Drifting
静寂が戻るとエミリーがその場にしゃがみ込んだ。両腕を胸の前で交差して自分を抱き締めながら小刻みに震えていた。ローリングストーンズのアルバムジャケットが描かれた小さめのTシャツを着ているが、左肩の部分が大きく裂けてしまっている。フランクに破かれたのだろう。僕は着ていた緑色のカーディガンをエミリーの肩に掛けた。最初の夜に彼女が眉をひそめたカーディガンだ。しかしエミリーは肩に掛けられたそれに包まるように胸の前で掻き合わせた。
いつまでもここでこうしているわけにもいかない。もしかしたら逆上したフランクが戻って来るかもしれないからだ。車で追い回されでもしたらたまらない。僕はエミリーを立たせ、車で来た道を戻り始めた。ベルトに挟んだ銃に手を掛け、何度も後ろを振り向きながら歩いていき、最初に出てきた横道に入った。
アリーが働いているレストランに戻り、事情を説明しようかとも思った。でも、店から少なくとも三十分は車で走っただろう。歩いたらどれぐらい遠いのかよく分からない。それに何と言って説明すればいい。恋人だと思っていた男に騙されていたと知れば、彼女は深く傷付くだろう。アリーの悲しむ顔なんて見たくない。正直に言えば、僕にそんな勇気はないんだ。それでも今日の仕事が終われば、アリーはフランクが迎えに来るのを待つのだろう。奴が金や車を奪って逃げたことなど何も知らずに。二人の明るい未来を信じて、何時間も。
しなければいけないことだと分かっている。それでも僕の足はどんどんアリーから遠ざかっていく。一歩一歩進むごとに罪悪感が降り積もってくる。
「遅かれ早かれアリーは知るんだ。何も僕が言わなくたって……」
気付くとそんな言葉が口から出ていた。後ろを振り向くとエミリーは俯いたまま黙ってついて来ている。彼女も同じことを考えているだろうか。そうであれば、この罪は僕一人だけのものじゃない。そうやって沈み込んだ気持ちを少しでも軽くしようと試みながら、行くあてもないはずの先を急いだ。
僕達はやみくもに歩き続けた。正確な方角も分からないまま適当な横道があればそこを曲がった。追いかけてくるかもしれないフランクから遠ざかるため。それよりも、アリーの悲しみから逃げるためだ。この時ほど自分の臆病さに失望したことはない。
しばらく行くと幅の広い道路にぶち当たった。どこかのハイウェイだ。ここを行けば街に出られるかもしれない。僕達は道路の端を歩いた。時折車が行き過ぎるが、僕達に気を留める者などいない。まるで僕達は透明人間になったか、それとも違う次元にいて、ここを歩いていながらも他の人達には見えないし存在もしていない。そんなどうでもいいことをあれこれ考えていると、前方にドライブインの看板が見えてきた。
ドライブインに着くとトイレに入った。鏡を見ると、額の傷からの出血は止まっていたが、乾いた血が顔のあちこちにこびり付いている。備え付けのペーパータオルを水で濡らして拭いたが、なかなか落ちない。傷口の辺りを強く擦るとズキズキと痛んでくる。フランクの顔を思い出すと、再びどうしようもないほどの怒りが込み上げてきた。
トイレを出て、車もまばらなだだっ広い駐車場を見回したがエミリーの姿はない。彼女もトイレに入っていったから、まだ出てきていないのだろう。こじんまりとしたレストランのそばにある公衆電話へ向かった。受話器を取り911を押す。すぐに女性の声で応答があった。
「車を盗まれたんだ。青のポンティアック、アリーの車をフランクっていう奴が盗んだ。彼女の金も盗んでいった」
我ながら要領を得ていないと思う。
「落ち着いて。どちらのアリー?」
なだめるような女性警官の声に僕は言葉を詰まらせた。だってアリーとしか聞いてない。それに、彼女の住所がどこなのかも分からない。
「そ、それは……あ! ファミリーレストランの『サニーディ』で働いてるアリーだ。トレーラーハウスに住んでる」
僕は思い出せる限りアリーについて知っていることを伝えた。
「それで、あなたの名前は?」
自分の名前を訊かれるとは思っていなかった。慌てた僕は反射的に電話を切ってしまった。
今の電話で警察は信じてくれただろうか。ここ周辺に非常線を張り、青いポンティアックを捜し出してフランクを逮捕するだろうか。おそらくいたずら電話だと思っただろう。だいたい、フランクという名前だって、本名かどうか怪しいもんだ。
僕は再び受話器を上げてコインを入れると家の番号を押した。アリーとの約束だ。僕まで彼女を裏切ることはできない。もうすぐ二時になるところだ。この時間、いつもメロドラマを見ている母さんは、玄関のチャイムや電話が鳴って邪魔をされると小さな声で不満を呟きながら面倒臭そうに応対に出る。しかし今日は一回目のコールが終わるか終わらないかのところで声が聞こえた。
「はい」