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EMILY  作者: 中根 愛
12/33

I've got the blues

 僕はこの街にしばらく滞在しようかと考えた。そこそこに大きな街だし、探せば仕事ぐらいはあるんじゃないかとも思える。皿洗いとか掃除とか。どれも得意じゃないけど、食っていくためなのだから何かしなくては。それが大人になるということだ。それに、気に入った街にしばらく滞在し、気紛れにまた旅に出る。まるで西部劇の流れ者みたいでクールじゃないか。でも問題はエミリーだ。彼女には行きたい所があるようだから、もしかしたら反対されるかもしれない。

 案の定、僕の提案にエミリーはあからさまに嫌な顔をした。とんでもなく勝手な奴だ。こっちにはこっちの都合があるのに。仕方がないので、チェックアウトするつもりで荷物をトランクに詰めているエミリーに金が残り少ないことを伝えた。

「それならなおさらよ。ここよりももっと都会に行くの。それぐらいのお金なら私が持ってるわ」

見下したような言葉に腹が立つ。女に金を出してもらうなんて、男のプライドってものをこいつはどう考えているんだろう。それでも結局押し切られ、僕も渋々荷物をまとめた。


 バスの発着場はたくさんの人でごった返し混乱していた。発券カウンターのシャッターが閉められているのだ。どういうことかと思い、二人の小さな子供と一緒に長椅子に腰掛けている黒人の若い女性に声を掛けた。なんでも運転手によるストライキらしい。いつバスが動き出すか分からないし、もしかしたら今日は一日運行しないかもしれないと困り果てた顔で女性は首を振った。

 この頃のバス会社は航空機に圧され、不運な時代を迎えていたらしい。そういえばテレビでも格安航空券のコマーシャルがよく流れているのを思い出した。このご時勢に時間の掛かるバスで旅をする者など少ないのだろう。それでも誰もが気軽に飛行機など乗れるものじゃない。大体、車を持っていなければ空港まで行くのにバスや電車が必要なはずだ。それでも採算が取れなければ会社側は路線や運転手、賃金などを減らしに掛かる。そしてストライキが起きれば、一番迷惑を被るのは乗客だ。利用者は減ったといっても、全くいなくなったわけじゃない。バスが必要な者もいるんだ。

 怒り狂った数人の客がシャッターを叩いたり物を投げつけ始めた。次第に他の人達も興奮してきているのが分かる。その様子に僕は得体の知れない恐怖を感じた。ここにいるのはほとんどが貧困層と見られる黒人だ。僕達だってバスが出なくて困っているのに、白人というだけでとばっちりを食ったらたまらない。二年前、ニュースでひっきりなしにやっていたロスで起きた暴動の映像が甦ったんだ。その時は遥か遠い西海岸の出来事であり、しかもフィンチャーズ・フィールドで黒人など見かけたことがなかったから、どこか他人事に思えていた。白人と見れば無差別に暴行し、アジア系の商店で略奪をしていた彼らも、きっと一人一人はそんなに悪い奴ではないのだろう。それでも偏見と差別に晒され続け、その象徴ともいえるような事件が起きたことで不満が爆発した。怒れる集団というものがどんなに恐ろしいかということを、僕はその時の映像を通して知った。

 急いで僕はエミリーを促し、次第に罵声と怒号が大きくなる発着場を抜け出した。もう安全だという場所まで来ると、エミリーの思い通りにならなかったことに何とも言えない喜びを覚えた。というよりも、運が僕の味方をしてくれたことに感謝した。やっぱりフィンチャーは神様にも嫌われているのだろうか。

「ここでもう一泊かな」

僕の言葉にエミリーは悔しそうに爪を噛んでいる。

「ま、せっかくここまで来たんだから、観光でもしようぜ」

エミリーは不機嫌な顔のまま、黙って僕の後をついて来た。ざまあみろ。

 飲食店などが立ち並ぶ通りに入った。古びた町並みは、昨夜見た時とは別の場所のように和やかでいい雰囲気だ。赤レンガの建物に細い街路樹が並ぶ歩道、途中ホットドッグを買って昼食を摂った。もちろんそんなもの一個じゃ僕の空腹は満たされるわけがない。だけど金がないから我慢する。近くのステーキハウスから肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってくると、急に母さんの料理が恋しくなってきた。最後の夜に食べたチキンソテーが、もう手の届かないご馳走に思える。でも、そんなことは胸の中にしまっておこう。エミリーに話したところでマザコンだとバカにされるだけだ。

 車一台が通れるぐらいの路地に入ると、その先に人だかりができているのが見えた。近付いてみると、古いビルの階段に座った一人の黒人男性がギターを弾いて歌っている。時間はたっぷりあるので、暇つぶしがてら近くまで寄ってみた。男性はかなりの高齢だ。ギターを爪弾きながら、自分がいかに不幸な星の下に生まれたかを嘆いている。おそらく有名な曲なのだろう、暗い歌詞にも関わらず回りの観衆は口笛を吹いたり歓声を上げたりして盛り上がっている。

 ふと隣を見ると、エミリーは真剣な眼差しを老人に向け曲に聴き入っていた。なるほど、フィンチャー家に生まれたというだけで彼女は周囲から無視されているんだ。本人がそのことを嘆いているかどうか僕には分からないが、エミリーの身になってみれば不公平で理不尽な境遇がこのブルースの曲と通じるのかもしれない。

 ただ、僕にとってブルースは数ある音楽ジャンルの中の一つに過ぎない。しかも、さほど興味もないジャンルだ。演奏していた曲が終わり、僕はそろそろ別の場所へ移動しようとした。その時、老人の口から「クロスロード」という言葉が聞こえて僕は立ち止まった。昨夜エミリーに「弾けるか?」と訊かれた曲だ。どういう曲なのかと少し興味が湧いた。

 老人が抱えているのは小さめのアコースティックギターで、ヘッドには聞いたこともないメーカーが書いてある。おそらく、それほど高価な物ではないと思う。表板にはいくつもの傷が付いている。かなり長い間弾き込まれてきたのだろう。節くれだった指がコードを押さえ、右手の指が弦を弾くとそれまでの空気が変わった。鋭い高音のリフが僕の耳を突き刺してくる。ブルースではよくある導入部だと思うが、生で聴いている迫力か、それともこの老人がすごいのか。とにかく僕はその場から動くことができなくなった。

 情けないけれど、ギターのテクニックのことはよく分からない。でもテクニック以上のものが、この老人の奏でるブルースにはあるのだということだけは分かってしまった。老人の声はどちらかといえば平坦で、ぶっきらぼうとも言える歌い方だ。しかも訛りが強く、歌詞はよく聞き取れない。その歌の間に入る隙間だらけのフレーズ。その音と音の隙間から痛いほどの感情が流れ出してきて僕を揺さぶってくる。哀しみとか嘆きとか怒りのようなもので。

 これまではテレビの音楽専門番組を見ていても、古いブルースが掛かるとチャンネルを変えていた。眠くなるし、何よりも僕達の世代が聴く音楽ではないと思っていたからだ。でも今こうして生のブルースに触れ、脚の震えが止まらない自分に気が付いた。

 僕の視線を感じたのか、老人と目が合った。この老練のブルースマンは指板も弦も見ずに音を紡ぎだしていく。まるでギターが身体の一部になっているようだ。僕はふわふわとして地に着いていないような感触のする脚を見られたくなくて、持っていたギターケースを身体の前に立てて置いた。すると老人は僕のギブソンのギターケースに視線を落とし、それからまた目を合わせてきた。それはどこか挑戦的な好奇心に溢れている。

「お前もやるのか?」

そう問いかけられているような気がした。僕は無意識に首を振りながら後退っていた。すると老人は興味を失くしたように僕から目を逸らし、再び歌い始める。気が付けば、僕はそこから逃げ出していた。


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