第百五十八話
放られた男は短い悲鳴を上げて他の仲間へとぶつかって落ちた。硬いアスファルトに激突したせいで起き上がった顔から鼻血が噴き出している。
「てめぇこのアマ、やりやがったな!」
腕を折られてもなお、その男はネネへの敵対心を失っていない。
「まだやり足りねぇンだよ!」
ネネは目にもとまらぬ速さで一番近くにいる男へ迫り、がら空きの鳩尾に鉄より硬い拳を叩きこむ。
「うヴぉっ」
殴られた男が少しだけ宙に浮かび、ネネはさらに殴り抜けた。男は駐車してあるミニバンのドアに当たり、動かなくなった。手加減はしてあるので死にはしないだろうが心は折れたはずだ。
「くそっ」
一人がポケットからナイフを取り出した。刃渡り十センチほどの小さいナイフだが刺されば致命傷にだってなり得る。
ナイフを持つ男が殺す気で突き出してくる。ネネはそれを避けようともせず受けた。肩に突き刺さったものの、空いている手でその顔を掴み、持ち上げようとする。だがネネと男とは身長差があるので男の足は地についていた。
「くたばれッ」
そのまま男の後頭部を地面に叩きつけた。鈍い感触が頭を通じて感じ取れる。男は体を痙攣させて動かなくなる。それどころか泡を吹き始めた。少しやりすぎたかもしれない。
ネネは肩に刺さったナイフを抜き、刃の方を持つと特に狙いを定めずにあっけに取られている男へ投げつける。
「うわっ、痛っ」
ナイフは男の二の腕に命中して深々と刺さった。彼はまだ痛みを感じていないようでそのナイフを抜こうとする。
「おいやめとけ」
ネネはそれを止めた。どうしてかわからないといった顔で彼女を見る男は柄を握った手を動かせずにいる。
「それ動脈いっちまってるかもしれねぇぞ。抜いたら病院着く前におっ死ぬだろうな」
そう言われて男の顔はみるみるうちに青ざめていった。何かを言おうと口をパクパク動かしているが声がまるで出ていない。やがてその場で尻をついてネネのことより自分に刺さったナイフの方ばかり気にして涙を流し、ただ眺めるだけとなった。
「弱ぇ! みんなみんなクソ弱ぇ! 心も体もちょっと傷がついただけですぐダメになっちまう根性なしどもめ! あたしと対等にやりあえる奴ァいねぇのかよッ!」
足元に転がる体を蹴り飛ばし、最後に残った男へ歩み寄っていく。目の前で成すすべもなく四人も仲間がやられた光景を目の当たりにした彼はもはやどうすることもできるわけがなく、素っ頓狂な声を上げて逃げ出した。
「あ、待ちやがれ! 殺す!」
駐車場の隅、拓海たちが出て行ったフェンスと石塀の隙間から出た男を追って、ネネも走り出す。そのわずかな間を縫っていくのが億劫でネネは石塀を体当たりで破壊して突き進む。すぐに人混みへのある大通りに出たものの、男の情けない後ろ姿は見逃さない。通行人を突き飛ばして逃げ続ける彼の後を追うネネはまるで楽し気で、得物を狩る肉食獣のそれであった。
「こっち来るなよ!」
「うるせぇ、観念して殴られろ!」
およそ百メートルほどの短い鬼ごっこを展開し、突然終わった。
「お、お前は……っ!」
男が通行人の一人に話しかけたときだ。通行人の掌底が男の顎を打ち抜き、彼の体は力なく地面に倒れこんで派手に転がった。
「なンだ……?」
ネネは何が起きたのか一瞬わからず立ち止まる。
男を倒した人物は女で三人のグループを組んでいた。全員が女だ。ネネはその連中が祭りに参加しているだけの一般人だと思ったが、そうでもなさそうだった。なぜなら彼女たちの井出立ちがまるで噛み合わないからだ。一人は女子高生風の格好をしているがこの辺の高校の制服ではない。一人は黒のチューブトップとゆったり系のカーゴパンツ。一見するとダンサーのような格好だ。ひどい隈と目つきの悪さが目立つ。ネネほどではないがかなりのものだ。どこかの露店で買ったのであろうリンゴ飴を舐めている。
最後の一人はグレーのスーツに身を包み、この祭りの場に似つかわしくない格好となっている。眼鏡と目の下の泣きぼくろが特徴だ。事務仕事からそのまま抜け出してきたかのような服装をしていながら、この女こそが男を一撃で倒して見せたのだ。華奢な体で大の大人の男を沈めるなど普通の出来事ではない。
「殺したんか?」
「いいえ、まさか。ただしばらくは目を覚まさないでしょうね」
ダンサー風の女と事務女の会話が耳に入る。人を傷つけたというのに、まるで服についた虫を払うかの如く感情のないやり取りであった。
「こいつの出番は終わりじゃ。ネネ相手ならこの程度じゃな」
三人組が男の体を乗り越えてネネのもとへ歩み寄ってくる。
「ちょっと金チラつかせるだけでここまでうまくいくなんて世の中単純というものよ」
「テメェ……!」
ネネは鳥肌が立つのを感じた。この女はネネの名前を知っている。先ほどまでの喧嘩をすべて仕組んだと思われる発言。そしてこの緊張感。相手はネネに何らかの用がある。それも決して楽しい用事ではないことだけがはっきりしている。
「……ネネ」
ダンサー風の女は名前を呼び、人混みの中を我が物顔で歩み寄ってくる。まるで攻撃の意思を感じ取れない。女から何がどう来るのかさっぱり見当もつかない。殴りかかるのか、それとも罵詈雑言でも浴びせてくるのか、そのどちらをも覚悟した時、女と目が合った。
「ふっ」
不敵な笑みを浮かべて女がさらに距離を詰める。
─────女の唇がネネの唇と当たった。それはキスと呼ばれるものだ。




