↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「絶対に戻るな」と一方的に婚約破棄されましたが、翌朝彼は殺されていました。せめて仇だけは取らせてください

掲載日:2026/09/27

「君との婚約は、今日限りで終わりだ」


 セドリックは、私の目を見ないまま言った。


「……え?」


 夕食を終えたばかりの応接室。

 昨日までなら、ここで二人並んで紅茶を飲んでいた時間だった。

 向かい合わせに置かれた紅茶は、二つとも手をつけられないまま冷めていく。


「婚約を解消する」

 聞き間違いではなかった。


「どうして?」

「説明するつもりはない」

「では、他に好きな方が?」

「いない」

「だったら――」


「クリスティーナ!」

 セドリックはようやく私を見た。

 膝の上で、彼の拳が白くなるほど握られていた。


「もう決めたことだ」

「……そう」


 胸の奥が、ひどく冷たくなった。


 婚約から五年。


 幼いころからの付き合いまで含めれば、もっと長い。

 喧嘩をしたことも一度や二度ではない。

 それでも、いつか彼の妻になるのだと思っていた。


 それなのに。


「分かったわ」

 私は立ち上がった。


「だったら、明日の朝にでも荷物を――」


「もう積ませてある」

「え?」

「馬車も用意してある。いますぐ実家へ帰れ」


 言葉を失った。


「……そこまで私を追い出したかったの?」

「そう思ってくれて構わない」


 私はそのまま応接室を出た。


 玄関へ向かう途中、書斎の前を通る。

 開いた扉から本棚が見えた。


 そこに一冊だけ、見覚えのある本がある。

 私が十五歳のころ、セドリックに贈った物語集だった。


 まだ、持っていてくれた。


 ……持っていてくれた?


 昔の本を捨てていないから何だというのだろう。

 婚約そのものを捨てられたというのに。


 玄関前には、本当に馬車が待っていた。

 荷台には私の荷物が積まれている。


 服。

 本。

 化粧道具。

 小物箱。


 まるで何日も前から準備していたかのように、きれいにまとめられていた。


「クリスティーナ様」

 老齢の家令オスカーが頭を下げる。


「お荷物はこちらですべて確認しております」

「ありがとう」


 オスカーはセドリックが幼いころから、この家に仕えている。

 私にとっても、長い付き合いのある人だった。


 荷物の上に、小さな木箱があった。

 開ける。


「……これ!?」


 母の形見の首飾りだった。

 寝室の引き出しの、さらに奥にしまっていたものだ。

 こんなものまで。

 本当に、何一つ残すつもりがないらしい。


「クリスティーナ」


 声がした。

 振り返る。

 玄関にセドリックが立っていた。


「これで、お別れね」

「ああ」

「五年間、お世話になりました」

「……ああ」


 最後くらい、何か言ってほしかった。

 楽しかったでも。

 すまなかったでも。

 元気で、でもいい。


 だけど彼は何も言わない。


 私は馬車へ乗った。

 扉を閉めようとしたときだった。


「クリスティーナ!」

「何?」

「絶対に戻るな」


 思わず彼を見る。

 セドリックの顔が、妙に強張っていた。


「……言われなくても戻らないわ」

「今夜だけは……」


 彼はもう一度言った。


「何があっても、絶対に戻るな!」


 私は唇を噛んだ。


「分かったわよ……」


 扉を閉める。

 閉まりきる直前、彼の唇がもう一度動いた気がした。


「……い……てる……?」


 けれど、その声は走り出した車輪の音にかき消された。


 窓の外で、セドリックの屋敷が遠ざかっていく。


 そこまで私が嫌いだったのね。


 だったら、もっと早く言ってくれればよかったのに。


     ◇


 翌朝。

 セドリックは殺された。


     ◇


「毒殺だそうだ」

「嘘……でしょう?」

「事実だ」


「だって昨日……」

 昨日まで、生きていた。


 冷たい声で婚約破棄を告げた。

 私を屋敷から追い出した。


 それなのに。


「クリスティーナ、お前に疑いがかかっている」

「私に?」

「昨夜、セドリック殿と言い争ったそうだな」

「言い争ってなんか――」


 使用人から見れば、そう見えたのだろう。

 婚約破棄された女。

 その夜、元婚約者が毒殺された。

 疑われないほうがおかしい。


「それだけではない」

 父が一枚の紙を差し出した。


『クリスティーナを二度と、この屋敷へ入れるな』


「セドリックの字……」

「ああ。昨夜、使用人たちに渡されたそうだ」


 胸が締めつけられた。

 最後まで。

 彼はそこまで私を嫌っていたのか。


 それでも。


 私はあなたを嫌いになれない。


「ふざけ……ないで」


 あなたにどれだけ嫌われていたとしても。

 あなたを殺した誰かを、私は許さない。


     ◇


 午後。

 私はセドリックの屋敷へ向かった。


「クリスティーナ様」

 門の前で、オスカーが驚いた顔をした。


「旦那様のご命令で、あなた様を屋敷へ入れることは――」


「その旦那様は、もういないでしょう」

「ですが」

「私にはセドリックを殺した疑いがかかっているの」


 私はオスカーを見る。


「せめて仇くらい、取らせて」


 オスカーは目を伏せた。

 やがて、ゆっくりと道を開ける。


「……承知いたしました」


 屋敷には騎士団がいた。

 セドリックが死んだのは自室。


 昨夜、夕食後に部屋へ入り、そのまま朝まで出てこなかった。

 朝、オスカーが部屋へ入ったところ、机に伏して死んでいたという。


 毒殺であることは分かっている。


 ただし、何に毒が混ぜられていたのかは、まだ公表されていない。


 昨夜、この屋敷にいたのは、弟のユリウス、幼なじみのマリア、家令のオスカー。

 そして屋敷にはいなかったけれど、もっとも分かりやすい動機を持っているのが……私だった。


     ◇


「兄上を殺す理由? ないこともない」

「……えっ?」


「兄上が死ねば家督は俺のものだし、先月は借金を断られて大喧嘩した」

「ずいぶん素直ね」

「隠したって調べりゃ分かる。けど、殺すかよ」


「それより、ここ三日の兄上はおかしかった」


「おかしかった?」

「ああ。廊下で物音がしただけで振り返るくらい、何かに怯えてた」

「あのセドリックが?」

「理由を聞いたら、『お前には関係ない』だと」


 私に言ったのと、同じだった。


「それから昨日、妙なことも言ってた」

「何を?」

「『明日になれば終わる』って」


     ◇


「私が疑われるのは仕方ありません。セドリック様を……お慕いしておりましたから」


 マリアは少し寂しそうに笑った。


「……昨日のお昼、セドリック様に頼まれたんです」

「頼まれた?」

「『クリスティーナが困っていたら、力になってやってくれ』と」


 私は息を止めた。


「その夜、私との婚約を破棄したのよ?」

「ですから、私も不思議で」

「こうもおっしゃいました。『あいつは平気な顔をするだろうが、ああ見えて泣き虫だから』と」


 私は何も言えなかった。

 捨てるつもりの女のことを。

 どうしてそんなふうに、頼むの。


     ◇


「わたくしが旦那様を殺害する理由などございません」


 オスカーは深く頭を下げた。


「オスカー」

「はい」

「セドリックは、私を嫌っていたと思う?」

「……わたくしから申し上げることではございません」


「答えて」

 しばらく沈黙したあと、オスカーは口を開いた。


「旦那様は三日前から、婚約解消届をご用意されておりました」

「……三日前から」

「二日前には、あなた様の私物を整理するよう仰せつかりました。昨日の朝には、あなた様の寝室の鍵も替えさせております」


 三日前に、婚約解消届。

 二日前に、私の荷物。

 昨日の朝に、寝室の鍵。

 そして昨夜。


『クリスティーナを二度と、この屋敷へ入れるな』

 完璧だった。


 セドリックは、何日もかけて私を自分の人生から消そうとしていた。


「本当に……嫌われていたのね」


 自分でも情けない声が出た。

 仇を取りに来たはずなのに。

 分かったのは、自分がどれほど嫌われていたかということだけだった。


     ◇


 帰り際、机の上に置かれた荷物目録が目に入った。


 何となく手に取る。


 ドレス。

 靴。

 本。

 手紙。

 化粧道具。

 宝石箱。


 そして。


『故アメリア夫人の首飾り』


「……え、なんで!?」

 あの首飾りは、寝室の引き出しの、さらに奥にしまってあった。


 しまった場所は、誰にも教えていない。

 侍女にも。

 オスカーにも。

 セドリックにさえ。


 ――母の形見なの。結婚式の日に、これをつけるって決めてるの。


 この屋敷に来たばかりのころ、私は一度だけ、セドリックにそう話した。


 ――なら、その日まで失くすなよ。


 そう言って、彼は珍しく笑った。

 場所は知らなかったはずだ。

 それでも、あの人は覚えていた。

 私が、母の首飾りを持っていたことを。

 それが私にとって、どれほど大切な物なのかも。


 嫌いな女の忘れ物なら、あとで送りつければいい。

 それなのに、首飾りは私の荷物に入っていた。

 まるで、私が取りに戻る理由を、一つ残らず潰すように。


「二度と戻らなくてもいいように……?」


 背筋が冷えた。


 三日前。

 婚約解消届を用意した。


 二日前。

 私の荷物を整理した。


 昨日。

 寝室の鍵を替えた。

 マリアに私を頼んだ。

 私を屋敷から追い出した。

 屋敷へ入れるなと命じた。


 そして。

 自分だけは、屋敷に残った。


「違う……」


 全部。

 意味が逆だったとしたら?


     ◇


 私はセドリックの書斎へ走った。


 本棚から、あの物語集を抜き取る。

 十五歳の私が贈った本だ。


 ページをめくる。

 やがて、あるところで手が止まった。


 最後に二人が結ばれて、幸せに暮らす物語。

 昔の私が、何度も好きだと言った話だった。


 そのページに、一枚の紙切れが挟まっていた。

『……これ以上調べるな』

 途中が破れている。


 さらに、その下。


『次は、婚約者の女を――』

 息が止まった。


「セドリック……」

 私を殺すと脅されていた。


 だから、婚約を破棄した……?

 でもどうして、この本に挟んだのだろう。

 答えは、ない。

 私は本を抱き締めた。


     ◇


 セドリックが何を調べていたのか。

 それはすぐに分かった。


「兄上なら先週から、古い帳簿ばっかり見てたぞ」


 ユリウスに言われて開いた帳簿には、橋の補修費が計上されていた。


「橋? 三年前から……直ってない?」


 さらに調べると、同じような記録がいくつも出てきた。


 道路。

 倉庫。

 存在しない工事に、毎年金が支払われている。

 そして机の手帳には、セドリックの字が残っていた。


『王都監査官 午前十時到着』

 今朝の日付だった。


 私は、ユリウスの言葉を思い出す。

『明日になれば終わる』


 セドリックは、自分に危険が迫っていることを知っていた。


 だから私を逃がした。

 それでも、自分まで逃げるつもりはなかった。

 屋敷を空ければ、帳簿を消されるかもしれない。

 だが、監査官が来れば、不正は明るみに出る。

 それまで耐えればいい。

 そう思っていたのだろう。


 あと一晩だった。

 その一晩を、彼は一人で越えようとした。

 そして、私だけを逃がして……。


     ◇


 その日の夕方。

 私は応接室に三人を集めた。


 ユリウス。

 マリア。

 そしてオスカー。


 隣室には騎士団が待機している。


「セドリックは、自分に危険が迫っていることを知っていた」

 私は脅迫文を机へ置いた。


『次は、婚約者の女を――』

 マリアが口元を押さえる。


「だから私との婚約を破棄した。私を、この事件から切り離すために」

 声が震えないように、私はテーブルの縁を握った。


「そして彼は、横領について調べていた」

 帳簿を置く。


 オスカーの表情は変わらない。

「それがわたくしだと?」

「そうは言っていないわ」

「帳簿に触れる者は、わたくしだけではございません」

「そうね」


「毒にしてもそうです。お部屋へ運ばれたワインなら、給仕も触れております」


 私はオスカーを見た。


「……オスカー」

「はい」

「どうして、ワインだと思ったの?」


 彼の顔から、初めて表情が消えた。


「何に毒が入っていたか、まだ公表されていないわ」


 扉が開き、騎士たちが入ってきた。


「オスカー殿。お部屋を確認させていただきます」

 オスカーが出口へ走る。

 だが、騎士たちに取り押さえられた。


「離せ! わたしが何年、この家に仕えたと思っている!」


 初めて聞く怒声だった。


「だから兄上を殺したのか!」


 ユリウスの声に、オスカーの抵抗が止まる。


「……あの方が、気づきさえしなければ……」


 オスカーの私室からは、毒の残りと、横領した金の行き先を記した帳面が見つかった。


 セドリックを殺したのは、オスカーだった。

 監査の前夜、部屋へ運ばれたワインに毒を入れたのだ。

 オスカーは、そのまま騎士たちに連行されていった。


 あと一晩だった。

 たった一晩。

 翌朝には、監査官が来るはずだった。

 セドリックは、そこまで辿り着けなかった。


 仇は取った。

 それなのに。


 連れていかれるオスカーの背中を見送っても、胸の中には何ひとつ戻ってこなかった。

 私が本当に欲しかったのは。

 仇なんかじゃなかった。


     ◇


 事件が終わったあと。


「クリスティーナ様」

 騎士に呼び止められた。


「セドリック様の机の引き出しから見つかりました」


 騎士から、手記を渡された。


『これがクリスを守る最善手だ』


 私は天井を見上げて、目を閉じた。


 そういうことだったのね。


 昨夜の彼の言葉を思い出した。

『君との婚約は、今日限りで終わりだ』

『いますぐ実家へ帰れ』

『何があっても、絶対に戻るな』


「……馬鹿」

 涙が落ちた。


 昨日からずっと出なかった涙が、止まらなかった。


『あいつは平気な顔をするだろうが、ああ見えて泣き虫だから』


 本当に。

 何でも知っていたのね。

 私のこと。


「だったら、言ってよ……」


 あなたが何に怯えているのか。

 私が危ないのだと。

 一緒に逃げようと。

 何でもよかった。


「そんなことも言わないで……勝手に守ったつもりになって……」


 首飾り、ちゃんと届いたわよ。

 結婚式の日につけるはずだったのに。

 あなたがいなかったら、つける日なんて永遠に来ないじゃない。


「本当に……馬鹿なんだから」


 だけど。


 あなたが命をかけて守ったものが、私だというなら。


 この命、無駄にはしない。


「生きるわ、セドリック」


 あなたが生きられなかった明日も。

 その次の日も。


「ちゃんと、生きるから」


 窓の外から、朝の光が差し込んでいた。


 でも。






 もう一度だけ、紅茶を飲みたかった。






 向かい合わせじゃなく。













 あなたの……隣で。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。