第七十五話
平和な親子のやりとり。
雨だ。まるで台風でも上陸してきたのかと思えるほど大粒の雨が車体を激しく打っている。うるさいほどの雨音に思わず拓海はため息をついた。
「嫌な天気」
「そうかしら」
これは独り言だったのだが拓海の母親はそれを拾い、返事した。
「私は雨が好きよぉ。だってね、拓海くんが産まれた日もこんな雨が降っていたのよ。だから私は別に雨が嫌いじゃないの。むしろ晴れてるといろいろ思い出しちゃうから雨が好き」
そうだ。母親は他人と比べて変わっていた。のんびりしていて自分勝手なところもある。友達どころか誰かと気さくに話をしているところを拓海は一回も見たことがない。そんな変わり者は雨が好きだとしても何もおかしくなかった。
「お母さん、夜飯どうする?」
夜九時を過ぎてからずいぶんと時間が過ぎた。彼らはまだ夕食をとっておらず、夕方につまんだ菓子はもうすでにその場しのぎの役目を終えていた。成長期の拓海には空腹とは地獄の時間以外の何物でもない。
「そうねぇ、おうちにご飯ないし、今日はどこか外食しましょうか」
「でも部屋着のまま出てきちゃったし、お店にあんまり長居はしなくないんだけど」
「それならハンバーガーにしましょう。拓海くん好きだしねぇ」
「それ賛成! ドライブスルー出来るところがいいな」
「安い所ならどこでもできるわよぉ。まさか高いお店に行く気だったのかな?」
「そんなつもりは……」
「冗談よ。拓海くんをからかうのは楽しいわぁ」
何気ない会話が弾み、やがて彼らはいつも通う一軒のハンバーガー屋に到着した。世界中に店舗を構える有名チェーン店だ。
ドライブスルーの窓口へと車をやり、注文する。あとは窓口でお金を払って商品を受け取るだけだ。
「お母さん全然食べないよね。夜ご飯ポテトだけで足りるの?」
「私は燃費がいいのよ。一週間くらい食べなくても平気なんだから」
「またまた冗談を」
ところで仲良し家族である拓海とその母親の乗る車へ視線を向ける男たちがいる。真後ろで拓海たちと同じく商品を待つ車に彼らはいた。その黒のバンは先ほどから二人の後ろを尾行していた。常に二台か三台の間隔を開けて気づかれないようにずっとだ。鋭い視線をひたすら二人に浴びせ、実行の時を待っていた。が、とうとうその瞬間がやってきた。
助手席の男が車から降りる。手には警棒が握られ、明らかな危険性を持って拓海たちの車へと歩みを進める。それに続いてバンの後部座席からさらに三人降りてきた。それぞれがレンチやスプレー缶、さらには頑丈なロープまで持っている。
「お待たせしました、こちらになります」
店の窓口から店員の女が手を出して母親に紙袋を手渡す。
「どうも~」
そんな店員の腕を男が警棒で叩く。突然の出来事だった。彼は何一つ口を開かず、ただ腕を折った。店員の悲鳴が店内に響き渡り他の客の視線を集めるも、そんなことはどうでもいいとばかりに、男はあっけに取られる拓海の母親へ手を伸ばす。
「え……っ」
男は大きな手で母親の口を塞いで黙らせる。続いてあとからやってきた男がスプレー缶を車内に噴射した。それと同時に母親の口を塞ぐ手を放し距離を取る。
男たちは誘拐のプロだった。経験上このあとすぐに叫ぶか怒るか、何をするにしても彼女は口を開いて息をする。この状況下でなによりも先に息をしないまま車を発進させようなどという考えにならないのだ。
「あっ……」
男たちの狙い通り息をしてしまった拓海の母親は一瞬で意識を失い、ハンドルに額をぶつける。
「—————っ!」
真横で見ていた拓海は息をしてはならないことを察し、口を閉じる。しかしそれしかできなかった。逃げようにも自分の母親を置いて逃げられるほど彼は大人ではなかった。目の前の母親が動かなくなってしまい、恐怖で拓海も動けなくなってしまう。
そこへ助手席側に回り込んできた残りの男たちがやってきて、レンチで窓ガラスを割る。自分の母親が車から引きずり出されていく様子を見ていた拓海は突然ガラスが割れたことに驚き、うっかり息をしてしまう。
「はっ! あぁ、ぐ……」
息をしてはならないとわかっていたのに、そう後悔しながら拓海は白目を剥きがっくりと意識を失う。
車から二人を連れだすと男たちはバンへと戻り、後部座席へ乗り込んだ。全員が乗ったことを確認するとドライバーがアクセルを踏み込んで危なっかしい運転でその場を去る。後には白銀家の車だけが残された。




