3話
報告書のチェックを全て終わらせて、彼に報告をする。
「ご苦労様です。確認しますね」
彼は手元の書類―私が数時間で精査し終えた、あの分厚い束に視線を落とした。ページをめくる指が一度止まり、彼はわずかに目を細める。
「…完璧ですね。指摘すべき箇所が一つもありません」
彼は満足げに頷くと、椅子から立ち上がった。
「よくできています。…そうそう、今から幹部会議があるので、貴女も来てください。これほど『使える』補佐を遊ばせておくのは、組織の損失ですから」
会議室という「戦場」へ連れて行こうとする彼の瞳には、好奇心に似た光が宿っている。私はその意図を汲み取りながら、静かに頷いた。
「分かりました」
彼が立ち上がり、私は一歩後ろに下がる。
他の構成員とすれ違いながらも、誰一人として私に目を向けない。
…いい傾向だね。皆の無関心さが私を透明にする。
集会室の重厚な扉の前に行き、彼は慣れた手つきで扉を開ける。
集会室内の視線が一瞬だけ彼と私に向いた。
だが、すぐに各自の資料に目を戻す。
「皆さん、揃っていたようですね」
彼の言葉を聞きながら、私は室内の顔ぶれを数える。…幹部は四人のはずだが、一人足りない。
「冬馬は首領のサポートとして、他街との取引に行ってる」
栗色の髪の男―神代結さんが、表情を一切変えずに言った。
私の微かな疑問を察知したらしい。わずかな視線の揺らぎすら逃さない観察眼は、流石は暗殺のプロといったところか。
感情の読めないその瞳に、私は内心で警戒を強める。
「琥白。連れているその小娘は? 悪いけど、ここは子供が来る場所じゃないわよ」
鋭い声の主は、四大幹部の一人、霧島凛さんだ。
銃器の扱いに長けているという彼女の蒼瞳には、隠しきれない苛立ちと、私への露骨な侮蔑が混じっている。
琥白様は私を一瞥することもなく、淡々と答えた。
「私の新しい補佐、玲です。…有能ですよ、“今のところ”は」
彼の無機質な声に、凛さんは鼻で笑って興味を失ったようだ。
「…そう。なら邪魔だけはしないで。じゃあ、始めましょうか」
結さんの合図で、一同が席につく。私は琥白様の後ろ、影に溶け込むようにして控えた。
幹部達はそれぞれの管轄の報告を述べる。
最近、凛さんのシマが荒らされていること。他の組織が大きくなっていること。銃の輸入が難しくなっていること。
集会室の空気は、静寂という名の刃物で満ちていた。
誰かが紙をめくる音がやけに耳に刺さる。
一つ間違えば、報告一つで命が消える―そんな重い空気だった。
私はそれに気づいたが、気にせず、情報を頭に叩き込んでいた。
幸い、記憶力はいい方だと自負しているので、この程度の情報を頭に入れるのは朝飯前。
「そういえば、最近、あいつら行動しないよね」
凛さんが冷たくいい、彼がため息をついて言う。
「“名無し屋”の事ですか?あの組織は行方を晦ましているようで」
その言葉に、私の指がわずかに止まり、息が詰まるような感覚がした。
…もう、とっくに潰れているよ。名無し屋は。
私はその名前を久しぶりに聞いた。
内心、ほくそ笑むが顔には出さない。
「あの組織が潰れて良かった。あいつらは厄介だからね」
結さんが淡々と言うが、その声に殺気が混ざっているような感覚がする。
「私の方でも調べてはいるのですが、中々尻尾が出ずに」
彼が肩を竦めて言い、凛さんが溜息を吐いた。
彼らが一生懸命調べている『尻尾』は、今、彼らのすぐ後ろに立っているというのに。
「本当に潰れていたらいいものの」
皆が小さく頷く。
部屋の空気は重くなっていたが、彼の咳払いでその空気が一掃された。
「ごほん…、とりあえず、最後の議題に移りましょうか」
その内容は朱月組のことだ。
朱月組は最近建設された花霞街のマフィア。夜の街を荒らす連中。表向きは商売、裏では薬と女を売っている。最近、凛さんのシマを荒らしまくっているらしく、凛さんの怒りはマックスだ。
「この件に関しては、朱月組との話し合いになるでしょう」
結が手を上げる。
「でも、首領も冬馬も居ないんだよ?」
彼は考える仕草をする。
…朱月組…か。話が通じる相手では無いと思うし。
「話が通じる相手では無いと思うよ」
凛さんも私と同じことを思っていたらしい。
「確かに凛さんの言葉も一理ありますね」
彼は私を見て、ニコッと場違いなほど明るい笑みを浮かべた。だが、その瞳だけは凍てついたままだ。
「貴女の意見を聞かせてください」
彼が冷たい笑みを湛え、私に視線を投げた。会議室中の視線が、針のように私に突き刺さる。
補佐に意見を求めるなど、本来はあり得ない。彼は、私がこの重圧に耐えかねてボロを出すのを待っているのだ。
無知を装うか、あるいは実力を見せるか。天秤にかけた結果、私は後者を選ばなかった。今はまだ、この男の手のひらで転がされている振りをしていた方が都合がいい。
だから、私はあえて、何も答えないことを選んだ。
「…意見が出ないのでしたら、後日までに考えておいてください」
彼の言葉に、私は内心で肩を竦めた。なぜ私が幹部の難題を解かねばならないのか。
だが、思考の裏を読むのは面倒だ。私はただ、人形のように深く頷いた。
「分かりました」
それから、会議が終わり、それぞれ解散する。
「玲さん、このまま帰ってください」
彼にそう言われて、私は帰る。
裏路地のアスファルトに、私のヒールの音だけが虚しく響く。
私は思わず、暗がりに向かってほくそ笑んだ。
…ああ、いつバレるんだろう、楽しみだ。
「名無し屋」が潰れた理由を、彼らは一生かけて探せばいい。
月明かりに照らされた私の影だけが、不気味に歪んで笑っていた。
【~完~】
キャラ設定のデータを紛失してしまい、続きが書けなくなったため途中で止まってしまった作品です。




