2話
デジタル時計が午前四時を指す。
私はいつも通り、硬いベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
窓の外はまだ深い闇に包まれ、冬だからか肌寒い。
彼の補佐となって、初出勤の時刻は、五時前だ。
顔を洗うため、洗面所に向かう。
鏡の中では、白銀の長い髪と冷ややかな青の瞳を持つ少女が、こちらを無表情に見つめ返していた。
…虫酸が走る顔だ。
忌々しい両親に似て、あの忌々しい幼馴染と同じ、人を突き放すような冷たさ。
不意に、掌にじわりと熱い違和感を覚えた。
視線を落とすと、固く握りしめた拳の隙間から、赤い液体―血が滴り落ちている。無意識に爪を食い込ませていたらしい。
「…。こんなに感情的になるとは」
自分のことながら、どこか他人事のように呟く。
清潔な白いタオルで赤を拭い去り、何事もなかったかのように朝の支度を整えた。
昨日と同じ、重厚な扉を開く。そこには、すでに彼がいた。
「今日から、早速仕事を始めてもらいます」
彼は立ち上がり、書架から分厚いファイルを取り出す。
「こちらが、我々が関わっている仕事です」
ファイルを受け取り、中身を見る。
「我々は主に二つの面で活躍しています。一つは財務管理。もう一つは…」
彼は一瞬、言葉を止めた。その一泊の沈黙が、部屋の柑橘系の爽やかな香りを一瞬で凍らせる。
そして、彼は何事もなかったように平然と言葉を続ける。
「…拷問です」
私は顔色一切変えずに頷く。
「承知しました」
彼は満足げでに笑みを浮かべる。
「やはり、この程度では驚きはしないのですね。その点は評価できそうです。とにかく、これから貴女が担当する仕事は主に財務管理です。拷問の方は、私が直接尋問する際に補佐をしてもらえればと思います」
…拷問か…、大変そう。
私は驚きも戸惑いも、なんの感情も湧かなかった。
「分かりました」
彼は人差し指を立てて、口を開く。
「そしてもう一つ。これからもそうやって平然としていることをお願いしますよ。無用な感情や同情を捨ててください。特に…『人情』なんてものは、ここでは全くの無用の長物ですからね」
…逆に持っている人が居るほうが驚きだよ。
内心、そう思いながら、頷く。
「分かりました」
「よろしい。じゃあ、これから始めましょうか?」
書類の山に目を向けた後、再び私を見る。
内心、嫌な予感が走る。
「まずは、このリストにある人物達の身元照会をお願いします」
…この人がまともな人で良かった。
内心、安堵するが顔には出せない。出したら、もっと多くの書類が出てくと。
私はもう、黒蓮組に来る前に経験済みなんだ。
渡された書類には五十人ほどの人達の顔写真があった。
「分かりました」
彼は私のデスクに案内して、口を開く。
「この作業は三十分以内で終わらせてください。それ以上かかるようなら、貴女の能力では無理だということとなります」
「分かりました」
彼は頷いて、自分のデスクに戻って行った。
私はデスクの端末に向かい、慣れた手つきでセキュリティを突破する。裏社会のデータページを瞬時に検索し、リストにある人物達の身元情報を引き出した。
私は時間をかけずにリストに乗っていた人達を調べ上げ、結果を報告する。
「ご苦労様です。次は…」
彼は私に書類の束を差し出した。
「これらの報告書をチェックして、問題がないか確認してください」
渡された書類の束は結構な分厚さがある。
ざっと、八cmか十cmはあるだろう。受け取った瞬間、ずっしりとした重みが腕にかかる。
「分かりました」
…うん、前言撤回。まともな人じゃないね。
デスクに戻り、チェックを始める。
今、気づいたが、数十名の構成員が各自、仕事をしていた。
…集中していて、気づかなかった。これは危険だな。
仕事に集中することはいいことだが、私達はいつ狙われるかは分からない。集中しながら警戒するのが一流。
…鈍ってきたな。ここが安全だとしても油断はできない。
数分が経った頃、彼は用事があるのか、席を立ってどこかへ行ってしまった。
近くに居た、構成員の男性が話しかけてくる。
「玲…と言ったか。お前、琥白さんの補佐となったんだろう?」
私は手を止めずに言う。
「そう。で、なに?」
「その…、一度気に入られないって思われたら、もう、おしまいだって…。気をつけたほうがいい」
「ご忠告どうも。でも…」
私は一瞬、言葉を区切ったが、そのまま続ける。
「私は気に入られるつもりも、嫌われるつもりも無い。ただ、割り当てられた仕事をするだけ」
私は一切彼に目を向けず、書類仕事を淡々とこなす。
構成員の男性は驚きや戸惑いの声で、「そうか…」と呟き、自分のデスクに戻った。
…そう。誰にも注目されない無関心さこそ、私に都合がいい。




