第百四話
ちょっとだけ過去話。
ツインタワー屋上、ハヴァとは反対側で大粒の涙を流す女はナシェリーだ。
「うっ、ううあ、あああ」
苦しくて息ができない。涙がとめどなく溢れてくる。耐えきれず涙は死んだ拓海の頬に落ちて流れる。
─────少し前の出来事。
拓海は拷問部屋に囚われ続けていたものの、ハヴァが大慌てでどこかへ去っていって以来何もなかった。剥がされた足の爪がヒリヒリと痛んで仕方ない。泣き叫ぶ声も枯れ、喉も痛かった。
「ふぅ、ふぅ」
拓海は心を落ち着けるために深呼吸を繰り返していた。ここから出る手段はない。どうやらネネたちが助けに来ていることだけはわかっていた。いつか助けにくることを祈り、今は心身ともに平常心を取り戻すことだけに集中していた。
「こんな得体の知れない連中とつるむのはうんざりだ。とっととズラからねぇか」
拷問部屋の扉の外から声が聞こえる。男の声だ。どうやら誰かと会話している様子だ。
「ガキはどうするよ」
もう一人が言う。おそらく拓海のことで間違いない。
「知るかよ。子供殺しはごめんだぜ」
「わかった、行くぞ」
命だけは助かったのだと知り、拓海は安堵した。放置されてはいるものの、とりあえず殺されずに済みそうだ。
「ぁがっ」
「きぇっ」
不気味な音がした。人が発するには少しばかり奇妙な声だ。カエルを踏み潰したような声とはこのことだろうか。
直後、部屋のドアが開いて銃を持った男が姿を現した。とてもではないが味方とは思えない見た目に拓海の心臓が嫌な高鳴りをする。
「……」
だが男はドアを開けただけで動かない。何も話さない。その目はどこを見るでもなく虚空を見つめている。
ぐちゃ。
男の体が細かく切断されてその場に落ちる。断面から内部に残った血がじわりとにじみ出て床に溜まっていく。
あまりにも唐突な死にざまに拓海は吐き気を催す。この二日間で一体何度吐けばいいのだろう。
「なんで、俺がこんな目に……」
たかが十五歳の少年に降りかかる現実に心は確実に蝕んでいく。鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「拓海くぅん」
聞き覚えのある声がして拓海はそちらを見る。ドアの方から聞こえたが、そこには誰の姿もない。聞き間違えかと思い落胆したが、まさしく現実の声である。
「待たせたわぁ」
拓海の母親、白銀海が現れた。ドアからではなく、壁をすり抜けてやってきた。
おまけに男の死体の襟首をつかんで引きずっていた。
「この男が私たちを誘拐するように指示した犯人みたい。ほら、もう死んでるから私たちもう安全よぉ」
見覚えのない白衣の男の死体を無造作に放り捨て、母親は乗り越えてこちらにやってきた。
それを見て、拓海は瞬時に理解した。ああ、自分の母親は人間じゃないんだな、と。タネも仕掛けもないすり抜けを見せられてそいつがまともな人間であると言えるだろうか。
「どうしたのぉ、私はここよ。助けに来たのぉ」
この独特な間延びした話し方は間違いなく母親だ。鼻をつく血の匂いも現実だ。ならばはやり、これは現実に起きている出来事であり、受け入れなければならない事態である。
「お母、さん……」
それが人造人間だとしても、母親であることに変わりない。
「なぁに?」
「今日の夜ご飯は俺が作るよ」
拓海は絶望と不安に押しつぶされぬように現実から逃げ出そうとした。いつもの日常が少しでも元通りになってほしいという願望から見て見ぬふりを貫くつもりだ。
それでも拓海の顔はいまだ涙と鼻水にまみれている。そんな表情を見て、彼の母親はひざまずいて彼を抱きしめる。
「今日は外食するって言ってたじゃない」
拓海は肌がちりちりと痛むのを感じた。全身の皮膚が軽い日焼けをしたような不快感が気になって仕方がない。
「拓海くんをこんな目に遭わせた奴らはみんな片づけたわ。誰も拓海くんをいじめる奴はいなくなったわ」
「それは、どういう意味?」
答えを聞かなくてもわかる。男たちは母親の能力によって殺害された。ここにやってくるまでの間に一体何人の人間が死んだのか考えたくもない。
「いつか家族みんなで暮らせるように私はなんだってするわ。だから安心してね。拓海くんはもう大丈夫だから」
肌の不快感が最高潮に達したとき、拓海の頬をやさしく撫でる女が能力を発動した。
「こんなところ、早く出ましょう」
体が燃えるように熱くなり、しかし表面上に異常はなくそれでも拓海は声にならない悲鳴を上げようとしたがそれは母親の耳には届かなかった。ここまで近くても声を発する前に二人の姿はまとめてどこかへ消えてなくなってしまった。
直後、ひどく疲れた顔を浮かべたネネが扉を開けて入ってきた。
「なんだよ」
この部屋に誰もいないとわかってなおもネネは表情を変えなかった。




