コーヒーは物理に勝るのか、物理はコーヒーを凌駕するのか。そこが肝心だ。
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カエル、蟻、チョコレート(いずれかor全て)に対して常日頃より苦手意識を抱えている方には、ブラウザバックを推奨致します<(_ _*)>
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レイテ村、早朝。囀る小鳥たちの声も爽やかな、一日の始まり。
そのすがすがしい空気を余所に――――ずぅん、ずぅんと少しずつ近づいてくるのは不穏な足音だ。
それは確かに迫る、脅威。
樹海の傍らに存在する辺境の村らしく、やはりそれなりの頻度で迫る、危機的状況。
その平穏な早朝が一変するまで、あと僅か。
鳥は羽ばたき、鼠は駆け出し、それを追って狐が狩りをする。そんな野性と食物連鎖を横目に、異世界の朝は明けていくのだ。
「……久しぶりに目の当たりにしたけど、やっぱり酷いなぁ。これ」
そんな終少年のささやかな独白の先には、ぴくりとも動かない兄の姿がある。
朝だ。窓の外は青々と晴れ渡り、吹き込んでくる風に初夏のそれを感じられる。この上もなく心地のよい朝だ。
ちなみに兄が、朝と書いて絶望と読むほどのコーヒー中毒者にして超低血圧体質であるのは以前にも話した通りである。
しかしながら、終少年にとってはこの上もなく清々しい日差しに、小鳥の声も交えての異世界生活二日目の始まり。思わずラジオ体操のテーマを口ずさみたくなるような、希望に満ちた(?)朝であった。
そもそも、目を開けてブルブルと頭を振ってから「……ああ、そういえば異世界」と呟きつつ、特に大きな感慨もなく顔を洗いに下へ降りて、臆することもなく宿の店主から井戸水の汲み方を習い、ざばざばと顔を洗って戻ってきた終少年である。
その胆の太さ――図太さについては昨晩のゲビタ騒動をご覧いただければ、重ねて言う必要もないだろう。その揺るぎない精神力をして、チートな兄を驚愕せしめる弟(非チート)である。
そんな弟の視線の先には、爽やかな朝には到底似つかわしくない――屍の如く、深い眠りから覚める気配のない兄。
一目見て、思わずついて出た感想が上のそれである。
「以前からも薄々思ってはいたけど……社会人間近の成人としては致命的な欠点だよね」
「――……う、うーん」
眠りの底にいても、憐れみの視線を受けていることを野性的なそれで感じ取ったものか。
心なしか苦しげな寝息を漏らし、ゴロンと寝返りを打った兄に溜息を落とす弟。既にその身支度は整っており、更に加えれば溜息をつく傍ら『箸』を磨く手を休めることもない。
そう、これは件のゴーレムたちのなれの果てである。山のように積み重なっていたそれを一対ずつ丁寧に輪ゴムで束ねて、村まで風呂敷に包んで持って来ていた。
ん? そもそも輪ゴムとか風呂敷とかどこから出したって?
そこを突き詰めていくと、ゴーレム以外の被害者たちがゴロゴロ出てくるんだけど一から説明した方が良いのかなぁ……。
まぁ、こちらからすれば思考錯誤の結果と一言で纏めてしまえるんだけれど。ただ肝心の『当人たち』からすれば堪ったものでは無いよね。
「それにしても妙な変換方式だな。どうして岩巨人が箸で、不死骨が輪ゴムで、食虫花が風呂敷なんだろう……」
どうせなら箸、お弁当箱、醤油入り鯛(正式な名称が思い出せない……)の順に一揃い欲しかった。とても残念である。
しかしどれほど嘆いたところで、その変換方式がこの世界のルールであり。岩巨人をどれ程打倒したところで、後に残るのは箸の山。不死骨をどれほどバラしたところで、ぶら下がるのは輪ゴム。食虫花をどれほど焼き尽くしたところで、風に靡くのは風呂敷(ただしカラーバリエーションは豊富)なのだ。
「このままで行くと……家具一式揃うのに何年かかる事やら」
そんなしみじみとした独白はさておき、異世界に来て独特の変換方式に頭を悩ませることとなっている現状。召喚者の意図さえ明らかにされる間もなく、物語は当初の目標とは明らかに異なる方向へと変わっていこうとしていた。
しかし、それを兄弟たちに突っ込める役どころはまだ登場シーンさえ迎えていない。爽やかな朝を謳ってはいるものの、その内実は混沌としたものへ移行しつつあるのだ。
「鍋欲しい。あと包丁と……まな板? 道のりは遠いけど……うん、まぁ為せば成るよね。炎は兄さんが自力で出せるし。今日こそはまともなご飯を食べたい」
今日の献立は鍋。十歩譲って煮物でも可。
そんな終少年の決意に満ちた双眸は、幾分か据わっている。昨日の肉串焼きのみの食生活がそれなりに堪えたものであろう。飽食時代の子供(加えて成長期真っ只中)にとって、美味しいご飯を食べられるか否かはこの上もなく重要な案件なのだ。
よし、と呟いて立ち上がる終少年。艶々とした箸の山を色とりどりの風呂敷に包み終え、後は肝心の兄を起こすだけになった。
この世界にコーヒーに類似した飲み物があれば、それに越したことはない。けれども現実はいつだって苦難に満ちている。手元にあるのは、箸、輪ゴム、風呂敷の三点。元居た世界から持ってこられたものは腕時計(ソーラー式)と単語帳だけなのだから。
だからこそ、選べる選択肢は一つだ。
「せーのっ、」
「――――うぉおおおおお?!!」
流石の兄も、寝台自体を引っくり返されれば起きざるを得ない。
チートな兄の起床は、弟のそれなりの腕力によってものの見事に引っくり返された寝台からゴロゴロと勢いよく床を転がり、部屋の四方にある柱の一つに強かに額をぶつけるという一幕によって為された。
尚、この折に発せられた兄の若干魔物じみた声により、周りの部屋からささやかな苦情が上がるという些か想定外の事態が発生することとなったが肝心の弟(加害者)はその精神に僅かのダメージも得ることはなく、全ての咎を低血圧な兄(被害者)に被せるという手腕でもって、全てを相殺した。
額を押さえたままシクシクと泣き濡れる兄を余所に「よいしょ」と寝台を元の位置へ置き直した弟。
差し込む日差しを背に、何事も無かったかのように告げる。
「おはよう、兄さん。目は覚めた?」
「……おはよう、終。打ち所によっては死に掛けたけど、お蔭で目は覚めたよ……」
こうして日下兄弟の、異世界二日目の幕が上がる。
ふらつきながらも起き出した兄の頭頂部。その芸術的な寝癖を横目にしながら、やれやれと一仕事終えた心地で窓の外をふと見遣った終少年。
その視界には、巨大な蟻が映る。
黒い巌の如く、見上げるほどのその巨躯をして、紛れもない蟻である。
元の世界で周知している蟻と比べ、それはもう格段に大きな蟻であった。ガチガチと噛み合わされる顎の強靭さは、現在進行形で噛み砕かれている木の幹――それが生じさせる音――によってまざまざと伝わる。群れでやって来たものか、窓から見通せる範囲だけでも計四匹。それぞれがズゥン、ズゥンと蟻にあるまじき騒音を立てながら村内を闊歩しているようだ。
「……まぁ、異世界だしね」とそんな呟きを零しつつ、カーテンを括ろうとした弟に背後からの兄の突っ込みが冴え渡る。
寝起きながら、その冴えは他の追随を許さない素晴らしいものであった。
「――――間違ってるから!! カーテンを括るの優先しないで?! 寧ろその冷静さが怖い!」
レイテ村、早朝巨大蟻襲撃事件。
新聞の見出しを付けるとしたら、そんなところかなぁ……としみじみと呟く弟を引き摺って、こうした異世界案件にそれなりに耐性のある兄、始が宿屋を飛び出した直後だ。
上から降り注ぐのは、宿屋の屋根部分。見上げればちょうど、二匹の巨大蟻たちが宿屋の上にその巨躯を乗り上げたところだった。
後方には、既に避難をしていたらしい宿屋の主人。その悲痛な叫びが聞こえてくる。
「……ああ、何てことだ。 ここ数年の間、巨大蟻が村へ襲撃を掛けてきたことなんてなかったのに!!」
建物の外へ出て逃げ惑う村人たちの声を聞きかじっただけでも、一様に皆が同じことを叫んでいる。
弟と共に路地へと見を潜めながら、やれやれこれは何ともまた分かりやすい兆候だと溜息を隠せない始であったが。
「巨大蟻ねぇ……。何か無駄に気合の籠った命名じゃない?」
「終、繰り返しにはなるけどね、君は落ち着き過ぎ。見た目は面白い部類に入るかもだけど、多分あれは人も食う魔物だから」
「分かってるよ、兄さん。現にさっき、飲み込まれてる人も見たよ。正直あんな死因は勘弁だから、暫くは兄さんの背中に張り付いてることにするよ」
「……あ、もうリアルタイムで見ちゃった後なの?」
こくり、と効果音が付属しそうな深さで肯定を返されて、やや引き攣った表情を隠せない兄。
こう見えて、弟はスプラッター系を大の苦手にしている。要するに表情に表れていないだけだ。
そうして、がっちりとシャツの端を握りしめられた感触。それを引き金に、始は普段は浮かべない類の冷然とした横顔を張り付けていた。
――弟をこの世界に巻き込んだのは自分だ。その弟を守れるのも、この場では自分だけだ。
「終、君の事は必ず僕が守るよ」
「うん、ここぞという時は信頼しているから。兄さん」
「……ここぞ以外は?」
「そこは察して」
今一シリアス展開になり切らない、微妙な空気感。
ここぞという場面においても今一盛り上がりに欠ける兄弟愛。
そんな特徴を余さず体現する兄弟は、本日も健在である。
一方の村の外れ、丘の上。
そこには魔眼鏡を片手に、村の襲撃風景を傍観に徹している面々がいたりもする。
「あらあら、巨大蟻が村を襲撃するなんて十数年ぶりじゃない?」
「「「さすが姐さん、またの名をレイテ村の生き字引……!!」」」
「…………なにか今、聞き捨てならない五文字が聞こえた気がするのだけれど。気のせいかしら?」
「……どうしてそこで俺を見る。今の発言は明らかに俺じゃないだろ」
「あの子たちの責任者は貴方でしょう? ゲビタ」
「…………っ、だからなぁ!! 俺の名前はゲビタじゃねぇって何度言わせる気だよ?!」
今日も今日で悲痛な声を響かせる役回りに徹するギダンは、夜中丘の上で酒宴に興じていた村娘カレンと、配下の男たち――太めのマッチョ男ウルフ、敢えて空気は読みたくない眼鏡男ガッツ、野性味は溢れているが、野宿は苦手男スライス――そんな彼らが丘の上に散らかしたゴミの後始末に奮闘していた。
仮にもリーダーがする事か? その疑問は尤もだ。十人中九人は確実に同じ疑問を抱くことだろう。残りの一人については突っ込むなよ。それこそ無粋だ。世の中には理解の出来ない人間が一割程度はいると考えてほぼ間違いではないからな。その辺は堅実に行こうぜ。
――――微妙なところで世知辛い思考のゲビタ。今まで彼がどのような生活を送り、どのような経緯で三人の男たちに一方的に『リーダー』として慕われ、どの時点でその現実に諦観を覚えるようになったか。
それは十人中七人程度の割合で、言葉にしなくとも分かってくれることだろうとギダンは内心で期待している。
「あらあら、ギダンって誰かしら?」
「「「知らないです。初めて聞きました!!!」」」
「…………お前ら本当に、まじでいつか覚えてろよ」
密かに血の涙を拭いながらも、ゴミの分別は徹底して行う。そこがゲビタ・クオリティーである。
「さて、あの子たちは一体どうするつもりかしら? 村を見捨てて隣町に避難する? ……それとも」
「「「おおー、姐さんの期待に満ちた笑み。老獪さ、腹黒さ、いずれも満点で、痺れますね!!!」」」
「…………ゲビタ?」
「だからどうして俺だよ?!」
オチは常にゲビタ。
そんな恒例となりつつある会話を余所に、一際騒がしさを増したレイテ村。
その騒めきが丘の上まで届くのと、再び魔眼鏡を掛けなおした村娘カレンが歓喜の叫びをあげるのとはほぼ同時であったという。
「――――やっぱり!! わたしのお眼鏡にかなうなんて、あの子たち只者ではないわよ!」
因みにこの発言に対し、内心で「おいおい……何様だよ」と密かに苦笑していたギダン。
ほんの一瞬表情に表れたそれを、見逃すほどの可愛らしさを元より備えていない村娘カレンによって昨夜に続いての氷河期が再来訪することとなった。
憐れなり、ギダン。いや、もはや彼の名はゲビタ。
そんな救いのない現状に救いの手を差し伸べる割合が、はたして十人中何人現れるのか。
それはまだ、誰にも分らない。
時は少々遡る。
丘の上でギダンが悲痛な声を上げていた最中、レイテ村では巨大蟻に加えてもう一つの異変がその猛威を振るおうとしていた。
その猛威とは何か? ここは端的に言おう。蛙だ。蟻に引き続き、巨大蛙か? いや、その発想には斬新さがもう少し足らない。
事実、終少年の視線の先に現れた一匹の蛙。その特徴を一言でいえば……
「……やたらいい薫りがする」
「魔物……にしては小さいか。サイズも向こうの世界とそう大きくは変わらないみたいだし。うん、色と薫り以外は割と普通な生き物にみえるね……」
兄弟は路地裏に潜伏している最中、ふと視線の先に真っ白な蛙を見つけて興味を抱いたらしい。
両側から蛙を挟んで、それぞれに考察したことを述べ合っていた。
相応の状況下においても、好奇心がその上を行く――そこが日下・クオリティーと言えるだろう。
暫くは程々の距離を置いて観察に興じていた二人であったが、何を思ったか不意に終少年が指先で蛙を摘み上げる。
ゲコッ、と小さく鳴いた蛙は――――そのまま気絶した。
その反応を見た終少年。指先に気絶した蛙をぶら下げたまま、彼にしては珍しいことに微かに目を瞠る。
「……何という繊細さ。これで自然界を生き延びていけるの?」
「うーん、微妙な線だねぇ」
思わず零れ出た弟の本音に、苦笑で返す兄。
その間も指先からは、蛙に似つかわしくないフローラル系の薫りが漂ってくる。
「何だか、気絶した後の方が匂いが強くなっているような気がする」
「……言われてみれば確かに」
「どちらかというと、薔薇に近いかな?」
「いや、どちらかと言えばヒヤシンスみたいな……」
「マイナーすぎて分からない」
「迷いのない切り返し!」
そうこう言い合っている合間にも、巨大蟻は着々とレイテ村の攻略を進めていた。
一方の兄弟たちはと言えば、物語の本筋からかけ離れた方向へ着々と進み始めている。
救いのない現実だけが、そこに存在した。
しかし時として、思わぬところから打開策は生じるものであったりもする。
「うーん、捕まえたはいいものの、気絶してるしなぁ……兄さん、試しにこの蛙も変換してみない?」
「前々から薄々気づいてはいたけれど……終って割と、容赦のない性格をしてるよね。そこはどちらかといえば母さん譲りだと思う……」
「そう?」
「うん。少なくとも、父さん気質とは真逆かな」
何かを悟ったような表情で、暫く遠方を見詰めていた兄。
再び視線を戻したところで、詠唱を始めた。それは昨日のお昼から夕方にかけて、散々耳にしてきたそれと恐らく同じ文言だ。
「変換の呪文なの?」という弟の問い掛けに対し、「いや……本来の意味合いは違ったはずなんだけど」と呟きながら、言葉を濁した兄。
それが昨日の夕暮れ間際の会話である。
英語のヒアリングすらも微妙な成績に留まっている終少年に、異世界の呪文を正しく聞き取るセンスが元よりある筈もない。正直、濁されても「ふーん」程度の返答で会話は終了した。
そもそもチートの副産物ともいえよう『呪文詠唱』など、端から関心を寄せていないと言った方が近い。使えない能力に関心を寄せたところで、自滅するのがオチである。鳶から鷹が現実には生まれないように、ナスの枝にプチトマトは実らないのだ。例えが分かりにくい? うん、要するに脳への栄養が不足しているからだと思うな。
糖分が、欲しい。
「……Sweets(甘味)が食べたい」
丁度それは、兄の詠唱が終わるのとほぼ重なるようにして呟いた一言。
ぼふん、と煙に包まれた指の中の蛙――――その感触が、なにやら滑らかなそれから角ばったモノへと変化したような気がした。
「どれどれ……今回はどんな風変わり変換を……」
「兄さん、これ」
まるでチートとは思えない諦観に満ちた兄の声。それを遮るようにして、弟が差し出した手の平。
そこには、チロルチョコが鎮座していた。
それは紛うことなき、チロルチョコであった。
「……終、朝からチロルチョコを食べる習慣でもあったの?」
「そんなマイナーな習慣、まず初めに思いつく兄さんが凄いと思う」
まぁ、確かに。向こう側から持って来たと、そう誤解されても無理はないほどの完成度だった。
しかし改めて言うまでもない。終少年が向こうから持って来た物は二つ(ソーラー式腕時計及び単語帳)だけだ。
チロルチョコを常日頃から携帯しているという、乙女的設定もない。
「……リアル蛙チョコ」
「うん? まぁ確かに原料はそうかもしれないけれど、形はリアルというほどでは……」
「原作を知らない人は、黙ってて」
「……はい」
弟の呟きに対し、さりげなく感想を差し挟もうとした兄はものの見事に跳ね除けられた。
密かに涙目の兄を余所に、しげしげとチロルチョコ――もとい原料はやけにいい薫りのする蛙――を眺めていた弟。
ふと、何か思いついた様子で兄の裾を引っ張る。
「……どうしたんだい、終?」
「兄さん、物体を大きくする呪文はある?」
「んー。そうだねぇ……あることはある、かな」
「流石は兄さん」
「?」
何やら要領を得なかったようで、首を傾げるばかりの兄にコッソリと耳打ちをする弟。
次第に意図するところが伝わったらしく、その表情は楽しげなものに変わる。
「よし、やってみよう」
「まずは実験を兼ねてだね」
小さいチョコも、大きくすれば二人で十分に分けられるよね?
やたら大きい蟻を視界に収めている最中では、むしろ当然と呼ぶべき発想だっただろう。
「Big(大きめ)サイズのチロルチョコって、ある意味商品価値は落ちるかもだけどね……」
意気揚々と呪文を唱え始めた兄を横目に、弟の呟きが路地裏に落ちる。
――違和感を覚えたのは、丁度その直後だ。巻き上がる煙は見上げるほどの高さまで上がり、慌てた様な兄の声は、その煙の向こう側から聞こえてくる。
徐々に晴れていく視界の先に、そびえ立つ壁。
それはとても、見覚えのある包装だった。
「……兄さん?」
「ほんの少ししか、魔力は込めなかった筈なのに……」
呆然とした兄の声を聞きながらも、その視線はどうしてもその『巨大な立方体』へと向けられる。
うん。これは言うまでもなくチロルチョコだったもの、だ。
「兄さんのチロルチョコに掛ける思いがこれ程のものだったなんて……」
「いやいやいや、なんか違う。そういう事じゃなくて!!」
「……いいんだよ兄さん。別に今更隠さなくても、ああして結果は目に見える形で表されてるもの。むしろ今まで気付かなくてごめんね」
「違うの!! 詠唱をミスっただけなの!! その優しさに満ちた眼差しがむしろ痛いの!!」
とうとうマジ泣きに移行しかけた兄に、からかうのも大概にしておこうと思い直す弟。
どちらが兄で、どちらが弟なのか。切実に疑問を覚えそうな遣り取りはさておき。
巨大化した蛙チョコ――それが発する甘い香りは、あっという間にレイテ村中へと広がっていった。
村人たちが騒めき出すのも、ある意味では当然ではあったが。それ以前の問題が一つ。
ズゥン、ズゥン、と。
それは音を立てて『巨大な立方体』を目指して着々と集まり始める。
頑丈な顎を突き立て、こぞって甘い獲物に群がる巨大蟻――――その数にして、九匹。
「……兄さん」
「うん、僕も同じ気持ちだ」
まさか異世界まで来て、蟻に食料を奪われる日が来るなんて思いもしなかった。
言葉もなく、一つの巨大チョコを巡って壮絶な争いを繰り広げる蟻たちによる攻防戦を見上げる兄弟。
そうこうしている内に、何の運命のいたずらか。
丁度立方体であったチョコ。その形状。持ち上げられたはずみで――動き出したそれは、まさに。
そう…………まるでサイコロが転がっていく様子に似ていた。
ズシン、ズシンと地面を揺らしながら、勢いのままにレイテ村から樹海の方角へ向かってゴロゴロと転がって視界から消えていく。
それを追う、巨大蟻の群れ。
喧騒は次第に遠ざかってゆき、徐々に事態を把握に至った村人たちが方々で歓声を上げていた。安堵の溜息を零す老人たちの姿もある。
レイテ村に、本来の平穏さが戻ってきた瞬間であった。
残されたのは、微かに残る甘い香り。微妙な規模で破壊された村。そして静寂。
そう……兄弟たちは、村人たちの歓声を余所に肩を寄せ合い、密かに悔し泣きに暮れていた。
平穏な朝?
確かにそれは望ましいものなのかもしれない。
けれども彼らは今回の出来事によって、心に深い傷を負った。
それは恐らく、次の食料が手に入るまでは癒されることはないだろう。
そして、それは食べ物であれば何でもいいわけではない。明確な基準が存在するのだ。
そう、少なくともチロルチョコ以上に彼らの琴線に触れる食料。
それが日下兄弟にとって、共通の最低条件となった。
「兄さん、アフタヌーンティーには間に合わせようね?」
「うん、そうしようか。……まぁ、もうじきお昼時だけどね」
「ちなみに今晩の夕食は、鍋もしくは煮物だから」
「……うん、そう、出来ればいいねぇ」
でもそうなると、まずは材料以前に鍋探しになるよね……という消え入りそうな兄の声。
それを背に、颯爽とした足取りで歩き始める弟。
こうして始まる、兄弟の異世界生活二日目。
腕の中の時計は、ちょうど十時を回ろうとしていた。
次回は、闇鍋談義に突入……出来るといいな(*´ω`*)(´・ω・`)




