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EMILY  作者: 中根 愛
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Sweet Emotion

 裏通りを覗けば、さらに怪しげな世界が広がっている。ゴミだらけの道を浮かび上がらせる青いネオンのポルノショップ。その前には品のない派手なフェイクファーのコートに網タイツ姿の娼婦と思われる女が立っている。目が合ったが「ガキには興味がない」とばかりに大げさに目玉を回しながらそっぽを向いた。酒の匂いが染み付いてしまっているような通りを歩いているうち、一軒のバーからブルースが聴こえてきた。

 開け放たれた入口のドアから中を覗くと、タバコの煙で曇った店内の奥にステージがありバンドが演奏していた。無造作に置かれた幾つもの丸いテーブル。そこにひしめき合う客は、思い思いに身体を揺らしたり、静かに耳を傾けたりしながら酒を飲んでいる。僕はとても成人には見えないだろうから入れてはもらえないだろう。入口の影に立ったまま、ステージに目を戻した。

 ドラムとベースとギター、シンプルな編成のシンプルな音。女性のボーカルは自分を捨てようとしている男を必死で引き止めるという内容の歌を歌っている。長い髪を振り乱し、明らかにジャニス・ジョプリンを意識しているという感じで足をバタバタと踏み鳴らしている。噛み付きそうな勢いで唾を飛ばしながらマイクに圧し掛かる。酒とタバコで焼け爛れたようなガラガラの声。歌っているというよりも唸っているように聴こえる。これじゃ、男に逃げられるのも無理はない。

 特に感銘を受けたというわけでもなく、ただぼんやりと聴いているだけだった。でも、ふとフィンチャーズ・フィールドに残してきたローラのことを思い出した。彼女は幼馴染で僕のガールフレンドだ。キスだってしたことがある。でも一週間に一度会うか会わないかだ。あんまりベタベタするのも格好いいとは思えないし、何よりローラに「簡単な男だ」と思われたくない。特に最近は疎遠になってきている。

 一ヶ月ほど前のことだ。学校が終わってからローラが家に来た。ウォルターは例によって図書館、父さんは仕事で母さんは用事があって朝から出掛けていた。ローラの母親と一緒に。つまり、家には僕一人だったわけだ。ジャネット・ジャクソンの真似でもしてるのか、ローラはボロボロのデニムで出来たショートパンツを穿いていた。

 ベッドに座っている僕にぴったりと身を寄せてきたローラはキスをせがんできた。そりゃあ、僕だって興味はあるから喜んでそれに応じた。彼女の息からはスペアミントの強い匂いがしていて、いかにも最初からそのつもりだったということが分かると少し興醒めした。だとしても僕は健康な男子だ。ショートパンツから伸びた太腿に手を置いたけど、外はきっと寒かったのだろう。毛穴が立っててざらざらしていた。まあ、でもそれも大した問題じゃない。身体が温まってくれば自然と治る。気を取り直した僕は、フリルがいっぱい付いたブラウスのボタンをひとつずつ外しにかかった。そこで僕の目に飛び込んできたのが、トゥイーティーが跳ね回っている絵がついたグレーのスポーツブラだった。正直これには参った。黄色いひよこが好奇心に満ちたつぶらな瞳で僕達の行為を見ているかと思うと、気持ちが一気に萎えたんだ。僕は用事を思い出した振りをして、申し訳ないけどローラには帰ってもらった。

 念願の初体験を逃したんだ。首を傾げながら家を出るローラを見て、少しは残念な気持ちもあったさ。でもトゥイーティーのスポーツブラは無理だ。何もウォルターがベッドの下に隠してるポルノ雑誌のモデルみたいな下着を着けて欲しいとは思わない。それでも、もうちょっと気を遣って欲しかった。

 それ以来、ローラとはろくに口もきいていない。僕がエミリーと一緒に町を出たことは彼女にも分かっているだろう。そのことをどう思っているんだろうか。あの女性シンガーのように、嫉妬に狂って地団駄を踏んでいるか。それとも、一ヶ月前のあの日に既に見切りを付けられていたか。どちらにしても、僕はローラときっぱり別れたわけではないし、嫌いになったわけでもない。ただ、今の僕には恋愛が一番大事なことだとは思えないだけだ。


 いくらなんでも、もう風呂から上がっているだろうと見込んで僕はモーテルに戻った。フロントロビーにある電話が目に入る。家かローラに連絡した方がいいだろうかと思い、フライドチキンを買ったお釣りの二十五セント硬貨を取り出した。無事でいることぐらいは伝えたい。でも受話器を取ってから、よくよく考えてみた。きっと父さんが出ても母さんが出ても叱られて「帰って来い」と言われるに決まっているし、ヘタしたら「迎えに行く」と言われて連れ戻されるかもしれない。ローラに電話したところで大騒ぎするだろうし。僕は思い直して受話器を戻した。

 部屋に戻るとエミリーは水色の上下スウェット姿でベッドに腰掛け、濡れた髪をブラシで梳かしていた。僕が買ってきたフライドチキンをライティングデスクの上に置くと、彼女も腹が減っていたようですぐにやって来た。冷めて油臭くなった鶏肉にかじりつく。エミリーも一口食べて顔をしかめたが、彼女が安心して風呂に入れるように気を遣い、疲れた身体に鞭打って買い物に出たのだ。僕には非難される謂れなどない。

 黙ってフライドチキンを口に運ぶエミリーを何気なく見ていた。窓から差し込むネオンの光で陶器のような額が赤や紫に染められている。小さくて整った顔に洗い立てのしなやかなブロンド。フィンチャーでなければ、男子生徒にももてただろうと思う。勉強も出来るから教師からも気に入られただろうし。そんなことをぼんやりと考えていると、エミリーが僕のギターを指差して口を開いた。

「ギター弾けるの?」

「あ……うん、いや……少しだけ」

まだまともに弾けないなんて、悔しくてどうしても言えなかった。きっと鼻で笑って小ばかにするはずだ。エミリーは頷くとチキンで汚れた指を紙ナプキンで拭きながら質問を重ねてきた。

「じゃあ『クロス・ロード』弾ける?」

「はっ?」

僕は眉をひそめた。知らない曲だ。

「知らないの? ロバート・ジョンソン。あと、色んな人がカヴァーしてる」

僕は首を傾げた。知らない曲など弾けなくて当然だ。僕の反応にエミリーは肩をすくめ、それからは無言の食事が続いた。

 フライドチキンを一本食べた僕は何だか胸焼けがしてきて、ポテトフライを三、四本口の中に放り込むとコーラで飲み下してベッドへ入った。シーツから漂う消毒剤の匂いが気になったが、柔らかい寝床で身体を伸ばせることが嬉しかった。おそらく僕が完全に寝入るまでエミリーはベッドに入らないだろう。男だというだけで誤解を受けていることは腹立たしいが、とりあえず何も考えないように努めた。でもそんな心配はいらなかったようだ。その日の最後の記憶は、目を閉じたところで終わっている。



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