Cross Road
あのお婆さんは通報するだろうか。きっとするだろう。でも強盗なんて、この国では毎日あちこちで起きているはずだ。僕は誰にも危害を加えるつもりはないのだし、警察だって忙しいだろうし、こんな小さな店で起きた小さな強盗事件などには構っていられないんじゃないか。有り金を全部出せとは言わない。二、三百ドルあれば充分だ。それぐらいなら、あのお婆さんは見逃してくれるんじゃないか。僕の心臓は今にも爆発しそうだったが、頭の中ではこれからしようとしていることの言い訳をあれこれと考えていた。
レジまであと数歩というところで、ガラス張りの入口からすぐ外に車が停まっているのが見えた。激しく打ち鳴らす鼓動で、その車の音に気付かなかったらしい。慌てて足を止めると、ドアが開き制服を着た保安官が入ってきた。僕は息が止まり、まだ何もしていないのに思わず走って逃げ出したくなった。保安官は僕の目の前を素通りしてレジに向かい、お婆さんと親しげに挨拶を交わした。カウンターの上のマフィンを手に取りコーヒーを注文している。偶然入ってきた常連客なのだと分かり、僕は大きく息を吐き出した。
お婆さんがゆっくりと立ち上がり、紙コップにコーヒーを注ぐのを待つ間、保安官はカウンターに片肘をついて店内を見渡すように首を巡らせている。やがて動けずに固まっている僕にサングラス越しの視線が注がれた。
「ちょっと、君」
突然話し掛けられ、僕の心臓が再び激しく鳴り出した。悪いことをしようとしたのが分かったのか、僕の背筋が急に冷えてくる。
「は、はい……」
「外に置いてあるギターは君のかい? 高いギターだろ? 目を離したら盗まれるぞ。気を付けないと」
小さい店なので買い物の邪魔になると思い、入口の脇にギターを置いてきたのだった。
「あ、はい……」
膝が崩れそうになるのを必死で堪え、震える唇を無理に引き上げて笑顔を作った。
とりあえず僕は一個七十五セントのリンゴを二つ買った。これならそこそこ腹にたまるし、一緒に水分も摂れる。走り去っていくパトロールカーをドア越しに見ながら金を出すと、お婆さんはレジの横にある明らかに手作りの大きなクッキーを二枚取った。
「よかったら食べて。気に入ったら、また来てね」
しわしわの小さな手がクッキーを紙袋に入れるのを見て涙がこぼれそうになった。こんな人を銃で脅して金を取ろうなんて考えた自分は最低だ。
僕はあの保安官に感謝すべきなのだろう。金が欲しければ他人から奪い取る。そんな短絡的な考えを実行せずに済んだのだから。相手を傷付けていないからとか、小さな店だからとか、奪い取った金が少額だからとかなんて関係ない。許されるはずなんてないんだ。そんなことは少し冷静になれば分かるはずなのに。
店から少し歩いたところに草が生い茂るだけの空き地があり、そこでギターケースの上に座ってリンゴを食べながらそんなことを考えていた。それでも問題が解決したわけじゃない。金がないのは依然として変わらないのだから。時折吹く風は、濃い緑色の草を波のようにそよがせる。何も考えたくなくなった僕はこの風景の一部になりたくて、へたと芯だけになったリンゴを遠くへ投げ捨て草の上に寝転んだ。
「もう帰ろう」
エミリーがそう言ってくれれば、僕はすぐにでも立ち上がっていただろう。でも僕の方からその言葉を言うのは絶対に嫌だった。それは、こんなことでへこたれたと思われたくない僕の意地だ。それに「帰る」と言ったら、僕を置いてエミリーは一人で先に行ってしまうんじゃないか、そう思えてならないからだ。
これはエミリーが始めたことだけど、一度乗ったら下りられないゲームだ。二人で終わらせる必要がある。ましてや僕がギブアップするなんて絶対にごめんだ。
エミリーはまだギターケースに座ったままリンゴをかじっている。その目は真っ直ぐ前に向けられているが、ぼんやりとしていて何も見ていないみたいだ。何を考えているのか全く分からない。僕は雲ひとつない真っ青な空に目を向けた。この空はフィンチャーズ・フィールドまで繋がっているはずなのに、今の僕はそこから遠く隔たっている。風が運んでくれないかと目を閉じてみたが、柔らかい草に身体は沈んでいくばかりだ。
吹く風に急に冷気を感じて目を開けた。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。身体を起こすとエミリーは既にリンゴを食べ終えていた。それでも黙ったまま、ただ虚空を見つめている。財布を失くしたことが余程ショックなんだろう。僕が立ち上がって服に付いた草を落とすと、エミリーは俯いたままギターケースから腰を上げた。
僕達は再び歩き出した。太陽はだいぶ傾いている。薄いオレンジ色の光が空気を染め、何もない大地と僕らを照らす。違う状況ならば、きっとこの景色を美しいと思うのだろう。でも今の僕には寂しさを募らせるものでしかない。ただひとつ分かったことがある。太陽は僕達の右側にあるから、今は南に向かって歩いているようだ。
しばらく行くと、今歩いている道とほぼ同じ幅の道路が目の前を横切っている交差点が見えた。それまで無言で歩いていたエミリーが突然口を開いた。
「ねえ、知ってる? ロバート・ジョンソンは四つ辻で悪魔に魂を売って、ギターのテクニックを手に入れたのよ」
「へえ……」
もちろん聞いたことがないし、さほど興味もない。適当な相槌を打った後、ノックスビルで見たあの黒人のブルースマンを思い出した。ロバート・ジョンソンは故人で、もちろん彼は本人じゃない。けれど、その名前を聞くとあの老人を思い出すんだ。
どこかの町に着いたら楽器屋を見つけてこのギターを売っちまおうかとも考えた。どうせ弾けやしないんだ。幾らかの金にはなるだろう。胸がちりちりするような敗北感に襲われている僕の隣をエミリーが滑るように追い越していった。彼女は目の前の交差点の真ん中に達するとそこで立ち止まり、右手にトランクを提げたまま顔を上向かせている。僕は交差点の手前で立ち止まり、何となくおかしな様子のエミリーを眺めていた。
悪魔に魂を売って欲しいものを手に入れたからって、きっと何か見返りを求められるんだろう。相手は悪魔なんだから、おそらく取り返しのつかないようなものを。
人っ子一人いないこの場所、不意に僕の右手方向から何かがやって来た。でもそれは悪魔なんかじゃなく、間抜けな顔の付いたアイスクリームコーンが描かれた大型トラックだった。エミリーは交差点の真ん中に立ったままだ。
「おい、轢かれるぞ」
僕が呼び掛けたが彼女は動こうとしない。トラックはどんどん迫ってくる。スピードを落とさずクラクションが鳴った。エミリーは突っ立ったままだ。
「おい!」
冗談じゃない。目の前で人がはねられるところなんて見たくない。僕はギターを落とし、ナップザックを肩から下ろすと交差点に走った。軋んだ大きなブレーキ音が聞こえ、僕はエミリーの腕を引き肩を摑むと荷物が置いてある道路の端まで必死で走った。埃を巻き上げながら僕達の背後を通り過ぎていくトラックの運転手が何か怒鳴っている。
慌てふためいていたせいで息を切らしている僕とは対照的に、エミリーは顔色一つ変えず無表情なままだ。
「何やってんだよ! 死ぬところだったんだぞ!」
激しい怒りが込み上げ怒鳴った僕に、エミリーは謝るどころか鋭い目を向け睨みつけてきた。多分夕陽が映っていたせいなのだろうが、その目はどこか現実離れした光を放っていて、本当に悪魔が乗り移ったのじゃないかと一瞬だけ怖くなった。




