第七話
五分後、自室に逃げ帰った拓海は母親に呼び出されてリビングに戻ってきていた。ソファに座らず、フローリングに正座している。誰に命令されたわけでもなく、反省の意味を込めてそうしているのだ。
「あの……」
正座を始めてから誰も口を開かず、とうとう拓海から切り出すことにした。
「さっきはごめんなさい」
まずは謝罪だ。彼にもいろいろ聞きたいことはたくさんある。その前にわだかまりを解消しなければ先に進めない。
「……」
だがネネはリビングに敷いてある布団に横になったまま彼の方を見ることもしない。
「あの、どちら様なんですか?」
「……」
ネネは拓海のことを無視したままだ。もしかしたら寝てしまったのかと拓海は少し背伸びをして様子を伺う。
「寝てます?」
ネネはばっちり目を開けて起きていた。何もない白い壁を遠い目で見つめている。拓海は姿勢を正して正座を再開する。
「拓海くん、その子はね、ネネちゃんっていうの。どうやら記憶がないみたいなんだけど、さっき名前だけは思い出したのよ。そうでしょ?」
キッチンで皿洗いをする彼の母親がそう言った。記憶喪失ならば何かしらのショックで思い出すことがあるらしい。先ほど裸を見られたことで、ネネという名前だけ思い出したとしたら拓海は複雑な気持ちだった。事実は違うが。
「ああ。あたしはネネだ。たぶんな」
ネネは微動だにせず、呟くように言う。まだ自分の名前だという自覚がないのか、拓海には彼女に対して少し思うところがあった。
ネネは布団をめくり、起き上がる。あぐらをかいて二人は向き合った。
「よお、あんた、名前を教えてくれよ」
「え? あー」
ネネの肌は白く透き通っている。少し癖のある黒髪は腰ほどまである超ロングヘアーだ。顔つきは整っており、誰が見ても美人だと思うだろう。薄手のシャツからでもすらっとしたボディラインがはっきりと見て取れる。すれ違う人間が見れば彼女のことを女優かモデルと間違えそうだ。ただ一つの欠点を除けばそうなるはずだ。
その欠点は、目つきが非常に悪いことだ。吊り上がった眉毛と目は世間一般的に可愛いとは遠く離れたパーツである。おまけに先ほどから眉間に皺が寄ったままで怖い顔に拍車がかかっている。
「聞こえたか? 名前を教えてくれって言ったんだよ」
顔だけでなく言い方もキツい。彼女のケンカ腰な話し方は外で通用するとは拓海は思えなかった。それは置いといて、慌てて拓海は返事をするため口を開く。
「あ、俺、拓海っていいます。白銀拓海」
「そうか、よろしくな拓海」
「ああ、うん。よろしく」
拓海は立ち上がり、台所で洗い終わった皿の水気を拭き取っている母親へ駆け寄る。
「どうしたの拓海くん?」
「いいから耳貸して」
ネネには聞こえないように拓海は耳打ちをする。
「あの人警察に渡しちゃった方がいいと思うんだけど。知らない人でしょ?」
「そうねぇ」
彼の体に傷がない以上、拓海の記憶が正しいとは限らないが、少なくともあの山で不良青年の傷害事件と失踪事件が同時に起きているはずだ。ネネがそこでの関係者ならこれはもう、白銀家が関わるべきではないのだ。事件として警察に任せてしまった方が面倒なことにならないだろう。
「拓海くん」
おっとりした口調で話し始める母親。
「私ねぇ、昔から警察が嫌いなのよぉ」
彼女は普段、なにかに対して好きとは言うものの、ここまで嫌いだとはっきりと意思表示しない。拓海の知らない相当重い過去があるのだろう。
「でも誰かが探してるかも」
「だったら私が手伝ってあげるから安心して。私ったらあの子のことが気に入っちゃったのよ」
「なにを……、はぁ」
拓海はこれ以上言うことはなく、大人しく引き下がった。彼の母親が変わり者なのはこの家で一番知っているからだ。もう何を言っても彼女は意見を変えるつもりはないだろう。
「なんだかなぁ」
ため息をついてネネを見る拓海。態度や口調は呆れた様子だが、彼は内心わくわくしていた。
いつも通りの日常が一変。目つきが悪い謎の美人が家にやってきたのだ。中学生の妄想のような冒険話が始まりそうで、年頃の子供なら期待しないわけがない。
拓海は再びネネの前まで移動し、体育座りをする。
「それで、ネネさん?」
「呼び捨てでいい。堅苦しいのは嫌いだ」
「あーそう。じゃあ、ネネは、これからどうするつもりなの?」
「とりあえずあたしの記憶が戻らない限りは下手に動けねぇ。ちょっとの間、お前のお母さんの世話になるぜ」
「俺もなんか手伝えることがあったら協力するよ」
「すまねぇな。恩に着る」
こうして白銀一家に新たな家族が増えた。
これから拓海は普通の人間なら関係のなかった非日常の世界へと引きずり込まれることとなる。
そして謎の女、ネネは大勢の人間と戦い、血を流し、そして殺すのだ。
うまいラーメンが食べたいなぁ……