「絶対に戻るな」と一方的に婚約破棄されましたが、翌朝彼は殺されていました。せめて仇だけは取らせてください
「君との婚約は、今日限りで終わりだ」
セドリックは、私の目を見ないまま言った。
「……え?」
夕食を終えたばかりの応接室。
昨日までなら、ここで二人並んで紅茶を飲んでいた時間だった。
向かい合わせに置かれた紅茶は、二つとも手をつけられないまま冷めていく。
「婚約を解消する」
聞き間違いではなかった。
「どうして?」
「説明するつもりはない」
「では、他に好きな方が?」
「いない」
「だったら――」
「クリスティーナ!」
セドリックはようやく私を見た。
膝の上で、彼の拳が白くなるほど握られていた。
「もう決めたことだ」
「……そう」
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
婚約から五年。
幼いころからの付き合いまで含めれば、もっと長い。
喧嘩をしたことも一度や二度ではない。
それでも、いつか彼の妻になるのだと思っていた。
それなのに。
「分かったわ」
私は立ち上がった。
「だったら、明日の朝にでも荷物を――」
「もう積ませてある」
「え?」
「馬車も用意してある。いますぐ実家へ帰れ」
言葉を失った。
「……そこまで私を追い出したかったの?」
「そう思ってくれて構わない」
私はそのまま応接室を出た。
玄関へ向かう途中、書斎の前を通る。
開いた扉から本棚が見えた。
そこに一冊だけ、見覚えのある本がある。
私が十五歳のころ、セドリックに贈った物語集だった。
まだ、持っていてくれた。
……持っていてくれた?
昔の本を捨てていないから何だというのだろう。
婚約そのものを捨てられたというのに。
玄関前には、本当に馬車が待っていた。
荷台には私の荷物が積まれている。
服。
本。
化粧道具。
小物箱。
まるで何日も前から準備していたかのように、きれいにまとめられていた。
「クリスティーナ様」
老齢の家令オスカーが頭を下げる。
「お荷物はこちらですべて確認しております」
「ありがとう」
オスカーはセドリックが幼いころから、この家に仕えている。
私にとっても、長い付き合いのある人だった。
荷物の上に、小さな木箱があった。
開ける。
「……これ!?」
母の形見の首飾りだった。
寝室の引き出しの、さらに奥にしまっていたものだ。
こんなものまで。
本当に、何一つ残すつもりがないらしい。
「クリスティーナ」
声がした。
振り返る。
玄関にセドリックが立っていた。
「これで、お別れね」
「ああ」
「五年間、お世話になりました」
「……ああ」
最後くらい、何か言ってほしかった。
楽しかったでも。
すまなかったでも。
元気で、でもいい。
だけど彼は何も言わない。
私は馬車へ乗った。
扉を閉めようとしたときだった。
「クリスティーナ!」
「何?」
「絶対に戻るな」
思わず彼を見る。
セドリックの顔が、妙に強張っていた。
「……言われなくても戻らないわ」
「今夜だけは……」
彼はもう一度言った。
「何があっても、絶対に戻るな!」
私は唇を噛んだ。
「分かったわよ……」
扉を閉める。
閉まりきる直前、彼の唇がもう一度動いた気がした。
「……い……てる……?」
けれど、その声は走り出した車輪の音にかき消された。
窓の外で、セドリックの屋敷が遠ざかっていく。
そこまで私が嫌いだったのね。
だったら、もっと早く言ってくれればよかったのに。
◇
翌朝。
セドリックは殺された。
◇
「毒殺だそうだ」
「嘘……でしょう?」
「事実だ」
「だって昨日……」
昨日まで、生きていた。
冷たい声で婚約破棄を告げた。
私を屋敷から追い出した。
それなのに。
「クリスティーナ、お前に疑いがかかっている」
「私に?」
「昨夜、セドリック殿と言い争ったそうだな」
「言い争ってなんか――」
使用人から見れば、そう見えたのだろう。
婚約破棄された女。
その夜、元婚約者が毒殺された。
疑われないほうがおかしい。
「それだけではない」
父が一枚の紙を差し出した。
『クリスティーナを二度と、この屋敷へ入れるな』
「セドリックの字……」
「ああ。昨夜、使用人たちに渡されたそうだ」
胸が締めつけられた。
最後まで。
彼はそこまで私を嫌っていたのか。
それでも。
私はあなたを嫌いになれない。
「ふざけ……ないで」
あなたにどれだけ嫌われていたとしても。
あなたを殺した誰かを、私は許さない。
◇
午後。
私はセドリックの屋敷へ向かった。
「クリスティーナ様」
門の前で、オスカーが驚いた顔をした。
「旦那様のご命令で、あなた様を屋敷へ入れることは――」
「その旦那様は、もういないでしょう」
「ですが」
「私にはセドリックを殺した疑いがかかっているの」
私はオスカーを見る。
「せめて仇くらい、取らせて」
オスカーは目を伏せた。
やがて、ゆっくりと道を開ける。
「……承知いたしました」
屋敷には騎士団がいた。
セドリックが死んだのは自室。
昨夜、夕食後に部屋へ入り、そのまま朝まで出てこなかった。
朝、オスカーが部屋へ入ったところ、机に伏して死んでいたという。
毒殺であることは分かっている。
ただし、何に毒が混ぜられていたのかは、まだ公表されていない。
昨夜、この屋敷にいたのは、弟のユリウス、幼なじみのマリア、家令のオスカー。
そして屋敷にはいなかったけれど、もっとも分かりやすい動機を持っているのが……私だった。
◇
「兄上を殺す理由? ないこともない」
「……えっ?」
「兄上が死ねば家督は俺のものだし、先月は借金を断られて大喧嘩した」
「ずいぶん素直ね」
「隠したって調べりゃ分かる。けど、殺すかよ」
「それより、ここ三日の兄上はおかしかった」
「おかしかった?」
「ああ。廊下で物音がしただけで振り返るくらい、何かに怯えてた」
「あのセドリックが?」
「理由を聞いたら、『お前には関係ない』だと」
私に言ったのと、同じだった。
「それから昨日、妙なことも言ってた」
「何を?」
「『明日になれば終わる』って」
◇
「私が疑われるのは仕方ありません。セドリック様を……お慕いしておりましたから」
マリアは少し寂しそうに笑った。
「……昨日のお昼、セドリック様に頼まれたんです」
「頼まれた?」
「『クリスティーナが困っていたら、力になってやってくれ』と」
私は息を止めた。
「その夜、私との婚約を破棄したのよ?」
「ですから、私も不思議で」
「こうもおっしゃいました。『あいつは平気な顔をするだろうが、ああ見えて泣き虫だから』と」
私は何も言えなかった。
捨てるつもりの女のことを。
どうしてそんなふうに、頼むの。
◇
「わたくしが旦那様を殺害する理由などございません」
オスカーは深く頭を下げた。
「オスカー」
「はい」
「セドリックは、私を嫌っていたと思う?」
「……わたくしから申し上げることではございません」
「答えて」
しばらく沈黙したあと、オスカーは口を開いた。
「旦那様は三日前から、婚約解消届をご用意されておりました」
「……三日前から」
「二日前には、あなた様の私物を整理するよう仰せつかりました。昨日の朝には、あなた様の寝室の鍵も替えさせております」
三日前に、婚約解消届。
二日前に、私の荷物。
昨日の朝に、寝室の鍵。
そして昨夜。
『クリスティーナを二度と、この屋敷へ入れるな』
完璧だった。
セドリックは、何日もかけて私を自分の人生から消そうとしていた。
「本当に……嫌われていたのね」
自分でも情けない声が出た。
仇を取りに来たはずなのに。
分かったのは、自分がどれほど嫌われていたかということだけだった。
◇
帰り際、机の上に置かれた荷物目録が目に入った。
何となく手に取る。
ドレス。
靴。
本。
手紙。
化粧道具。
宝石箱。
そして。
『故アメリア夫人の首飾り』
「……え、なんで!?」
あの首飾りは、寝室の引き出しの、さらに奥にしまってあった。
しまった場所は、誰にも教えていない。
侍女にも。
オスカーにも。
セドリックにさえ。
――母の形見なの。結婚式の日に、これをつけるって決めてるの。
この屋敷に来たばかりのころ、私は一度だけ、セドリックにそう話した。
――なら、その日まで失くすなよ。
そう言って、彼は珍しく笑った。
場所は知らなかったはずだ。
それでも、あの人は覚えていた。
私が、母の首飾りを持っていたことを。
それが私にとって、どれほど大切な物なのかも。
嫌いな女の忘れ物なら、あとで送りつければいい。
それなのに、首飾りは私の荷物に入っていた。
まるで、私が取りに戻る理由を、一つ残らず潰すように。
「二度と戻らなくてもいいように……?」
背筋が冷えた。
三日前。
婚約解消届を用意した。
二日前。
私の荷物を整理した。
昨日。
寝室の鍵を替えた。
マリアに私を頼んだ。
私を屋敷から追い出した。
屋敷へ入れるなと命じた。
そして。
自分だけは、屋敷に残った。
「違う……」
全部。
意味が逆だったとしたら?
◇
私はセドリックの書斎へ走った。
本棚から、あの物語集を抜き取る。
十五歳の私が贈った本だ。
ページをめくる。
やがて、あるところで手が止まった。
最後に二人が結ばれて、幸せに暮らす物語。
昔の私が、何度も好きだと言った話だった。
そのページに、一枚の紙切れが挟まっていた。
『……これ以上調べるな』
途中が破れている。
さらに、その下。
『次は、婚約者の女を――』
息が止まった。
「セドリック……」
私を殺すと脅されていた。
だから、婚約を破棄した……?
でもどうして、この本に挟んだのだろう。
答えは、ない。
私は本を抱き締めた。
◇
セドリックが何を調べていたのか。
それはすぐに分かった。
「兄上なら先週から、古い帳簿ばっかり見てたぞ」
ユリウスに言われて開いた帳簿には、橋の補修費が計上されていた。
「橋? 三年前から……直ってない?」
さらに調べると、同じような記録がいくつも出てきた。
道路。
倉庫。
存在しない工事に、毎年金が支払われている。
そして机の手帳には、セドリックの字が残っていた。
『王都監査官 午前十時到着』
今朝の日付だった。
私は、ユリウスの言葉を思い出す。
『明日になれば終わる』
セドリックは、自分に危険が迫っていることを知っていた。
だから私を逃がした。
それでも、自分まで逃げるつもりはなかった。
屋敷を空ければ、帳簿を消されるかもしれない。
だが、監査官が来れば、不正は明るみに出る。
それまで耐えればいい。
そう思っていたのだろう。
あと一晩だった。
その一晩を、彼は一人で越えようとした。
そして、私だけを逃がして……。
◇
その日の夕方。
私は応接室に三人を集めた。
ユリウス。
マリア。
そしてオスカー。
隣室には騎士団が待機している。
「セドリックは、自分に危険が迫っていることを知っていた」
私は脅迫文を机へ置いた。
『次は、婚約者の女を――』
マリアが口元を押さえる。
「だから私との婚約を破棄した。私を、この事件から切り離すために」
声が震えないように、私はテーブルの縁を握った。
「そして彼は、横領について調べていた」
帳簿を置く。
オスカーの表情は変わらない。
「それがわたくしだと?」
「そうは言っていないわ」
「帳簿に触れる者は、わたくしだけではございません」
「そうね」
「毒にしてもそうです。お部屋へ運ばれたワインなら、給仕も触れております」
私はオスカーを見た。
「……オスカー」
「はい」
「どうして、ワインだと思ったの?」
彼の顔から、初めて表情が消えた。
「何に毒が入っていたか、まだ公表されていないわ」
扉が開き、騎士たちが入ってきた。
「オスカー殿。お部屋を確認させていただきます」
オスカーが出口へ走る。
だが、騎士たちに取り押さえられた。
「離せ! わたしが何年、この家に仕えたと思っている!」
初めて聞く怒声だった。
「だから兄上を殺したのか!」
ユリウスの声に、オスカーの抵抗が止まる。
「……あの方が、気づきさえしなければ……」
オスカーの私室からは、毒の残りと、横領した金の行き先を記した帳面が見つかった。
セドリックを殺したのは、オスカーだった。
監査の前夜、部屋へ運ばれたワインに毒を入れたのだ。
オスカーは、そのまま騎士たちに連行されていった。
あと一晩だった。
たった一晩。
翌朝には、監査官が来るはずだった。
セドリックは、そこまで辿り着けなかった。
仇は取った。
それなのに。
連れていかれるオスカーの背中を見送っても、胸の中には何ひとつ戻ってこなかった。
私が本当に欲しかったのは。
仇なんかじゃなかった。
◇
事件が終わったあと。
「クリスティーナ様」
騎士に呼び止められた。
「セドリック様の机の引き出しから見つかりました」
騎士から、手記を渡された。
『これがクリスを守る最善手だ』
私は天井を見上げて、目を閉じた。
そういうことだったのね。
昨夜の彼の言葉を思い出した。
『君との婚約は、今日限りで終わりだ』
『いますぐ実家へ帰れ』
『何があっても、絶対に戻るな』
「……馬鹿」
涙が落ちた。
昨日からずっと出なかった涙が、止まらなかった。
『あいつは平気な顔をするだろうが、ああ見えて泣き虫だから』
本当に。
何でも知っていたのね。
私のこと。
「だったら、言ってよ……」
あなたが何に怯えているのか。
私が危ないのだと。
一緒に逃げようと。
何でもよかった。
「そんなことも言わないで……勝手に守ったつもりになって……」
首飾り、ちゃんと届いたわよ。
結婚式の日につけるはずだったのに。
あなたがいなかったら、つける日なんて永遠に来ないじゃない。
「本当に……馬鹿なんだから」
だけど。
あなたが命をかけて守ったものが、私だというなら。
この命、無駄にはしない。
「生きるわ、セドリック」
あなたが生きられなかった明日も。
その次の日も。
「ちゃんと、生きるから」
窓の外から、朝の光が差し込んでいた。
でも。
もう一度だけ、紅茶を飲みたかった。
向かい合わせじゃなく。
あなたの……隣で。




