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EMILY  作者: 中根 愛
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Who'll Stop The Rain

 夕食が終わってからはずっと部屋に篭っていた。いつの間にか降り出した雨が僕の部屋の跳ね上げ窓を濡らしていく。虚ろな雨音と陰鬱な暗闇に流れる水のライン。ベッドに座ったまま、僕はそれをただ眺めているだけだ。きっとこの週末はずっとこんな調子で過ごすのだろう。喉が渇いた僕はなるべく音を立てないようにドアを開けて階段を下りた。リビングから父さんと母さんの話す声が聞こえてきて、僕は途中で立ち止まり階段に腰掛けて聞き耳を立てた。何となく、そこに入っていってはいけない気がしたからだ。

 話の内容はエミリーのことだった。正しくはエミリーの家庭のことだ。警察から連絡があった後、父さんと母さんはフィンチャーの家に出向いたようだった。そこではミシェルがエミリーの父親と電話で揉めていたらしい。エミリーを迎えに行ってやってくれとミシェルは泣きながら訴えていたが、父親はそれに承諾しない。一刻も早く迎えに行きたい僕の母さんは、取り乱すミシェルを前にこれでは埒が明かないと電話を代わったというのだ。

 自分の娘が近くの警察に保護されているのだから、行ってやるのが親の責任だろう、と母さんはエミリーの父親の説得を試みた。しかし、相手は強い口調で拒否してきた。離婚の時に慰謝料も払ったし、養育費も振り込んでいる。自分は責任を果たしている、と。その態度に腹が立った母さんは「それでも父親なのか」と声を荒げた。

「身重の妻をこれ以上動揺させたくない」

エミリーの父親は弱々しい声で、そう母さんに訴えてきたという。


「私……それ以上は何も言えなかったわ……でも、ミシェルもエミリーも不憫よね……」

 憤慨とも同情ともつかない父さんの溜息が聞こえる。僕は喉を潤すのを諦め自分の部屋に戻った。ベッドに横たわり、エミリーの父親とその新しい妻を思い出すと無性に腹が立ってきた。動揺するぐらいなんだって言うんだ、あの女だってエミリーから父親を奪ったんだ。罰を受けるべきなんじゃないか。けれども、やっぱりお腹の中にいる子供に罪はないんだ。

 別にエミリーが可哀想だとか、助けてあげたいなんて気持ちじゃない。ただ、自分達の勝手な都合で子供を傷つけているという事実に大人は気付いているのか、そういうことが許せないんだ。

 しばらくすると、階段を上がってきた足音が僕の部屋の前で止まった。

「ジェリー、ちょっといいか?」

父さんだ。ベッドの上で起き上がり返事をすると、父さんはドアを開けて入ってきた。小さな灯りが点いているだけの薄暗い部屋。父さんは照明も点けずに椅子をベッドの隣に持ってきて腰掛けた。

「エミリーの家の事情は大体分かった。エミリーはマイアミにいる父親と一緒に暮らすつもりだったのか? ジェリー、お前は何か知っているのか?」

 懸念に満ちた父さんの顔を見つめながら僕は首を傾げた。エミリーがどういうつもりだったかなんて本当のところは分からない。それでも、彼女が父親に「ママを助けて」と訴えていたのを思い出した。

 ミシェルが困ったことになっている原因といえば、きっとシェパードのことだろう。嘘つきエミリーの言うことだから、どこまでが本当かは疑わしいが、貨物列車の中で泣きじゃくって話したことはきっと真実なんじゃないかと思う。僕はミシェルがシェパードに乱暴されたという話を父さんに打ち明けた。おそらく、それは今でも続いているんじゃないかということも。

 次第にその表情は曇っていったが、父さんは黙って僕の話を聞いてくれた。

「シェパードの野郎、好き勝手やりやがって……父さん、どうにかならないのかな?」

父さんは眉間に深く皺を寄せて溜息をついてから口を開いた。

「あの二人の間に変な噂が流れているのは知ってる。それに、シェパードが若い頃、まだ高校生だったミシェルに熱を上げていたことも。ミシェルはまるで相手にしていなかったけどね。あまりにもしつこくしてミシェルの父親に怒鳴りつけられたっていう話も聞いたことがある」

それならば、シェパードはミシェルに振られたことでフィンチャー家に恨みがあるのだろう。これでシェパードの悪行の裏が取れたと思った。

「それなら……」

「だけどな、ジェリー……」

父さんは僕の言葉を遮り、言いにくそうに言葉を選びながら話し出した。

「もし本当にシェパードがミシェルをレイプしたとなれば、これは重大な犯罪で許すことは出来ない。もちろん合意の上だったとしても、シェパードは結婚しているから悪いことには変わりはない。だけど……こういうことに関しては確証を得るのはとても難しいんだ」

 思いもしない父さんの及び腰に僕の気概が沈み込んでいくのを感じた。それでもやっぱりシェパードは許せない。

「でも、エミリーはそれを見てるんだよ」

僕が食い下がると父さんは俯き、鼻の頭を指の先で掻いている。僕に何て伝えればいいのか悩んでいる様子だ。口ごもりながら発した言葉は僕を深く失望させた。

「お前やエミリーにはまだ分からないかもしれないが……傍からは嫌がっているように見えることもあるんだ……」

父さんのそれは言い訳にしか聞こえない。そんなに市長であるシェパードが怖いのか。町の英雄が聞いて呆れる。僕はありったけの非難を込めて父さんを睨んだ。それに気付いたのだろう、父さんは苦悩に眉根を寄せた。

「ジェリー、よく考えるんだ。何の確証もないのにシェパードを告発したらどうなるか。もしかしたら、エミリー達は家を失うかもしれないんだぞ」

 僕が思っているよりも、ことは遥かに複雑なようだ。結局、力のある奴は何をしても許される世の中なんだ。だったら法律なんかいらないだろ。父さんがごつごつとした大きな手で僕の拳を包み、それで自分が上掛けをきつく握り締めていたことに気付いた。顔を上げると、父さんは僕を真っ直ぐに見つめて頷いた。

「ジェリー、話してくれてありがとう。そのことはちゃんと心に留めておくから、お前は一人で抱え込むんじゃない」


 父さんが出て行った後はベッドに横になり、ランプの影が映り込んで僕に圧し掛かってきそうな暗い天井を見ていた。だから大人は権力を手に入れたがるんだろう、そんなことを考えながら。汚い大人がこの世の中を住みづらくさせているんだ。したたかさを身に付けなければ負け犬と呼ばれる。自分も将来はそうなるのだろうか。今のこの嫌悪感なんて生存競争の中ですっかり忘れるか、青臭かったとせせら笑うのか。そんな自分を想像すると吐き気がしてくる。

 壁のカートが僕を見下ろしている。彼はもうこの汚れた世界には存在しない。少年だった父さんが愛したジミも、カートと同じ二十七歳でこの世を去った。もしかしたら、その二十七歳という年齢は人生の一区切りなのかもしれない。夢を追う純粋さや反骨精神、それらが世俗にまみれる前の。

 目を閉じて十二年後の自分を想像してみようと思ったが、何も浮かばない。ひょっとしたら自分も二十七歳で死んでしまうんじゃないかという考えがふと頭の中を駆け巡った。それでもいいのかもしれない。僕は寝返りを打ち、ドアに背を向けた。雨はさらに激しくなったようだ。ひっきりなしに窓を叩くその音は僕の思考を遮ろうとしているのか、急激に襲ってきた眠気に目を開けていられなくなった。


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