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大人を甘やかすことの贅沢と美徳について

作者: 矢野祐

通勤のメトロの車内に、ベビーカーを引いた女性が乗ってきた。

あからさまにしかめ面をするサラリーマンや大袈裟に避けるOLも気にならない様子で、ずんずん奥に入って来る。

この朝のラッシュ時間帯に子供を見るのは珍しいことなので、僕はなんとなく見入ってしまう。

僕は最近のベビーカーは随分大きいんだなぁと感心してしまう。


僕には子供はいない。

結婚もしていないわけだから、当然といえば当然だけれど、もしも結婚をしていたとしても子供を作る決断はできないかもしれない。

少子化、高齢化と騒がれている日本で、子供を作る必要性は認識しているつもりだけれど、それでも僕が子供を持てない理由は、子供を作り、育て、教育する責任と義務を果たせる自信がどうしても持てないのが一つ。

そして、甘やかす贅沢を味わえないことがもう一つの理由だ。





子供をのびのびと育てるのは賛成だけれど、甘やかすことは子供の自立を妨げる結果になると思っているので反対だ。

子供を育てる過程で、将来自立できるよう準備させることは、人間に限らず生物全般にいえる、親の義務の一つだろう。

当たり前のようだけれど、このことは逆に言うと、親は子供を甘やかすことは許されないということだ。

言葉通り、心を鬼にして子供がこの世知辛い世の中で生き抜いていけるよう、鍛えぬかなければならない。


このことは僕にとっては苦痛でしかない。

毎日楽しければそれでいいではないか、というスタンスではいけないということだ。

自分の子供とはいえ、個としての「他人」を型にはめる作業は、お互い楽しいものではないだろう。

現に僕は小学校が全然楽しくなかった。

仲間がみんな同じことをして、先生に似ていることが正義で評価されるだなんて、今考えてもぞっとする。

大人になって本当に良かったと、心から安心する。





それと比べて、大人はどうだろう。

甘やかされることは悪だろうか。

少なくとも僕はそうは思っていない。

自立して生きている以上、大人は自由だと思っている。

もちろん、何をしてもいいわけではないけれど、人を傷つけたり貶める人間は自然と淘汰されていくわけで、結局、自己責任ということになるだろう。

生きているだけで正義で、評価されるべき存在なのだ。

なんて幸せな世界だろう。


しかしながら、この甘くて創造的な世界が成り立つのは、その世界が物質的に安定していて、日常生活に不安がない場合に限る。

その日の食べ物を見つけるのにも苦労する状況では、一人ひとりが自立しているとはいえないからだ。

これは別に仕事がなければ自由ではない、と言っているわけではない。

(もちろん、経済的には自由ではないかもしれないが)

飢餓で死ぬような心配がない、ということだ。

きっと明日は生きている、と当然に思える社会だ。

このような社会では、僕たちは生きているだけで評価され、自由で、甘美であるべきなのだ。





この甘美な世界とは、まさに現在の東京のことではないかと思う。

明日の食べ物に困っている人が何人いるだろう。

少なくとも、この地下鉄の車内には、メトロに乗る財力もない人間は一人もいない。

みんな甘やかされることが許されない辛く長い子供時代を乗り越え、自立して生きていて、今日も地下鉄で目的の場所へ向かうことができる。


さあ、甘やかそう。

自分も他人も。

この甘美な世界で、自分をお互いを甘やかすことの出来る大人だけの贅沢を存分に味わおうではないか。

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