言い訳
俺が右手を掴むと、リカちゃんは振り向かず、その場で時が静止したかのようにピタッと動かなくなる。
熱帯夜にもかかわらず、彼女の白く細い腕から伝わる温度は大理石のように冷たい。
……やってしまった……勢いでつかんでしまったが、何をすればいい?何を謝ればいいんだ?
俺は昼間リカちゃんが怒ってしまった理由がいまいちはっきりとわかっていない。
ただわかっているのは本当に温厚な彼女の心の琴線を無意識に土足で犯してしまったという事だけだ。それがなんなのかわからない事にはまた同じ事を繰り返してしまう。
勇もうとする意識は何度も二の足を踏み、答えを見つけられないまま時だけが無情に足を進めてゆく。
数秒なのか、それとも数十秒なのか、蒸せるような大気がジリジリと肌にまとわり、遠くのセミが声が俺を急かすように感じられた。
「あの……」
「……なしてください……」
時間の感覚が麻痺するような沈黙の後、痺れを切らした俺の行き先のない掠れ声に、リカちゃんの途切れるような声がかぶさった。
「えっ?!」
「離してください。アナタとお話しする事は何もありませんから」
「いや、だって……」
リカちゃんは離せというが……離したくない……!!
感情の籠らない声でアナタと呼ばれ、ショックで一瞬手は緩みかけるが、最後の一線だけは踏みとどまる。
きっと今離せばリカちゃんは永遠に行ってしまう。
それがわかる。
俺は握る手に力を注ぎ直し、喉から声を絞り出す。
「は、離したりゃはにゃし聞いてくれるにょ?」
ダサい……30を超えた男がJKに発するにはあまりにもダサすぎるかみかみの嘆願である、が、今は格好を付けてるような余裕は精神的にも時間的にもない。
なんでもいいからリカちゃんをこの場に引き留めないと。
そんな見栄もへったくれもない小学生以下の引き留め文句に対してリカちゃんは返事をせず、かわらず動きを静止させている。
……ダサくてもなんでも、絶対取り消すもんか、俺はリカちゃんが答えるまで待つぞ!!
押し寄せる不安をぬぐい、俺がそう心に決めた瞬間ーー
「あの……痛いです」
「へっ……?」
「右手、痛い……」
「あっ、ごめん!」
そう言われ、俺は咄嗟にリカちゃんの腕から手を離してしまった。
しまった!!
俺は心の中で叫ぶ。
必死になるあまり無意識に手に力を込めすぎてしまっていた。
そして離してしまった……
再び伸ばす事も収める事もできない右手を宙に浮かせたまま、リカちゃんの背中を見て悲痛な表情を浮かべる俺であったが、そんな俺の気持ちに気づいたかのようにーー
「……もう、アザになったらどうするんです?夏なのに……」
そう言って俺がつかんでいた華奢な右手首に左手をのせながらリカちゃんがゆっくりと俺の方に振り向いてくる。
同時に俺を見上げるその白い端正な顔には今朝会った時と同じような穏やかな微笑みを浮かべて。
あれ……機嫌治ってる……?
「あ、ごめん、力が入っちゃってつい……って、えっ?」
俺がその笑みにつられて我ながらキモい照れ謝まりをかましていると、リカちゃんはその均整の取れた彫刻のような小顔を俺の福笑いのように残念な顔面にすっと近づけてくる。
近い近い近い!!
ドッドッドッドッッ!!
リカちゃんの急な接近に心臓は水素爆発のように脈打ち、激しく動揺した俺が石のように硬直していると……
ーーツンっ……!
リカちゃんはそっと俺の鼻頭に人差し指を当てた。
そして俺が驚いたのを見ると、
「クスクス、ほんと、お兄さんっていつもそう。突然見境がなくなっちゃいますよね」
そうやって屈託のない笑みで笑うのだ
「はは……ごめん……」
は、はうぅ……このキュンと苦しく胸が締め付けられるような気持ちはなんでしょうか?
33歳中年のドキドキがJKに永久機関してしまうっっ!!
少女漫画とかに出てくる超絶イケメンにからかわれる少女の気持ちがわかる。
……とにかく尊い……
「それにそうやってすぐ謝る。……別に悪い事しているわけでもないのに……」
「えっ、なんて?」
「なんでもないです」
最後は俺が放心してたのとリカちゃんが俯いて喋ったせいもあってうまく聞き取れなかったが、まあいっか。
それよりもーー
「あの、昼間はほんとごめん……」
俺はうわついた心に喝を入れ、真剣なトーンで謝罪を口にした。
とにかく謝らないと。理由は分からなくても、彼女を傷付けたその事実に対して真摯に謝罪しよう。
「えっ、何がです?」
「ほら、俺店の前でリカちゃんを怒らせちゃっただろ?実は原因はまだはっきりわかってないんだけど、それでもリカちゃんを傷付けた事は謝りたくって……って言ってもこれでまた怒らせてしまうかもしれないんだけど、それでもーー」
「いいんです」
「いや、良くないって」
「いいんです」
謝りの話を続けようとする俺をリカちゃんは同じ言葉で二度制止する。
二度目は彼女らしくない少し強い語調で。
それで俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「……お兄さんは何も悪くない、悪いのは全部私の方なんです」
「全部リカちゃんが悪い?」
俺がそう訊き返すと、リカちゃんは下を向き、静かにコクリと頷ずく。
どう言う意味だ?
怒らせたのは俺の方なのに、もしかして腹を立てた事を謝ってるのかな?いやもしかして……
そう思ったのと同時に俺はある事を思い出す。
そうか、リカちゃんはセナの事を言ってるんだ!!彼女は大人だから俺の趣味(リカちゃんの止むを得ない勘違い)を否定した事を恥じてるんだ、それで自分が悪いと。
なるほどね、それなら合点がいくな。
しかしここは心優しい彼女のためにもしっかりと誤った罪悪感を払拭してやらんといけませんな。
悪いのは全部はた迷惑なセナの奴だからな。
「いやいや、リカちゃんは全然悪くないって!!」
俺はかぶりをぶりぶり振りながら話す。
「そりゃ危うくセナを持ってかれそうになったのは焦ったぜ?けどそれだってリカちゃんが俺を思ってやってくれた事だしその後怒鳴ってしまったのは俺の大人気なさだ!だからリカちゃんが悪く思うなんて事は1ミリもーー」
そう言いかけた時、
「違うんですっ!!」
突然、リカちゃんが叫んだ。
その声に驚いたのか周囲のセミたちがピタリと鳴くのをやめた。
つっっ……、また何かやっちまったか俺、また変なこと言ってリカちゃんの琴線を二度踏みしちまったか……
セミと一緒に驚き、セミ以上に自分に自信のない俺はただ不安におののき口をあわあわさせていると、
「違うんです」
リカちゃんが首を振りながら言う。
「健太郎さんのお人形だって悪くない、健太郎さんが私の気持ちに気付かないのだって悪くない、全部、全部私が悪いんです」
何が悪いと言うのだ……
いまいち要領の得ない彼女の言葉を聞くと俺はますます不安になってくる。
気まずくなり、ふと視線をずらすと……あれ?
リカちゃんの小さな両肩が小刻みに震得ているような……はわわわっ!!
突如俺の不安は確信と焦りに変わった。
クッ……これはセナの……やばい……!!
俺はこの現象に見覚えがある。
リカちゃんの感情を必死に抑えるような喋り方、そして微かな震え、これは俺の失言で激昂するまえのセナさんと全く同じじゃあありませんか!?!
俺はこれまでトラウマになるまでセナを怒らせ、怒鳴られてきた経験から今リカちゃんがまさに火山の如き怒りを身体中に溜め込んでいる事を察知。
リカちゃん俺鈍感でほんまごめんよ……
……などと感傷に浸っている場合ではない!
とにかくリカちゃんを静める事が先決だ。
謝っても駄目、待っても駄目、となれば逸らすしかない!
とにかくリカちゃんの怒りを上手く逸らし、なんとかそのエネルギーをお得意の笑いに転換するのだ!
いけ、漢健太郎。
臆するな!!!
そう自分を鼓舞した後、
「待った待った、ストオッップ!!」
俺は何かを口にしようとしているリカちゃんを空でチョップをきる仕草をしながら無理やり止めに入る。
「えっ!?」
俺の突然の行動に目を見開くリカちゃん。
くうぅ!驚いた顔も可愛いぜ!!
けどこの後どうするよ!?リカちゃんを止めた理由を何か考えないと!!
理由を、理由理由理由理由理由理由……!!
そうして冷や汗をダラダラと流しながら目を瞑り天を仰ぐように考え込んでいるとーー
理由ううぅうキュウイイィィイン!!!
こっ、これは……窮地に陥ると時々やってくるこの感覚!!
東京、会社、秋葉原、田町、喧嘩、市川、江戸川、夜、花火、公園、トイレ、リカちゃん……
急に様々なものがストロボ写真のように脳裏に浮かび上がってくる。
窮地への突然の飛び出しで思わず目を覚ました俺の脳はこの土壇場で高速回転を始め、これまで俺が辿ってきた道のりからリカちゃんを納得させるための材料を抽出し、上手い言い訳の道筋を再構築しているのだ!そう、笑いという栄光への道筋を!!
そして……考えることゼロコンマ数秒後。
これだ!!これならリカちゃんの怒りを笑いへと昇華することができる!!
俺は脳が導き出した窮地からの逃げ道を見据えそれを確信する。
その俺の脳が咄嗟に導き出した答えというのは、今目の前で怒って顔を赤らめているリカちゃんの表情が、不謹慎ながらもさっき見てきた何千、何万のどの花火よりも美しく尊くかんじられると言う事。
そしてこの状況から、リカちゃんも今日俺達がみた花火を見てて、一休みするためにこの公園に立ち寄って偶然俺に出逢った。つまり、リカちゃんもあの無数の花火を見ている!
日本中から人が観におし寄せる天空の江戸川花火よりも、今目の前に咲いている、鄙びた公園トイレ前の一輪の花の方が遥かに美しいと思った。
これを正直に伝えるのだ。カッカしているリカちゃんを褒め、その怒りすらも美徳に変えて自尊心の天井を爆発させてやる!!
そう腹を括った俺は訝しむリカちゃんの顔の前に片手を突き出し、再びリカちゃんを制止するようなポーズを取ると、
「リカちゃん、その前に、俺の方から話をさせてくれないか?」
5本の指の隙間越しにリカちゃんの瞳を見つめながら芯の通った声で語りかける。
「えっ……?」
手の甲の向こうでリカちゃんが再び驚いた表情をしたのを確認した俺はうっすらとニヒルな笑みを浮かべながら話を続ける。
「リカちゃんの話を聞いていて、どうしても俺から先に君に伝えなければならない事がある事に気付いた。ちゃんと、話を聞いてくれるかな?」
そう動揺する彼女にそっと諭すように語りかけると、
「は、ハイ!」
リカちゃんは少し緊張した様子でコクンと首肯する。はは、その素直さがほんとに女子高生の女の子って感じだな。
「今日の花火はほんとに綺麗だったねーー」
俺は素直な彼女を見てコクリと頷いてあげた後、二人の思い出話のように優しく言葉を紡ぎ始めた。その瞬間ーー。
「あの〜健太郎さん、どうしました〜?」
突然、後ろから俺を呼ぶ別の女性の声が聞こえてくる。
アリスだ!!
しまった、アリスの事を忘れてた……




