第百三話
なにやら不穏な空気がしますね。
少し疲れたネネの蹴りがハヴァの肩に当たり、もげる。そこまでは大した問題はないのだが、それで命の危機を覚えたらしいハヴァの体が青白く光り出した。体全体があの光球の色と同じになり、ネネは思わず後ずさる。
「こいつ……ッ!」
しかしいくら離れたところでその程度の距離はまるで意味をなさない。ハヴァの体から滲みでているのはネネが憎き光球そのものであり、彼の本能が制御装置である手の平でないところから射出しようとしているのである。
刹那、強い圧力が放出された。練り固められた空気が幾重の層になってネネを押しつぶし、いとも簡単に人間の体は吹っ飛んで行った。
嫌に鼓膜に響く爆発音がした。ハナが顔を上げてみればツインタワーの屋上から破片が舞い散っているのが見えた。ネネがいる方のビルだ。
遠目では小さくて細々した欠片だが、ハナの機械化した目にははっきりと換気用のダクトやコンクリートの一部が見えた。あれがまもなく落ちてくるとなるとここにいては大変危険であった。
「アルゴン! 落下物!」
ハナに名前を呼ばれたパイロットは何がどうなっているのか聞くよりも前にヘリコプターを旋回させ、彼女の指さす方向へと緊急回避を行った。
先ほどまで一同がいた場所に瓦礫の山が降り注いだ。それを見て各々が青ざめ、そしてハナを見る。
「ネネは屋上で戦ってるみたいね」
それだけだった。今のハナにとってネネの戦いの様子はさほど大事ではない。あのナシェリーを見つけ出し、手段を問わず止めるほうが優先順位が高い。
「とにかく俺たちもネネを援護しよう」
そんな提案をしたのはイーズだ。アルゴンはヘリコプターを操り、屋上まで急上昇を始める。
「ネネなんて今はどうでもいいじゃない」
抱え込んだ狙撃銃を見つめながらハナは呟くようにイーズに言った。エンジン音で聞こえてないのかと思いきや、彼は振り返りハナの目を見て答える。
「ネネの援護も大事だし、ナシェリーを探すのも大切だ。なんにせよ空からなら見つけやすいだろ?」
彼の言うことは間違っていない。これは任務であり、決してナシェリーのためだけにすべてのリソースを注ぐわけにはいかないのだ。それにヘリコプターに乗っていながら低空を飛ぶ理由はない。
ハナは今の自分が嫌いだった。これまで大勢の人造人間を相手にしておきながら、いつも冷静でいられたではないか。たった一人の人造人間のために何を熱くなっているのか、と。
「拓海君は確保できたかしら……」
ふと、保護対象である拓海のことが気になった。ネネがなぜ戦っているのか、よくよく考えるとわからなかった。あの短気な女はどんな些細なことでもケンカをする。きっと肩がぶつかったからという理由でもおっぱじめることだろう。拓海を守って戦っているのが理想だが、もしも拓海が傷つき、そして動かなくなってしまったことで戦うのなら果たしてネネはどうなるのだろうか。相手が動かなくなってもなお、破壊行為を続けるのか。それとも意外にも冷静で冴え切ることができるのか。
拓海が絡んでいない戦闘なら特に茶々を入れる必要はないだろう。ネネは望んでこの島に来たのだから。
ネネや拓海がどうであれ、あと数秒もしないうちにハナたちは屋上まで到達する。こんな妄想も意味を持たなくなる。
「さあ、誰がやりあっているのかなっと」
強烈なビル風が顔を撫でて思わず目を瞑ってしまったが、それは一瞬の出来事だ。屋上にいる人物はすぐにわかった。
「なっ……!」
わかってしまったからこそ、ハナは絶句した。まず最初に目に入ったのはネネの足を持ち、引きずるハヴァの姿。次に反対側の屋上にいるナシェリーと拓海の姿。どうして彼らがこんな場所で一同に会しているかはこの際問題ではない。ハナは能力を使って人の体からわずかに発せられる心拍音を視覚化して察知していた。大昔のSFアクション映画から着想を得たものだ。ある程度の距離ならその人間の心臓が動いているかどうかわかる。
だがネネと拓海、その両方の心臓が止まっているように見えて、ハナは頭がくらくらした。本能的に状況を理解し、頭に血が昇ったのだ。
つまるところ、ネネと拓海は死亡している。それ以上に解釈できなかった。
「ハナ、どうなってる!」
イーズが大声で確認してくる。報告したくないが、しなければならない。ハナは痛む胸を押し殺して声を出す。
「ネネと拓海君が、死んだ。ナシェリーに動きなし」
ヘリコプター内の空気が凍り付くのを感じる。ネネはともかく、拓海が死んでいるのだとしたらこれは取り返しのつかない事態だ。特にナシェリーにとっては。
「あいつどうするつもりなのかしらね」
ネネの足をつかんで引きずるハヴァは一体に何をするのか、数秒だけ待ってみてハナは理解した。彼はぼろ雑巾のようなネネをビルの谷間に投げ捨てようとしているようだった。
慌ててハナは狙撃銃を構え、ハヴァの眉間に一発弾丸を撃ち込んでやろうとした。
(……っ!)
彼はこちらを見て、優しい笑顔で軽く手を振ってきた。親しい友人にあいさつをするように、警戒心のかけらもなくこれからすることを続けても問題ないと思っているようだ。
「あ」
そうしてハヴァはネネの死体をビルの谷間に投げ落とす。間に合わなかった。ハナがすぐに撃っていればネネは虚無の闇へと落ちずに済んだのに、ためらってしまった。
人を殺すのにためらいは必要ない。そのせいでネネはもう戻ってこられないところに行ってしまった。この高さから落ちたとして、果たしてネネは復活することができるのだろうか。いくら頑丈な人造人間だとしても頭が砕けたり、体がバラバラになったらもとに戻れるのだろうか。
「うああぁーーーーッ、畜生ォ!」
生かしておかねばならぬ存在を死なせたことで、ハナの怒りは最高潮に達した。もはやハナに人殺しを拒む理由はなくなった。ハヴァという邪悪をこの世から消し去らなければハナの明日はやってこない。
狙撃銃が火を噴き、憎き敵の四肢を破壊する。だが流石は新型人造人間。どれだけ撃ち込んでも次の瞬間には元通りになっている。それがうらやましくて、悔しかった。
ところで、絶望のような怒り、または怒りのような絶望に打ちひしがれているのはハナだけではなかった。
人造人間ナンバー8、ナシェリーもまた己の罪に怒り、そして狂い始めていた。
ネネ敗北!
そして始まるナシェリーの世界。




