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EMILY  作者: 中根 愛
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Little Girl Blue

 同じ曲ばかりを弾いているとさすがに飽きてくる。それから運指の練習やブルースでよくあるバッキングをそれっぽく弾いてみたりした。ノックスビルで見たあの老人の弾き方を真似て。それでもやっぱり付け焼刃だ。納得のいくものにはほど遠く、指も疲れてきた。やっぱりこういうものは才能がなければどうにもならないんだろう。

 なんだか投げやりな気持ちになってしまった僕は、開いたままのケースにギターを置いた。弦が錆びていたようで、指からは鉄の匂いがする。思い通りに動いてくれない僕の指。両手を拳にすると膝を抱えて顔を埋めた。自分が情けなくて腹の底がちりちりと痛む。叫び出したい気分だったけど、それでエミリーが起きてしまったら、きっとあいつは冷ややかな目で僕を見るんだろう。そうしたらもっと惨めになる。

 気分転換がしたくて僕は壁に寄ると、板と板の隙間から外を覗いた。冷たい夜の空気が顔に当たり、濃淡のある闇が揺れながら通り過ぎていく。僕は頬を壁にくっつけて視線を上げた。藍色の夜空は月の光が強く、代わりに星は見えない。僕が目指す星も願いをかける星も見えない。もしくは、そんなものは初めからないのかもしれない。

 僕は外を見るのをやめ、貨車の中へ向き直った。その時だ。マグライトの小さな灯りの下、寝ているはずのエミリーが激しく頭を振っているのが目に入った。僕のギターが気に入って、弾くのをやめたから怒っているのだろうか。一瞬そう思った自分は呆れ果てるほどおめでたい奴だと思う。エミリーの顔は目を閉じたまま苦痛に歪んでいる。そのうちに彼女は「嫌! 嫌!」と、喉の奥から絞り出すような声で唸り始めた。

「おい……」

さすがに心配になり、声を掛けながら肩を揺すった。目を開けたエミリーは僕の顔を見て叫び声を上げると、弾かれたように手を振り払った。その後も滅茶苦茶に腕を振り回して泣き叫んでいる。

「おい! どうしたんだよ!」

エミリーの叫び声にも列車の音にも負けないぐらいの大声を上げた。それでやっと我に返ったようなエミリーは、穀物袋の上に掌をついて嗚咽を漏らした。

 訳が分からないまま、ただ見ているだけの僕の前でエミリーは息を荒げている。汗なのか涙なのか分からない雫が落ちて、薄茶色だった穀物袋の上に黒っぽい染みを作った。手が激しく震えている。その様は、昼間フランクに襲われた後に見せた姿そのままだった。その時のことが夢に出てきたのだろうか。

「大丈夫だよ。夢だ。悪党はもうここにはいない」

「嫌……母さんみたいになりたくない……」

激しく頭を振りながら呟いた彼女の言葉の意味が分からない。

「エミリー、何のことだ?」

エミリーは涙でびしょ濡れの顔を上げた。

「シェ、シェパードさんが母さんを……」


 エミリーの話に僕は頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。エミリーの母親ミシェルと市長のシェパードにまつわる噂は本当だった。ただ噂と違うのは、ミシェルの方はそれを望んではいないことだ。つまり、あのクソ市長が無理矢理、ということらしい。エミリーは泣きじゃくりながら、熱に浮かされた子供のように話し続けた。感情的になってしゃくり上げたり上擦ったりし、出来事の順序も前後したりしたが、彼女の話を要約するとこうだ。

 ミシェルとエミリーがフィンチャーズ・フィールドにやって来たばかりの頃からシェパード市長は頻繁に訪ねて来ていた。その脂ぎった陰険そうな男にエミリーは一目で嫌悪感を抱いたそうだ。シェパードは、格安の家賃でここに住まわせてやると恩着せがましいことを言いながら、ミシェルの手を握ったり肩に触れたりしていた。

 ある日の夜、明らかに酒に酔った状態でシェパードがやって来た時にそれが起こったらしい。大嫌いなあの男が来たことで、エミリーは自分の部屋に隠れた。ほどなくしてシェパードとミシェルの言い争う声が聞こえてくる。その直後、激しく物がぶつかるような音とミシェルの叫び声が聞こえ、慌てて部屋を出たエミリーは悪夢のような光景を目にしてしまった。

 それを聞いた僕は吐き気を催したほどだ。あの市長、偉そうなことばかり言ってやがるけど、陰でやってることはケダモノ以下だ。

「母さん泣いてた……シェパードが帰った後も……」

エミリーは手で顔を覆ってしゃくり上げている。自分の中に秘めておくには重たすぎる現実。フランクに襲われたことで、それが爆発したのかもしれない。だからといって僕に何が出来るわけでもない。蹲り苦しそうに泣いているエミリーの肩に触れることさえ躊躇われた。

 馬鹿みたいにただ固まっている僕の前で、泣き疲れたエミリーは再び眠りについた。今度は悪夢にうなされもせず、背中がゆっくりと規則的に上下している。僕はそんな彼女にコートを掛けてやっただけで、壁際にもたれてまんじりともせずに夜を過ごした。走り続ける列車は絶え間なく揺れ、天井の釘に下げたマグライトのぼんやりとした灯りが貨車の中を回っている。その光は何故かエミリーを照らすことはない。揺れる貨車の中、僕にはエミリーの細い身体が暗闇に沈んでいくように見えた。


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