第9話 長網式抄紙機だけじゃ紙は作れない
「ここを開けろ! 王命により不当に蓄えていないか調べさせてもらう」
『な、なんだあんたら家から出て行ってくれ! うちは貧乏なんだ蓄えなんてない!』
「オイあったぞ!」
『蓄えなんてねーよ。ボロ布ぐらいしか持ってないぞ。一体何があったてんだ?』
「……ボロ布だ」
――ボロ布取り締まりギルド
銀色に輝く鋼鉄の蒸解釜はゆっくりと回転しながら木材チップをかき混ぜる。
苛性ソーダと高温の蒸気により繊維は解れていき、リグニンと呼ばれる植物細胞壁を壊していく。
こうして蒸解釜の中にはリグニンが溶け出した黒い液体と繊維に分離する。
小学校の理科の実験で葉っぱの脈を観察していた時の事を思い出す。
たしか謎の液体が入ったビーカーに落ち葉を入れて火で加熱する。
そうして細胞壁が壊れたら、歯ブラシで優しく擦って葉脈だけを残す。
この残った葉脈を観察するという簡単な実験だ。
あの時は植物の葉脈の美しさに感動していた。
だが、ほんとうに注目すべきは別にある。
そう植物を溶かす液体が存在する事実こそが注目すべきことだったんだ。
目の前の巨大な回転釜の中ではその実験と同じことが起きている。
つまり、リグニンがどんどん溶け出しているってことだ。
「工場長、ワイヤーの準備が整いましたよ」
おっとアルタが呼んでいる。
彼女には製紙工場の建設をしてもらっていた。
といっても建築資材は前から作っていたのでゴーレムを動員した物量とパワーで外観だけを作り上げた。
製紙工場には大量の水が必要なので、運河の下流側に建設した。
だから製塩釜、ボイラー、蒸解釜とすべて川沿いに並べてある。
投入する熱量と発生する蒸気さらに照り返す太陽によってここだけ異常に蒸し暑い。
さらに化学薬品の臭いも漂って衛生環境は悪くなる一方だ。
鼻や皮膚感覚のないゴーレム達がうらやましいよ。
まあ、それでも中世よりかはマシだな。
「それじゃあ、ワイヤーを隙間なく敷き詰めたベルトコンベアつまり、ワイヤーコンベアを作る」
「えっと、このワイヤーで紙を漉くのですね。和紙との違いはどこにあるのですか?」
「うーん、和紙というより東洋紙は竹という植物があったから簀の子で紙が作れたんだ。その植物がない地域ではたしか針金の網で漉いていたんだよ。漉く工程での違いはそのぐらいかな」
つまりワイヤーの材料に特にこだわりがなかったともいえる。
そして深刻な紙不足に見舞われた時にフランスの技術者は布ワイヤーのコンベアを作り、連続して紙を漉く革新的なアイデアを思いついた――さんきゅールイ・ロベール!
この長網式抄紙機と呼ばれる世界初の機械式抄紙機の登場により紙の大量生産が可能になった。
構造はようするに移動する網の上にいい感じに紙の原料を流して、水だけがすき間から落ちる仕組みだ。
――『カチャカチャカチャ』と音を立てながら黙々と作業をする。
「にしてもなんて地味な作業なんだ……」
「本当ですね――ふふ、けど私はこういう作業は好きですよ」
「ああ、わかるー」と相づちを打ちながら作っていく。
ワイヤー製造装置を作るほどの需要がないので手作業でワイヤーを作っている。
隣ではアルタが錬金術で不格好な網を整えて修正していく。
とりあえず50メートルは用意しとけば何とかなるかな。
うーん、これは思ってたよりも先は長いぞ。
「ふんふん、ふーん」とアルタが鼻歌まじりで作業し始めた。
蒸解には時間がかかるしこういう作業もたまにはいいだろう。
◆ ◆ ◆
何とかワイヤーとその後の設備ができたのでパルプを取り出す。
「よし、ボイラーの栓を閉めて回転を止めろ!」
その合図に合わせるように釜の回転が止まる。
球体の蒸解釜で蒸してから12時間は経っただろうか?
まずは液体を取り出す。
排出口を開いたら用意していたドラム缶に黒い液体が流れ込む。
「すごいな……」
リグニンの黒液が取れたら次はパルプを取り出す。
中から白というより茶色のパルプが掻き出されていく。
「これを今度は叩くのですね」
「ああ、叩解といって繊維の密度を上げるんだ」
と言っても実際にハンマーで叩いていたら時間がかかるので機械でやってもらう。
「――よーし、それじゃあワイヤーを動かすんだ」
槽に叩解後のパルプと水を入れて、長網に流していく。
網の上にパルプがシート状に流れていき、水だけが網から滴り落ちていく。
シートはローラーに挟まれて一定の厚みにしながら長網から離れていく。
「よし、このシートを次のローラーに挟んで圧搾脱水していくんだ」
水が切れたパルプは思っていたよりも丈夫で、手で引っ張りながら次の工程に持っていく。
次の工程はドライヤーで乾かす工程だ。
製紙工場のドライヤーというのはローラ―みたいな筒のことだ。
このドライヤーの内部に蒸気を流しこむ。
そうして筒そのものを発熱させて、紙を巻き付ける。
そんなドライヤーが何本も使われて紙を乾燥させる。
だから《多筒式ドライヤー》と呼ばれている。
後は巻き取り工程で紙を巻いてロール紙ができる。
「できたな……しかしこれは」
「茶色で……ムラが多く……透明感がありますね。――それから筆で書くとにじみます」
そう言いながらモノの毛で作った筆で一筆何か書いている。 何を書いているんだろう?
見ると茶色の紙に黒い液体――煤に松油を混ぜた物が染み込んでいく。
つまりデキの悪い紙ができた。
これだけ頑張って使えない紙が出来たのだ。
………………。
…………。
このゴミみたいな紙を使えと?
「ふふふふふ、よろしいならば改善だ!」
「工場長、何をするのですか?」
「まずは塩素で漂白だ! ゴーレム達やるぞ!」
「いえーい。汚物の漂白だー!!」
ということで一番最初の叩解後のパルプを塩素漬けにする。
どばっどばとパルプと塩素を投入して白くなるまで放置!
漂白剤――塩素や塩素酸ナトリウムそして苛性ソーダなどが使われる。 しかし完全に漂白することはできないので黄色味が残る。 また化学薬品を使うので扱いには注意が必要である。 最終的には染料を使い指定された色にする。
「なんとか白っぽくはなりましたね」
「だがまだ黄ばんだ色だからより白く、そして不透明感を持たせるためにある物を混ぜる」
「……何を混ぜるのですか?」と薄々勘づきながらも聞いてくるアルタ。
「それは鉱物だ! 白い鉱物を粉末にして紙に混ぜるぞ!」
「いえーい! 掘削だー!」「粉砕だー!」
このゴーレム達は明らかに紙づくりに興味がなさそうだった。
それなのに掘削と粉砕と聞いたとたんにこのテンションだ。
一体どこで教育を間違えたんだろう?
「ということでアルタさん。白色が強い石灰石ある?」
「それでしたら先日採石場で採れた滑石がよろしいかと思います」
「滑石あったんだ! よろしい粉々にして混ぜてしまおう!」
滑石つまりチョークのことだ。
とても白くて染料としていい感じに使える優れものになる。
填料――またはフィラーともいう。 主に不透明感と白色にするために鉱物を粉状にして混ぜられる。 材料は滑石、石灰石などが使われる。 もちろん肌触りが第一のティッシュには使われていない。
「だが長網のワイヤーで鉱物は流れ落ちる――これを何とかしないといけない」
「あら、それではどうするのですか?」
「ということで――とりあえず小麦粉を投入するぞ!」
「……えぇ」
なんかアルタがショックを受けているが気にしない。
小麦粉のデンプンでいい感じに紙と鉱物を接着させるのだ。
「ということで小麦粉も投入!」
「りょうかーい! ひゃっはー!」
嬉々としてゴーレム達が小麦粉を投入する。
よしよしいい感じだな。
歩留剤――パルプ繊維や鉱物系填料が水と共に流れ落ちないようにするための薬剤。 硫酸アルミニウムやデンプン類が使われる。 植物由来の紙に植物由来の接着剤――デンプンを使うのは不思議な事ではない。 しかし一般人が聞いたらドン引きである。
「よーし、最後に滲み防止のために松脂を精製したロジンをつかう」
「……まあ、それならまだ理解できます。ところでいつ添加するのですか?」
「これはドライヤーで乾かした後に使う」
中世では乾かした後に煮だったニカワに漬けて滲み防止をしていた。
だからドライヤー後で合ってるはずだ。
サイズ剤――液体の浸透性を抑えて滲み防止をする薬剤。 多少の耐水性も与えることができる。 古くは小麦粉デンプンそしてニカワ、近代になり松脂が使われた。 しかしその過程で酸性になり50年以上の保存ができないという欠点が認知されている。 現在は改善するために石油由来の中性サイズ剤が使われている。
◆ ◆ ◆
「はっはー! ということでついに紙ができた!」
「ふふ、やっとできましたね。ほんとうに良かったです」
見た目はワイヤーの跡が付いていて、お世辞にも良質とは言えない。
それでも紙ができた。
やっとできた。
製紙工場の片隅には調整比率を間違えた哀れな不良紙が積まれているが、それでも書くのに適した紙ができた。
これでやりたいことがいろいろと出来る。
「――と、その前にリグニンの黒液を処理しないといけないな」
「リグニン――つまり苛性ソーダを回収するのですか?」
「ああ、そうだ。そうすればより連続生産ができるようになるからね」
よし、次は苛性ソーダ回収工程だ。
長網について最初は布製で、現在はプラスチック製の網を使っているようです。
その過程で青銅の金網タイプもあったようです。
また洋紙開発の歴史は複雑怪奇なので細かい技術的なところの変遷や推移は把握できていません。
特に製紙用薬品の変化と組み合わせパターンは…………。
誰か詳しい人いないかな_(:3」∠)_




