第X話 とある少女のプロローグ
私は夜の団地が大好きだ。
沢山の灯りが辺りを隈なく照らしているのに、どこか昏い。
沢山の人が住んでいるのに、出歩けば簡単に独りぼっちになれる。
沢山の規則正しく並んだ建物が、自らの灯りで闇から浮かび上がった光景は、何かの工場や近未来の基地のよう。
私は夜の団地の中を、当てどもなく彷徨うことが大好きだ。
自分が物語の一部になれるような気がするから。
お母さんお父さんが寝静まった頃を見計らって、こっそりと家を抜け出す。
耳障りな音を立てて軋む扉を静かに開けるコツは、だいぶ前に掴んだ。
少し生暖かい五月の夜風を頬に感じながら、物語の序文を頭の中で空想しながら、適当な方向に向かって歩き出す。
一瞬見えた人影でも、どこかで鳴り響いたクラクションの音でも何でも良い。物語の予感がした方に向かって歩く。
ルートは決めない。その方が物語の始まりに出会える気がするから。
いつも私は昏くて自分の知らない場所にどんどん進む。
無機質な町並みを取り繕うために造られた、だだっ広い公園を突っ切る。
昼も夜も人がいない、寂れた団地商店街の裏手をそろそろ進む。
巨大な送電線に沿うように歩いてみたり。
そうしていると私の心の中には色々なものが渦巻き始める。
それは夜をしなやかに駆け回る黒猫の様な、掴みどころの無い不安だ。
それは整備されていない街路灯の様に、切れたり点いたりする冒険心。
そしてまだ見ぬ『物語』の始まりへの、狂おしいほどの期待だ。
その日は何かが起きる予感がした、という訳では別に無かった。
いつものように期待に満ちた行き道と、淡い失望に浸る帰り道を繰り返すだけだと思っていたのに。
どこかで遠い所から、金属の様なものが激しくぶつかり合うような音がした、気がした。一度でなく何度も何度も。
何かの物語の予感に、心臓の動悸が早くなる。
微かに聞こえる頼りない音を頼りに、自分の直感も少しだけ信じて、団地の隙間を走り回った。
昏い方へ、人がいない方へ、奥まった方へ、音がする方へ!
辿り着いたのは、三方を団地に囲まれた、杜撰な作りの小さな公園。
切れかけの公園灯の側に、男が血溜まりを広げながら仰向けに倒れていた。
土埃にまみれた乱れた銀髪、時代錯誤なライダースジャケットには無数の切り傷と赤黒い染み。手元には折れた−−巨大な一振りの日本刀。
男はごぼりと致命的な音の咳をした後に、顔だけを動かしてこちらを見た。
おそらく魅力的な、整った顔立ちなんだろう。血と汗と脂がべったりと貼り付いてさえいなければ。
もう一度ごぼりと咳をした後に、私の目を見つめながら男は言った。
「悪ィ…お嬢ちゃん、ひとつだけ…頼まれてくれねェか」
これが、私の物語のプロローグ。