Foolish Game
サマーキャンプなんかで家を長く離れていたことは今までにもあった。だけど母さんの声を聞いた途端、涙が出そうなほどの寂しさに包まれた。小さい頃、ホームセンターで迷子になりかけた時のことを思い出す。
何に使うのかよく分からない商品が珍しく、僕は棚の端から順番にそれらをいじっていた。気が付くと家族の姿はない。店内に整然と並ぶ棚は当時の僕には高過ぎて、まるで大きな迷路に一人で放り込まれたような気になった。閑散とした店内が急に恐ろしく感じられ、棚に置かれたチェーンソーが独りでに動き出して僕に襲い掛かってくるような妄想にとり憑かれた。僕は走り出し躍起になって皆を捜した。必死になって涙を堪えていたけど、突然現れた母さんの顔を見た途端に我慢ができなくなったんだ。買い物を終えてその店を出るまで僕は母さんにしがみ付いて泣きじゃくっていたっけ。
僕は歯をくいしばり、必死で爆発しそうな感情を押し留めた。とても怖いめに遭ったんだ、母さんに会いたい。父さんとウォルターにも。ダメだ、そんなこと言えるわけがない。僕はもう小さな子供じゃないはずだ。
「ジェリー? ジェリーなんでしょ?」
僕の名前を呼ぶ母さんの声は上擦り、切羽詰っている。僕は浅い呼吸を繰り返すだけで言葉が出せない。
「ジェリーお願い、返事をして! いったいどこにいるの?」
黙っている僕に母さんは叫ぶような声を上げた。どこにいるかなんて言えやしない。言ったら迎えに来てくれと頼んでいるようなもんだ。それに、今自分がどこにいるのか、よく分からないんだ。
「ジェリー、大丈夫なの? エミリーも一緒なの?」
僕は息を吸い込んだ。喉で震える空気の音が受話器越しに聞こえてしまうんじゃないかと心配になる。
「大丈夫だから……」
僕はそれだけ言って受話器を耳から離した。通話が切れる直前まで僕の名前を呼ぶ母さんの声が追いかけてくる。
僕は電話機の横にある衝立にもたれてきつく目を閉じた。電話を切ったことで、家族との繋がりも途切れてしまった。そんな風に思え、頬にひと筋涙が伝った。何かに寄り掛かっていなければ立っていられそうにない。ふと目を開けると、見覚えのあるエスニック柄のスカートが見えた。エミリーが来たのだ。僕は鼻をすすり、衝立にもたれた腕に頬を擦り付けて涙を拭いてから顔を上げた。彼女は水色の長袖Tシャツに着替えていた。フランクに破かれたTシャツをレストランのゴミ箱に放り込むと無表情の顔を僕に向けた。
「一応、無事でいることを家に電話しておいた。アリーとの約束だからな」
「そう」
エミリーは顔色も変えずに頷いただけだった。
「お前は……電話しなくていいのか?」
「一緒にいることは多分皆知ってるでしょ。あんたが連絡したなら、私にその必要はないわ」
こいつには家族に対する情というものがないのだろうか。
「みんな心配してるんじゃないのか? お祖母さんだって……」
「お祖母ちゃんは、三年前に初めて会った時にはもう私が誰なのかすら分からなくなってるのよ。どうってことないわよ」
フィンチャーの婆さんがそんな状態だとは知らなかった。可愛がられた記憶もなく、存在すら認められていないのだとしたら、いくら血が繋がっていて一緒に暮らしていたとしても身近には感じられないだろう。そう考えると、もはや怒りや軽蔑といった感情は薄れ、哀れみのようなものが込み上げてくる。
僕が思わず溜息をついた時、駐車場に一台のセダンが入ってきて心臓が大きな音を立てた。乗っているのは高校生ぐらいのカップルだったからすぐに安心したけれど。さっき僕が通報したことで、もしかしたら警察が発信元を調べてここへやって来るかもしれない。僕はエミリーを促し、急いでその場を後にした。
僕達は再び歩き出し、何らかの交通機関を探していた。バスでも電車でも何でもいい。とにかく自分の現在地が分かり、明確な行き先が目指せるようになれば。だけど、この辺りにそんなものがあるようにはとても思えない。霞んだ山が遠くに見え、僕達が歩いている道の脇には草が揺れる空き地が広がっているだけだ。
午前中の遅い時間にアリーのトレーラーハウスで朝食を摂ったきり飲まず食わずでここまで来た。フランクとの一件があり、長く緊張状態だったが、それが少し解けてきたのか喉が渇いて腹が減ってきた。会話が盛り上がっていれば少しは気が紛れるのだろうけど、今はとてもそんな気分じゃないし、多分エミリーにとってもそうだろう。黙ったまま何かを見つけるために歩き続ける。こんなんじゃ気分も胃袋も満たされるはずがない。
歩き疲れて限界が来た頃だった。小さな食料品店が目に飛び込んできた。
「何か食おうぜ」
僕が振り向くと、憔悴しきっていたエミリーも少しだけ顔を綻ばせた。痛かった足も歩を進めるのが自然と軽くなる。身体って正直だ。
入口のすぐ横のレジには小柄なお婆さんが一人で店番をしていた。コーヒーの香りが鼻をくすぐり、カウンターの上のマフィンやクッキーがとても美味そうに見える。陳列棚にはスナック菓子やチョコレートが並んでいる。あれもこれも欲しいというところだけど、そんなことをしたら本当に金がなくなってしまう。空腹感を必死で抑え込み、何が一番安く腹を満たせるかと吟味していた。
「あ!」
突然声を上げたエミリーは顔が蒼ざめていた。しきりにスカートのポケットを探っている。
「どうした?」
「さ、財布がないの……」
悪い冗談は言わないで欲しい。笑い飛ばそうとした僕を見るエミリーの青い目には涙が浮かんでいた。
「どうしよう……きっとあの車の中だ……」
フランクに襲われた時にポケットから落ちたのか。今さら取り戻せるはずもない。
「幾ら入ってた?」
「ご、五百ドルと小銭がちょっと……」
眩暈がしてくる。エミリーがなぜそんな大金を持っていたのか分からないけど、それがなくなった今、僕が持っている三十ドルに満たない金が全財産だ。
どうしたらいい。これじゃモーテルに泊まることも出来ないし食事だってままならない。
「もう一度捜してみろよ。鞄の中も」
珍しく僕の言葉に素直に従ったエミリーは、アイスクリームが詰まっているフリーザーボックスの上にトランクを置いて中を探った。僕もエミリーもどうしても受け容れたくなかったんだ。レジに居るお婆さんが首を伸ばし、怪訝そうにこちらを見ている。すぐにエミリーは俯いたまま首を振り、静かにトランクを閉めた。
悔しそうに唇を噛むエミリーに言葉を掛けることも出来ない。僕自身も絶望の淵にいるのだ。無意識に腰にあてた手に硬いものが触れた。ネルシャツ越しのそれは、アリーが車に隠していた銃だ。僕はレジを振り返った。店内にはお婆さん一人、天井を見渡したが防犯カメラらしきものはない。僕はシャツの裾から手を入れ、ベルトに挟まっている銃に直接触れた。人殺しをしようとは思わない。ただ銃をあのお婆さんに見せて金を貰うだけだ。そんなことをしてもいいのか、という言葉が頭の中に響いた。それじゃフランクと同じじゃないか、と。でも、今持ってるこれっぽっちの金じゃ家に帰ることも出来ない。こんなどこだか分からない場所で野垂れ死ぬことになるかもしれないんだ。僕は銃に手を掛けたまま、レジに向かって足を一歩踏み出した。