五月、第二日曜日
「かき氷、食べたいなあ」
小学校五年生になった息子の昌人が、テレビに向かって呟いた。
網戸にした窓から入ってくる風が、涼しく母親の朋子の頬を撫でた。
日曜の朝のテレビでは、子供向けの番組が放映されている。合間のコマーシャルになった画面に、アイスクリームが大写しになっていた。
「いいよ、買ってこようか。何のアイスにする?」
朋子が言うと、昌人は怒った調子で、
「アイスは要らない、かき氷。ストローで食べるやつ」
と、ヒーローが活躍し始めた画面に向かって言う。
確かに、最近急に暑くなってきたし、かき氷を食べたくなる気持ちもわかる。
「お店の? まだお店には出てないわよ、かき氷」
だから、アイスにしたら、という提案は、息子の背中に滑って落ちる。
「やっぱいい。かき氷、いらない」
朋子はため息をついて、鞄を手に取った。エコバックと財布、スマホに自転車の鍵を確かめる。
「お母さん、スーパーの朝市行ってくるから。誰か来てもドア開けないでね」
液晶画面の中で、炎が巻き上がり、必殺技の名前が大きな文字で浮かび上がる。昌人の返事は、ヒーローにやられた敵が爆発する音に紛れた。
自転車を漕いで辿り着いたスーパーには行列ができていた。
卵を買うには、行列に並んで、かつ、合計金額千円以上購入しなければならない。
朝のスーパーは老人が多くて、彼らは一様に、時間をかけて商品を吟味する。
朋子は時々、スマホを取りだして時間を確かめながら、一週間分の、息子と自分の分の食材をレジカゴに入れていく。
精算の行列が長くなる前に、レジに急ぐ。押していたワゴンが、年配の男性の肘にぶつかって、ギロリと睨まれた。すいません、ぐっと奥歯を噛んで頭を下げた。
朋子は十年前から男性が苦手になった。優しかった男は、結婚すると態度を豹変させた。お茶がぬるい、掃除が行き届いていない、俺をバカにした顔をしている、ことある毎に理由をつけて、夫は朋子を罵った。「誰の働いた金で生活してると思ってるんだ」が夫の決めぜりふだった。
そうやって朋子をさんざん罵倒した次の日に、花を買ってくる。花を持った朋子を抱きしめて、猫撫で声で「全部お前のためを思ってやってるんだよ」と言った。「すみません」と、朋子はその度に謝った。「ごめんなさい」「すいません」「申し訳ありません」「私が至りませんでした」「私が悪いんです」責められるたび、慰められるたび、朋子は言って、夫に服従した。
昌人を妊娠した頃は、まだ夫も変わると信じていられた。お腹に手を当てて、この子が産まれたら、もっと夫も穏やかになると希望を持っていた。けれど、昌人が産まれて、待っていたのは、子育てが加わって倍になった家事負担と、夫からの更なる痛罵の生活だった。そして、最初は背中を平手で叩くところから、暴力が始まった。
昌人が小学校二年生の冬、夫はついに昌人に手を上げた。きっかけは些細なことだった。昌人が宿題のノートをテーブルに出したままにしていたとか、それくらいのくだらないことだった。夫は、怯えて目を丸くして、父親を見上げるばかりの昌人に、「何だその目は、俺に刃向かう気か」と言って、ふたたび手を振り上げた。それまで、ただ耐えるだけだった朋子の心が、怒りでかっと燃え上がった。
昌人を抱いて、冬の夜道を実家に向かって走った。二年生にしては華奢な昌人であったが、それでも朋子の腕は重く痺れた。そこを追いかけてきた夫に捕まった。
──あと少しだから、おばあちゃんの家まで走って! 振り返らないで行って!
夫は朋子の髪を掴んで、道路のアスファルトの上、彼女の体を引きずり回した。腕の骨は嫌な音を立て、殴られた頬の内側の肉が切れ、鉄さびの味が舌を刺した。
誰かが呼んだ警察が、暴れ狂う夫を取り押さえた時、朋子は立ち上がることもできなかった。昌人は無事、実家に辿り着いただろうか。一人の夜道は心細かろう。振り返らないで、父が母を痛めつけるところを見ないまま逃げただろうか。昌人のことばかり考えているうちに、気を失った。
公営団地までの坂道を、朋子は立ちこぎでのぼっていく。こうなると爽やかな風もじっとりと体にまとわりついてくる。
自転車の前カゴと、後ろカゴにはたっぷりと食材を乗せた。節約してお金を貯めたいから、できる限り外食はしたくない。自分の服も化粧品も、随分買っていない。切り詰めるだけ切り詰めて、昌人の学資に備えてやりたかった。離婚までを長引かせたのは、朋子の弱さだったと彼女は思っている。女ひとりの稼ぎで、十分にやっていけるかなんてのは、言い訳だ。なりふり構わず助けを求めて、一分一秒でも早く、昌人と夫を引き離して置けば良かったと、朋子は悔やむ。離別の代償に払った何カ所かの骨折、身体中の打撲。それくらい、安いものだった。
昌人は今でも、夜中に泣いて目を覚ます。朋子は飛び起きて、昌人にすがりつく。昌人は小さく丸まってガタガタ体を震わせる。あの時逃がした背中に、自分の体をかぶせて、朋子は昌人が落ち着くまで揺すってやる。よしよし、お母さんがいるからもう大丈夫だよ、お母さんが守ってあげる。
昼間の昌人は、小学五年生らしい寡黙さや、つっけんどんさを持っているが、眠りの中の昌人は、まだ朋子の腕の中で眠った、赤ん坊の面影を強く残している。昌人の寝息はいつも、朋子の思い出の、いちばん柔らかいところをかき鳴らす。
親子連れが歩いているところを、後ろから追い抜いた。父と母に手を繋がれた女の子。持ち物からして、先の公園に遊びに行くのだろう。あんな風に、昌人を遊ばせてやることが、朋子にはもうできない。
──あ、そういえば、かき氷……。かき氷機が、うちにもあったな。
夏になると、かき氷を作って食べた。庭付き一軒家には気の利いたテラスがあって、手回しのかき氷機を夫が回して、かき氷を振る舞ってくれた。機嫌のいい時の夫は結婚する前のように優しかった。
昌人の幼い頬と、汗を浮かべた鼻は、強い夏の日差しで火照っていた。カップ一杯のかき氷は昌人には多すぎて、融ける氷を二人で交互に口に運んだ。昌人の舌は真っ赤に染まって、朋子が手鏡で見せてやると、ひまわりの花みたいに笑った。
あのかき氷機も、置いてきてしまった。
朋子は奥歯を握りしめて、ペダルをつよく踏んだ。
買い物袋を両手に提げて、階段を上って、ドアを開けると、テレビの前に昌人はいなかった。
「昌人?」
冷蔵庫に食材をしまいながら、何度か呼びかけるが返事が無い。片付け終わったところで、つけっぱなしのテレビを消して、和室に向かった。
昌人は勉強机に座っていた。朋子はほっとして、もう一度「昌人」と言った。
「何よ、返事くらいしなさいよ。そうそう、アイスも買ってきてあげたわよ」
その時、昌人が座った椅子がくるっと回った。そして、朋子の目の前に、小さな箱が押し出された。小さな段ボール箱の全面に折り紙が貼られている。
「母の日」
昌人は朋子の腹に箱を押しつけた。
「え、何、何、ありがとう。ありがとうございます」
朋子はどういう顔をしたらいいのかわからないまま、感謝の言葉だけ述べて、箱を受け取った。
箱を開けてみると、大きさの違う紙が何枚も入っている。二つ折りになったり、折って封をされたり。
上から順番に開いてみると、「むげんおてつだい券」「なんでもいうことをきく券」と書いてある。
「あら、あらあら」
ひとつ読むたびに、目頭が熱くなる。一番下の紙は、テープで留められていた。
慎重にテープを剥がし、紙を開くと、そこには五千円札が一枚、きちんと畳んで置かれていた。
「このお金、俺の財布に入ってたんだ」
離婚してから、昌人の貰うお年玉は半分になった。老老介護の朋子の両親に、経済的な余裕はない。朋子はお小遣いをあげてやれない。だから、この五千円は、彼が少ない機会で得た、なけなしのお金であるはずなのだ。
ーー大事に取っておきなさい。
のど元までこみ上げたものを、朋子は奥歯を噛みしめて飲み込んだ。
つんとする鼻の痛みを堪えて、朋子は昌人に、飛び上がって喜んで見せた。
「わあ、五千円! すっごい! お母さん、こんなにたくさん、貰っちゃっていいのかなあ!」
「いいよ、いいよ。お母さん、毎日がんばってるから、ご褒美」
昌人の頬と鼻は、照れて赤く染まっていた。あのひまわりみたいな笑顔を、朋子が、こんな母親が、もう一度、咲かせてやれるだろうか。
偉人の肖像が朋子の視界でぼやけた。お金は大事だ。口を酸っぱくして、朋子は昌人にも言っていた。大事に取ってくもの、大事にするもの、大切なもの、それは決まっている。昌人の心だ。
「……この五千円で、最新の、かき氷機買っちゃおうかな。お母さんに、ごほうび」
それを聴いた昌人が目を輝かせる。
「やったー! 絶対ふわふわの氷作れるやつ」
「わかった、わかった。一番安いとこいかなきゃね」
「自転車? 歩き?」
「自転車でしょ、ヘルメット忘れないでね」
いそいそと支度を始める昌人の背中に、朋子は微笑んだ。
最新のかき氷機で作ったかき氷は、きっと最高においしいはずだ。
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