第九十五話
酒とコーヒーを交互に飲むとものすごくトイレに行きたくなる。
このまま本当に腹が破裂するまで飲まされるのかと、体中の血の気が引いたころ、海起の体がぐらりと揺れる。同時に手も離れ、地獄のような水攻めも終わった。
「げっ、げほッ、げほッ」
体が勝手に大量の水をその場で吐き、さらに涙まで流してしまい、視界がぼやけて何も見えない。数秒してようやく前を向く程度には落ち着いたので、ナナは何が起きたのか理解できた。
「……く、この……!」
海起の体に穴が開いていた。はっきりと、握りこぶしほどの大穴が彼女のへその辺りに開いていた。どこからどう見てもそれは背骨を粉砕し、やはりというべきかおかしな挙動で彼女の体は崩れ落ちた。
「誰が……!」
辺りを見回すこともなく、ナナは攻撃の主を見つけた。海起の体の影に隠れていた一機のヘリコプターが上空で待機している。そのドアは開けられ、一人の人間が銃を構えているのが見えた。
「あっ」
意外な人物に声を漏らす。こんなタイミングで助けに来るとは思ってもいなかったからだ。
その人物とはイーズだ。彼は狙撃銃のスコープから目を離すとこちらに軽く手を振る。だがそんなイーズの表情は決して明るくはなかった。
いつだったかハナが言っていた。イーズは決して人殺しはしないと。相手が人造人間だからと言って過度に痛めつけることもなく、できる限り相手の改心を試みると。
だがそんな彼が銃を手に取り、間違いなく海起を殺した。数時間前にネネを救出し、帰ってきたときもイーズは同じ顔をしていたような気がする。
何はともあれ、これでナナは窮地から脱出できたものの、それはその場しのぎに過ぎず、もうすでに自己再生が始まっている海起相手に、これからどうすべきか必死に考えなければならなかった。
「よくも……!」
憎しみの籠った声で立ち上がると、海起はナナではなく、イーズ達の乗っているヘリコプターの方へゆっくりと向き直った。
ナナは理解した。海起は怒っている。それも相当な怒りを抱いてイーズ達を睨んでいる。階段が終わったと思っていたらあと一段残っていたかのような、よそ見をしていたら自分の頭の高さにある障害物にぶつかったかのような、不意打ちされたことによる激しい怒りはナナに向けていたそれよりもさらに燃え上がっているようだった。
「やめて!」
とっさに言ったナナの言葉は彼女の耳に入っていないようだ。両の手の平をイーズ達の乗るヘリコプターに向けると、海起は周囲の海水を操り始めた。
遥か上空へ海水が打ちあがる。津波や水鉄砲といったものではなく、火山の噴火のようにあのヘリを破壊するためだけの水柱だ。巻き込まれればまず操縦不能になるだろう。そのまま海面に叩きつけられれば普通の人間はその衝撃に耐えられるか怪しいものだ。そのうえ、海起の『水を操る能力』を使えば追い打ちをかけることも簡単だろう。
ヘリコプターはなんとかそれらをかわしているものの、毎度毎度危うげにのらりくらりとしている。
「なんで当たらないのよォ!」
金切り声を上げてひたすらに攻撃を繰り返す海起。今まで積もり積もった不満が爆発し、もはや自分で感情を制御できないようだ。
「お願い、やめて……」
ナナの必死のお願いはあまりにもか細く、この土砂降りのような雨にかき消された。
「やめてって、言ってるでしょ……?」
ネネ、ハナ、イーズ。ナナにとって初めて出来た外の世界での知り合い。それは友達と呼ぶにはかなりの距離があるものの、敵対していない存在というだけでナナの大切な存在であることには変わりない。それはつまり、こうして目の前で文字通り海の藻屑にさせられそうな彼らを救う必要があった。
「私の仲間に、手を出さないで……!」
ひどく低く、そしてどす黒い声でナナは言う。覚悟を決めた、というよりはこの場をなんとかしなければならないという焦燥感が彼女を動かした。手袋を外し、その生身の両手を広げて海起へ向ける。彼女はこちらにまだ気が付いていない。
「能力開放!」
そう言うとナナの手の平から一筋の光線が飛び出した。
「あ」
海起が気が付くもすでに遅い。遅すぎた。
歪な軌道で突き進むそれは、周囲一帯を激しい光と音で包み込んだ。




