信号が赤に変わりかけても交差点を走り抜ける。そうしていると、横道に巨大なねぶたが運ばれているのをかいま見た。しかし小坂君はどんどん先に進むのでゆっくり観察する余裕はなかった。逃がした魚は大きいと言うが、おそらくそれはぼくが生涯で見るもっとも大きいねぶたとなるであろう。
ぼくらはやがて国道103号線に入り、ひたすら南下する。小坂君は南下すればするほど元気を回復してくるようにピッチを上げた。まるで何か魔物にとりつかれているかのように彼はぼくのほうを振り向きもせず邁進した。その魔物は万有引力だ。ニュートンの法則が彼の魂をも質量の核としてとらえ容赦なくもう一つの核に加速度を与えながら近づけさせていたのだ。これら二つの核が激突し核融合したときなんと恐ろしいエネルギーが生じることだろうか。小坂君、料理長よ、ここらでもうぼくらのふたり旅は終わっていたのだ。なぜなら君の心はもう東北にあらず、小坂の貴婦人のもとに行ってしまっていた。ぼくは君の脱け殻と旅を続けねばならなかった。そしてこの頃ぼくはようやく今度の旅の君の目的を悟ることができた。それはちょうど走り幅跳びや、走り高飛びの選手が助走をするためにいったんジャンプ位置より遠ざかるように、君も助走のためにわざと彼女から遠ざかったのだ。彼女という高いハードルをクリアしてそれを支配するためには十分な助走が必要だった。そして青森から助走を開始した君はもう一つのものしか見ていなかった。
このことを裏付ける現象が彼にはあった。ぼくのマウンテンバイクの後輪は国道103号線に入ってから、八甲田山に向かうときと、十和田湖を出て黒森山のあたりを走っているときと、一箇所また別の箇所と二度ほどパンクした。いずれもタイヤの耳が過重な負荷のために疲労してしまい、高圧チューブを封じ込めきれなくなり、ついにギブアップして、チューブを漏らし、黒いチューブは唇から膨らまされる風船ガムのようにみるみるうちに大きくなり、なすすべもなくそれを見つめているぼくの目の前で炸裂音を発してバーストしたのだ。しかし先に行っていたシェフは将棋の香車や桂馬の駒のように一度進んでしまうと戻ってこれないらしく、ぼくがずいぶん長くチューブ交換やらで停滞していても決して引き返して来ることはなかった。二度目のバーストの時は修理のめどがたたず自転車を押して進んだが、彼はあるところでじっとぼくの来るのを待っていた。しかし彼を無情と責めることはできない。いったん助走を始めた者が後ずさりをするだろうか。物体は万有引力に逆らって動くことができようか。否、彼はもうだれも引き戻すことができないくらい強く彼女に引かれてしまっていた。
青森を出てしばらく行くとゆるやかな登りが始まり、遠くに八甲田山が見える。萱野高原に到り、レストハウスのいくつかある萱野茶屋で自転車を降りた。多くの人が車を止めて食事や休憩をしていた。修学旅行の生徒たちも多かった。近くの林の木陰にてシートを敷きのんびりと昼食をした。食後の昼寝をしていると、小坂君がレストハウスのみやげもの屋から記念のキーホルダーを買ってもどってきた。
彼のコレクションはかつては各地の記念バッヂだった。北海道旅行や信州旅行のときは、彼は大量に集めた日本各地のバッヂをよれよれになった古いサイドバックの表面いっぱいにピン留めしていたので、ただでさえブルドッグの頬のようにくたびれて垂れていたサイドバッグがずしりと重いたくさんの金属バッヂにピン留めされてさらに痛々しかった。が、今はもうそのバッグはたくさんのバッヂとともに彼の自転車から姿を消してしまった。信州の山道で革のストラップが切れて装着不能となってから彼は新しいサイドバッグを購入し、バッヂはもう付けなくなった。それから彼のコレクションもバッヂからキーホルダーに変わったようだ。
103号線はこの辺りから八甲田山のすそ野を廻りながら延びる。この山は、新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」を読んで以来、いつか登ってみたいと思っていた。しかし今回は登ることはしないですそ野を巡って十和田湖方面にそれることにする。
話も少しそれるが、ぼくは冬のアウトドアスポーツとして山スキーを好んでいる。山を重いスキーをはいて登ることを非合理的と考える人が多いようだが、実は雪山を登るのに山スキーはもっとも効果的履物である。スキーの裏にシール(語源はアザラシの毛皮)を貼るので、スキーは雪面を後ろ方向に滑りにくくされ、かなりの急斜面でも蛇行すれば容易に登れる。また広い面積を足場にすることになるので、ズボッと深雪に足を差し込むこともない。おまけに下りるときは、シールを外してすいすいと新雪をすべって下りてくることができる。しかしそれでも不信に思う人には「山スキーの本」(小泉共司・奥田博著)よりの以下の引用文を提示したい。
「明治三十五年に起きた、青森連隊の八甲田山雪中行軍の遭難は、実は山スキーと大いに関係がある。その大遭難を知ったノルウェー政府は日本政府へスキーを贈呈したという歴史的事実である。かのレルヒ少佐がスキー術を伝える二年前のことであった。」
実に八甲田山の悲劇は日本にスキーが伝わるのを早めたわけだ。川を渡るのに舟が考えだされたように、雪原を渡り歩くためにスキーが考案された。スキーは今はゲレンデを下るための履物として最もポピュラーであるが、その有用性は登るときにも大いに発揮される。そして悲劇の雪山八甲田は今では山スキーヤーたちの最高の溜まり場の一つである。
さて、やがてぼくらは、酸カ湯温泉に到る。ここまでの登りの道中、「スカイ」温泉と聞き違えていたので、ずいぶん高い山の頂上にあって青空を眺めながら入る露天風呂のようなものだろうと想像していたが、風格のある古い木造の建物がぼくらを迎えた。広い駐車場には何台ものマイクロバス、自家用車、オートバイが止められており、そのはしっこには重装備の自転車が数台並んでいた。多彩な訪問者が中で入浴していることがわかる。入口から少し離れたところに大きな檻があり、セントバーナード犬が中で薄目を開けて横たわっていた。冬には活躍するのだろう。
ガイドブックによると、酸カ湯温泉は、八甲田大岳の西麓、標高925メートルにある古くからの湯治場であり、80坪の千人風呂は混浴だ。昭和29年に国民温泉第1号に指定された。
この温泉はその名の通り酸性が強いので口に含むと歯のエナメル質が溶けるのが判る。顔を洗うと目がしみる。混浴の千人風呂は女性更衣室に通ずる一部についたてが立てられ、美しきひとたちはたいていその向こう側で湯を浴み身体を湯に沈める。広さと悪戯心に誘われてついたてのこちら側に姿をあらわすときにも、たいてい身体を隠すように肩まで浸かったまま湯殿のなかを移動してき、また中腰のままついたての向こうに消えてゆく。
美しきひとたちよ、あなたたちの悪戯は何と巧妙なことか。あなたたちがかいま見せたやさしい肩はぼくらがこの旅で見てきたどんな山の肩線よりも美しかった、そしてそれでいてぼくらが越えてきたどんな急峻な峠よりも近寄りがたいのだ。また、あなたたちがタオルを当てながらゆるりとかしげる首はぼくらが見てきたどの木よりも愛らしくかしぎ、かつどの木よりも美しい根を延ばしている、そしてそれでいてぼくらはその木陰にすわることができないのだ。ああ、美しきひとたちよ、どうかひとつだけぼくの願いを聞き入れてほしい、どうかぼくがこの旅を無事終えたら、ぼくにその木陰で人生の長旅の疲れを癒す喜びを許してほしい。
103号線をさらに進んで行くといよいよ十和田八幡平国立公園に入り、道は奥入瀬川に沿ってなだらかにうねりがなら緩い勾配を登ってゆく。このゆるやかな川は十和田湖から流れ出るただ一つの水流で、湖畔の子ノ口から焼山までの14キロが奥入瀬渓流と呼ばれている。途中に大小さまざまの滝が見られ、「ともしらがノ滝」とか「白布ノ滝」とかそれぞれに魅力的な名前が付けられている。
小坂君は小学生の修学旅行でここに来ており、そのとき渓流に沿う遊歩道の一部を女先生のうしろについて歩いたことを思い出した。歩きながら彼は先生の肩まで落ちる美しい髪が波打つのに見とれていた。「小坂君、あなたはどの滝が一番気に入ったのかしら?」振り向いた先生が聞いた、そしてその時彼女の右耳の前を垂れる一束の髪がふわりと舞って彼の顔にさわった。それは滝壺に落ちる水が水面を乱すように彼の幼いハートにたちまち波紋を広げた。「白糸ノ滝が気に入ったす、さっきの」彼はとっさに答えた。が、その答えは彼を意気消沈させた。本当に彼が言いたかったことを言うには彼は幼すぎた。
「白糸ノ滝?」名前からして細そうな滝が連想された。「君が小学生のころのことならもう20年ちかくたっている。その滝はもう水を切らしてしまってなくなっているよ、きっと」とぼくは心配してやった。が、シェフは久しぶりに笑ってかつてのままという遊歩道をどんどん進んでいった。
白糸の滝、銚子大滝などを愛でながら進んでいると、いつしかぼくはこの長い緩い坂道にへばり始めていた。「十和田湖まであと何キロ」という標識だけがぼくの注意を引くようになる。ようやく子ノ口にたどり着いたらへとへとで、戸締りを始めたみやげもの屋の自動販売機で買った甘酒がとても美味しかった。しかし、みやげもの屋の主人に聞くと、スーパーマーケットなどはこの辺りにはなく、近い店に行くにも4キロくらい湖岸沿いを時計回りに走らねばならないという。
ぼくらは最後の力を振り絞ってこの4キロを走り、小さな酒屋にたどり着いた。ついにさすがのシェフも力尽きたらしく、もうここで夕食のための買い物をすることにした。気品のあるお嬢さんが店番をしており、きれいな手で食料を包んでくれた。ソムリエ(ワイン給仕責任者)の資格も持っているシェフは、「今夜はアップルワインにしましょう、5年ものです」と甘口を選んで持ってきた。ぼくはそのボトルを手に取り、輝き具合、色合い、音の具合などを調べ、うなずいて彼に戻した。するとソムリエは軽く会釈してそれを丁寧に受け取り、お嬢さんの美しい手の中に滑り込ませた。
店を出てキャンプサイトを決めるためにしばらく行っていると、ぽつぽつと雨が降りだした。次第に雨足が急になってきたので、湖沿いの道から少しそれたところにあった十和田中学校に向かった。そこの表玄関の軒下は十分に広く強い雨も凌げそうだった。校内に教員住宅があり、許可を取るために最初に呼び鈴を鳴らした家からは教頭が出てきた。彼はぼくらに好意的だったが、校長の許可が必要だと言って、ぼくらを隣の棟の校長の家に連れて行った。そして現れた校長は教頭よりも慎重だった。しかしぼくらの人柄を見抜いたのか、教頭としばらく相談をしたのち、快く許可をくれた。
校長の好意から玄関の蛍光灯を点けっぱなしにしてくれたのはいいが、ちょうど羽アリの群れの発生する日だったらしく、蛍光灯に大群が集まってきた。こちらで米を炊こうとバーナーを点火するとそれに寄ってきた羽アリの群れがぼくらの頭の上に雨のように降ってきた。アップルワインの入ったぼくの折り畳み式カップの中にも数匹が落ちた。多くは火に焼かれたがとどまるところなく降ってくるので、バーナーの位置をぼくらから遠ざけた。その後だれが飯の炊き具合を調べ、火から下ろすかについてもめた。そこに行くとまた羽アリの雨に見舞われるのだ。
しかし食事はいつものように豪華だった。シェフの味付けは超一流だ。彼のフィアンセが悔しがるのもなるほどと思えるほど料理の腕は確かだ。しかし残念なことに彼の料理のおいしさはぼくの語彙力ではここに具現することはできない。読者に彼の料理の片鱗も味わっていただけないのはまことに遺憾であるが、さりとてここに仮に具現できたとしても、それは読者を耐えられないくらい強い食欲に駆り立てるだけで、美しいひとの写真と同様百害あって一利なしであろう。
雨は翌朝まで降り続いた。
8月20日
東北旅行記のうちで最高傑作はもちろん奥の細道だ。芭蕉の簡潔さはいつもぼくを反省させる。ぼくはこの旅行記でも書きすぎたと反省している。説明的すぎて、読者の空想の余地をかなり奪ってしまったかもしれない。芭蕉の偉大さは、僅かの言葉の絶妙な組み合わせで読者の記憶の宝庫の錠を解き、読者の空想をかき立てかえって写実主義よりも正確な写実を読者に描かせるところにあろう。これよりぼくもより簡潔な記載を心掛けよう。
雨の弱まった朝に校庭を見れば、硫黄の煙が音を立てて一隅より上がっている。玄関の床には焼け死んだ羽アリが灰かすのように踏み場もないくらい散らばっている。
十和田湖の岸辺を走ると霧が晴れ遊覧船が現れ、また半島の影に隠れる。やがて波来て騒ぐ。
休屋のみやげもの屋にて買い物をすると、店の婦人に茶菓子をごちそうになった。ひとしきり息子の愚痴話を聞かされ、茶も二杯目。
もくもくと水辺を進む相棒のあとを追うと、雨に濡れた乙女の像が二体。
発荷峠へと登る坂道の入口のトイレ、音を立てて山水が中を流れて気持ちいい。
登りの辛さを紛らわすために蛇行しながらセンターラインの切れ目を縫って登れば、いつしか小坂君がすぐ目の前でこいでいる。
103号線を進んでいると、パンク。大湯のバス停まで押して、そこからぼくはバスで十和田南駅へ下りる。下りをバスで行くとは何と悲しい。小坂君は先に着いて自転車屋を見つけておいてくれ、そこで中古の太タイヤを割引で購入。これも布部がほころびておりいつバーストするかと不安がつきまとう。駅で立ち食いうどんを食べる。
282号線を進み、341号線に折れ、八幡平を目指す。上に行くほど食料品店がなくなってくるので、早めに夕食のための買い物を済ませる。今宵は最後の晩餐、惜しみなくリッチな材料を選ぶ。店から出ると、雨が降りだした。これから標高1000メートル強の山間地に登ってゆくというのに不安だ。シェフが雨空に向かって苦言を吐いた。
幸い雨は長続きしなかった。しかしきつい行程が続く。341号線を黙々と登っているとクマ牧場があり、このあたりにはツキノワグマが生息していることが思い出された。トロコ温泉で休憩し、そこから八幡平アスピーテラインに入る。温泉旅館がぽつりぽつりとあり、駐車場にすでにテントが一つ張られていた。ぼくらはまだリタイアするわけにはいかない。
後生掛温泉では京大生のサイクリング・クラブがやって来ていた。檻があり若い熊がその中でストレスをためている。長く頑丈な爪を持っており、これで一かきされると落胆させられることだろう。
後生掛温泉を出てゆっくり登っていると、歩いて下りてくる婦人がいた。ひとつ上の温泉宿、蒸ノ湯温泉に行こうとしたがなかなかたどり着けず、日も暮れかけてきたので不安になり後生掛温泉に引き返しているのだということだった。ぼくらが上に行くのでついてきたそうだったが、ゆっくりとはいえ自転車の速さにはついてこれないと思ったのだろう、あきらめて下っていった。
熊がいつ現れても退治できるように、ぼくはサイドバッグに差したナタの安全留めを解除し、小坂君も登山ナイフを腰に付けた。あちこちで湯煙が吹き出していた。夕闇の山道を登って行くと、ようやくて蒸ノ湯のバス停にたどりついた。これはバス停兼展望所で屋根があったのでここでテント泊することにした。道路の反対側を下りると大深温泉、こちら側の脇道を行くと蒸ノ湯の温泉旅館に通ずる。
蒸ノ湯の温泉旅館に行く夜道はくねり、ずいぶん下ってゆかねばならなかった。夜中に歩いて訪ねてきたぼくらを見て、宿の番頭がどこに宿をとっているのかと聞くので、上のバス停にテントを張っていると言うと、あきれていた。宿の大きさのわりにはさほどに広くない浴室であった。湯につかりながら飲んだビールはおいしかった。子供連れの人がおり、なかでも女の子のほうが騒ぎ、あげくの果てに坊やが小用をしたので、シェフは父親のしつけの悪さに憤慨した。
湯から戻ってぼくらはバス停兼展望台で最後の晩餐の用意をする。ほろ酔い気分のぼくは不手際でテーブルにおいたプリムスのこうこうと輝くランタンを倒してしまい、火屋ガラスを割れた。とたんに暗闇が訪れ、ぼくは落胆した。しばらくするとシェフが太いロウソクを取り出し真ん中において火をつけた。すると柔らかな明かりが次第に広がり、先ほどまでの調理台がいつのまにか食卓に変身し、シェフのお勧め料理とソムリエの特選ワインとがテーブルを飾っている。食事が始まると、ソ厶リエはまたいろんな愉快な話をしてくれる。やがてデザートがくると、マエストロによりアンデスの音楽が奏でられ、すっかり寛いだぼくは眠りの馬車の迎えが来るまで星空を屋根にした遥かな宮殿の中でこの優雅な晩餐をこころゆくまで楽しむ。
8月21日
早朝から雨が降っていた。山の天気は変わりやすい。10分刻みで刻々と変化してゆく。出発準備をしていて、雨が降っているので防水服を着ていると雨は止み、それではと防水服を脱いで片づけているとまた降りだし、困ったなあと思っていると止み、さあ出発しようとするとまた降りだすという具合だ。刻々と移動する雲の中にいるので、こんなことになるのだ。
八幡平アスピーテラインの登りはまだまだ続く。道の脇や谷間で勢いよく湯煙が吹き出している。雲が移動しているのだろう目の前を薄い空気のシートがゆっくり流れてゆく。石炭を焚きながら登ってゆく蒸気機関車のように、ぼくはポケットからしきりに菓子を取り出してはかじりながらピークを目指して登っていった。しかしこのラインの実質的な最高所は意外とあっさりしたところであった。峠の名もない。小坂君がそこで待っており、ここから先はもう下りだけだと言う。山頂レストハウスなどのある見返峠はもっと先にありそこまでは確かになだらかな下りだった。
レストハウスのそばに自転車をおいて、八幡平頂上自然研究路を歩いて見返峠に到り、八幡沼、ガマ沼などの火口湖を眺めた。たくさんの人が写真を撮っている。遠景は霧で隠されていたが、その霧が晴れるときに見られる広がりゆく景色は実に美しい。小坂君がその瞬間をカメラでおさめたので、ぜひその写真ができたら送ってくれと頼んだ。後日いただいたのを見てみると確かに美しい。しかしあの時の感動は蘇らない。あれは次第に切れてゆく霧の動きにつれ、光が差し込みそこに出現した景色が次第に明るさを増してゆき、しかもその光を自分も同時に受けているという喜びによるものだったのだろう。シェフの父親から借りたという高級一眼レフカメラをもってしてもあの美しさは記録できなかった。シェフは高山植物をも接写していた。
岩手県と秋田県の境がこの見返峠を通っている。ここからぼくらのサイクリングツアーは終点の盛岡市までずっと下りを行くことになる。アスピーテラインの下りで多くの女子大生が自転車で登ってきていた。こちらから登るのは勾配がよりきついので大変だろう。下ってゆくほどに空気が温かくなってゆくのがよくわかる。
盛岡まであと何キロ、という標識が次第に頻度を増して現れるようになってきた。スタジアムに戻ってゆくマラソンランナーのようにぼくらはスパートをかけた。
盛岡市街に入ると、石川啄木新婚の家、県庁の石割り桜などを訪ねた。バスターミナルでシェフは自転車を解体した。そして、わんこそば東家で最後の食事を楽しんだ。しかしぶしつけに蕎麦を碗に放り込んでくる若娘にはシェフも苛立って「いけすかん」と苦言を吐いた。
小坂君の乗る長距離バスの時間が迫ってきた。旅は終わった。この旅が、8日前に専務も含めた三人で仙台駅を出発したサイクリング旅行の延長線上にあるものだということがなんだか信じられない。出発したのがもうずいぶん昔のことのように感じられる。あの仙台駅で再会した時の膨らみ気味の小坂君は今では精悍な体型を回復していた。
彼は黒いTシャツと半パンツの出で立ちで、着替えとしてはやはり黒いTシャツと半パンツを持参していた。彼は途中のキャンプサイトで、汗や埃まみれになった衣服を洗剤で洗濯して古いのを繰り返して着用し、この着替えはサイクリング道程の終点盛岡までとっておいた。盛岡のバスターミナルで彼は、さまざまの経緯で付着し洗剤でも落ちなくなった汚れにまみれ、さまざまの接触でところどころに穴が開いてよれよれになった黒いTシャツと半パンツを脱ぎ、新品の黒いTシャツと半パンツに初めて着替えた。翌朝小坂でバスを降りるときには、彼のフィアンセが迎えにきているはずだ。このサイクリング旅行が、自分の体はもちろん衣服もかすりキズ一つ無い安全で気楽なものであったことを彼女に示したかったのだ。ぼくは別れ際に、彼の幸せな結婚を願い、彼の手を握った。長距離バスはターミナルを出ていった。
一人になったぼくは、水筒の代わりに使ったハイサワーのプラスティックボトルを空にし、ごみ箱に捨てた。役に立ったものを捨てるときにはいつも寂寥感が伴う。新幹線に乗るためにJR盛岡駅に向かう途中、今回の比較的難度の高い旅行を全うした褒美に、自分に新しいシューズとスポーツシャツを買ってやった。
車中ではロング缶のビールを飲みながら長旅のさまざまのシーンを満ち足りた気分で回想した。小坂君との旅のあとはいつも喜ばしい余韻が残る。
おわり