第百九話
「うぶっ、あっ」
少し前に受けた『光の雨』に比べて威力が相当落ちているものの、内臓のほとんどに穴を開けた事実は変わらない。運よく頭部に当たらなくとも、どれだけ力んでも足腰に力が入らない。
「はっ、はっ」
浅い呼吸をしているのはハヴァの方だ。お互い立っているのがやっとの状態で、彼は能力を使って空中に逃げた。ゆっくりと今使える力をフルに使い、ビルとビルの間へと移動し、ネネから攻撃できないところで止まった。
「さすがの俺も、そろそろやばいな」
ハヴァの周囲を囲う空気の層が雨を防ぐ。滴る血が層の内側から外へ落ちて雨と混ざり、遥か下へと消えていった。
「ウ、ウウ」
ネネの目はしっかりとハヴァの行方を捉えている。それでいてまだ戦う意思が衰えていない。ふらつく体で少しだけ移動し、ヘリポートの縁までやってきた。そこへ登ることなく下の段で立っている。
「あいつ、一体何を……」
体が再生するのを待ちながら彼は考える。ヘリポートに乗っているのならば助走をつけてとびかかるのかもしれない。だが乗っていない。何をするのか見当もつかない。血を流しすぎてそれ以上考えるのが億劫だった。
「何をしようが俺の自己再生は間もなく完了する。お前の勝ち目は未来永劫ありはしないんだぜ」
彼の両腕の皮膚が再生しつつあるなか、ネネはいまだ筋肉繊維の再生をしているところだ。このタイムラグがネネが勝てない原因でもある。
そんなネネが動いた。彼女は壊れたままの両腕を使ってヘリポートを持つ。
「う、うあああああぁぁぁッ!」
獣のような咆哮と共にそれは悲鳴を上げて動き始めた。コンクリートと鉄筋、そして相当数のボルトで固定されてどんな暴風に襲われようとも決して動くことのないはずのヘリポートが、ネネの腕力によって持ち上げられている。
「あああああああ!」
彼女の足元が重さに耐えきれず陥没する。
「うおあああああ!」
土台を破壊するだけでなくさらに高く持ち上げて、ネネの腰ほどまでになった。
「ぬぅあッ」
一瞬の溜めがあり、刹那ヘリポートという超重量物をひっくり返した。ハヴァから見ればゆっくり動いているように見えるそれは、実のところ相当な速度でこちらに倒れこんできている。
「ははっ」
ハヴァはそれを見て鼻で笑う。いくらヘリポートで圧殺しようとしたところで、距離が足りていない。こちらを攻撃しようと気張る姿がまるで情けなかった。
だがしかし。
それでもなお。
にも関わらず。
ネネの『人を殺す』という圧倒的な意思は人工的な石の塊から威圧され続けている。どうしても彼は心の底から哀れに思えないでいた。
ハヴァの予想は的中し、ヘリポートがひっくり返って向こう側が見えてきたところで、ほぼ同時にネネの姿を捉えた。それも、こちらに向けて走りこんでいる最中のだ。
「う、おっ」
そんな姿にハヴァは怖気づいた。
ネネが自力で坂を作り出し、倒れて効果がなくなるまでの一瞬の間に走って飛び掛かってきたからだ。恐怖とか頭脳とか、そんな人間らしいものをすべて捨てて、今はハヴァを殺すことしか考えずに自身の本能だけで襲い掛かってきている。
「死ィねええええぇぇ!」
縁から飛び立ち、ハヴァへ握りこんだ拳を構える。
「くそっ」
まだ終わっていない。ハヴァはここに留まっていれば殴られてしまうだろう。だからわずかに横に動く。空中で軌道を変えられるのは彼たった一人だけなのだ。こうしてネネは彼のすぐ横をかすめて再び地面へと身投げすることとなる。
「あっ」
無様なネネの顔を近くで見たいがために、ほんの少しだけ動いたのは間違いだった。
やるならもっと豪快に、相当な距離を取るべきだった。
何も考えていないのはハヴァの方だ。ネネもそうなのかもしれないが、この場合はハヴァの方がより間抜けだ。
決して雨に濡れない彼の体を覆うのは見えない空気の壁。それは雨だけでなく風すら通さない完ぺきな快適空間だ。だからこそ彼は、このビル間を吹き荒れるビル風の存在を忘れ、空飛ぶネネの軌道が少しだけずれることを思いもしなかった。
ランダムに動くビル風の流れを読むことは不可能だ。彼がもしまったく動かずにいればネネはそのまま落下死していただろう。余計なことをしでかしたのはハヴァで間違いない。
『空気を操る能力』を持つハヴァは、空気の流れを読めずに敗北する。
ネネの拳が彼の顔面にめり込んで二人はそのまま反対側のビルに激突する。屋上ではなく、60階くらいの窓ガラスを割り、柔らかい絨毯が敷き詰められたフロアを転がり、ネネが上になる。
もはやハヴァに抵抗する力は残されていなかった。衝撃破を出す体力はなく、またしても両腕は傷だらけで動かない。そもそも肉弾戦を得意としない彼に、ネネとの殴り合いで勝てるはずがなかった。
それ以上に、ネネのスタミナが圧倒していた。この女は一体どこまで動けるのだろう。どうしてそこまで傷ついてもなお、力の限りを尽くせるのだろう。
ハヴァはネネに殴られ、意識が飛びそうになりながら敗因を考えていた。
(ありがとう。俺はネネが好きだ)
やがて彼は、ここまで戦ってくれたネネに感謝し、そして恋を自覚した。
ネネは一撃ごとにフロアを破壊し、二人はどこまでも下の階へと落ちていく。
決着。




