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EMILY  作者: 中根 愛
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Here Comes The Sun

 いつの間にか眠っていたらしい。気が付けばマグライトの灯りは消え、代わりに壁の隙間から明るい光が射し込んでいた。この貨物列車はいつまで走り、どこまで行くのだろう。壁に寄り掛かっていたせいか背中が痛い。それに何よりもトイレに行きたくて仕方がなかった。

 壁の隙間に顔を寄せると暖かい風が吹き込んでくる。外を覗いてみると眩しい光に目が眩んだ。よく見てみると、貨車の向こうには何かばかでかい建物があるようだ。そこの白い壁に日光が反射している。時折行き過ぎる木の形からして、かなり南に来たのが分かった。不意に後ろでごそごそと音がする。振り返ってみるとエミリーが目を覚まして上体を起こしていた。

「……トイレに行きたい」

それを言うなって。そんな言葉を聞いたら余計に漏れそうになる。


 もうそろそろ限界だった。貨車のドアを開けて走る列車から用を足してやろうかとも思った。エミリーはそんなこと出来ないだろうけど。今はこいつのトイレの心配までしていられる状況じゃない。額に変な汗が噴出してきた頃、大きな軋み音がして列車は減速し始めた。

 貨物列車が完全に止まると僕は外の様子を窺い、近くに人気がないのを確認して表へ出た。数多くのコンテナやトレーラーが目に入る。その先にある倉庫のような大きな部屋が幾つも並ぶ巨大な貨物ターミナルの中に人はいるものの、作業に追われているらしく誰もこっちを見てはいない。たとえ誰かに見られたとしても、今はそれどころじゃない。僕達は脇目も振らずに建物に入り、急ぎ足でトイレを探した。コソコソするから怪しまれる。堂々としていれば、案外誰も気に留めないもんだ。

 やっと見つけたトイレに入り便器に辿り着いた時には、よくぞここまで頑張ったと自分を褒め称えた。用を足しながら自然と緩んでくる口元からは安堵の溜息が何回も出てくる。誰だってそういうもんだろう。隣の女子トイレでは、エミリーも僕と同じ顔をしているはずだ。

 洗面所で顔も洗ってからトイレを後にした。ほぼ同時に出てきたエミリーは僕の顔を見ていきなり笑い出す。

「だって、さっきまでの顔と全然違うんだもん」

そんなにすっきりした顔をしているのか。それならエミリーだって、トイレに入る前は眉間に深い皺を寄せていて、誰かが行く手を塞ごうものならぶっ飛ばしかねない雰囲気だったのだから同じじゃないか。僕達は互いをからかい合いながら歩き出した。しかし狭い通路を曲がったところで黒い制服を着た若い警備員と鉢合わせしちまった。

「何だね、君達は? ここで何をやってるんだ!」

警備員は腰に両手をあてて僕達を咎める。半袖から出た腕は日焼けしていて丸太のような太さだ。

「すいません! トイレが我慢できなくて、勝手に借りちゃいました」

僕は正直に言う。ただ、どこから来たのかは言わなかった。警備員は困ったような顔で帽子を取り頭を掻いた。

「ダメだよ。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ」

「ごめんなさい。つい急いでて……あの、バスターミナルはどこですか?」

膀胱破裂の心配がなくなったせいか、調子のいい言葉が滑るように出てくる。警備員は僕の質問にやれやれといった顔で頷いた。どうやら僕達がバスターミナルと間違えてこの施設に迷い込んだのだと思ったらしい。

「バスターミナルはあそこを出て真っ直ぐ二ブロック先だ。バスがいっぱい停まってるから、すぐに分かると思うよ」

警備員は背後を指差し、親切にもこの建物の出口まで教えてくれた。僕とエミリーは顔を見合わせて頷くと、堂々と出口へ向かって歩き出す。本当はスキップでもしたいくらいの気分だった。

 貨物ターミナルを出ると、強い陽射しと立ち並ぶ近代的なビルが目に入った。振り返ると建物に『タンパ』という文字が見える。僕達は貨物列車に乗ってフロリダまで来てしまったのだ。


 バスターミナルに向かう途中もエミリーはずっと笑顔だった。昨夜、泣きじゃくりながら告白したことなどまるで無かったかのように。誰かに話すことで気が楽になったのか。それともこの暖かく輝く陽射しがそうさせるのか。もしかしたら本人は覚えていないのかもしれないとすら思えるほどだ。僕自身も敢えてそれを蒸し返そうとはしなかった。

 ターミナルに着いたが、ひとつ問題がある。バスに乗るとしたら僕の所持金は底をつくのだ。エミリーは財布を失くしたから金は持っていない。バスの終着点で僕達は一文無しになる。だとしたら、この街でアルバイトでも探した方がいいんじゃないかという僕の考えを伝えると、エミリーはあっけらかんとした笑顔で応えた。

「大丈夫よ。マイアミに着けばパパがいるから。お金は何とかなるわ」

そうだ、ここはフロリダ州だった。エミリーの父親はマイアミにいるのを思い出した。彼女の機嫌が良いのは、そのせいもあるのだろう。

 まったくの幸運だ。たとえこれが、あの四つ辻でエミリーが出会った悪魔の所業だとしても構うもんか。金がなきゃ何も出来ないしどこにも行けない。昨日みたいに歩き続けるのはたくさんだ。

 俄然、気分が軽くなった。そうなると空腹なのを思い出し僕はナップザックからクッキーを出した。昨日、リンゴを買った店でもらったやつだ。そのうちの一枚をエミリーに渡す。ペカンナッツがふんだんに入った大きなクッキーを、味わいながらゆっくりと食べる。とても美味いのは胃袋が空っぽなせいだけではないだろう。あの店で強盗なんかしなくて良かったと心の底から思う。クッキーを食べ終わるとバスの切符を買い、それから売店でオレンジジュースを買った。もちろんこれだけで満腹になるはずはないが、どこか僕の心は満たされていた。

 バスの座席に座った僕は、Gジャンとカーディガンを脱ぎナップザックに押し込んだ。身軽になると心まで浮き立ってくる。フロリダなんて所に来たのは初めてだ。しかも、これからマイアミに行くなんて。輝く太陽に青い海、きらびやかな高級ホテルや洒落た店が立ち並ぶ椰子の木に縁取られた巨大リゾート。テレビや映画でしか見たことがなかったけど、誰だって一度は行ってみたいと思うはずだ。それにマイアミだけじゃなく、オーランドには色々なテーマパークがあるし、デイトナでカーレースも見てみたいし宇宙センターにも行ってみたい。せっかくこんな遠くまで来たんだ。何もないフィンチャーズフィールドに戻るのは、それからでもいいだろう。

 バスはハイウェイに入り海岸沿いを走っていく。眩しい陽射しが絶えず僕を照らす。こんなに輝く海を見たのは初めてだ。市街地を抜けて住宅が見えてくると、沿道に連なる松からぶら下がったフワフワとしたコケが気持ち良さそうに風にそよいでいる。そんな景色を眺めていると、昨夜貨物列車の中で陰鬱な気分に襲われていたこともすっかり忘れ、何もかもが上手く行くんじゃないか、そんな風に思えてきた。


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