第36話 裏西地区
第36話
酒場の扉を抜けた瞬間、キーパーはわずかに足を止めた。
先ほどまで歩いていた西地区の空気のはずなのに、肌に触れる感触がどこか違う。
湿っているようなジメジメとした重さを感じる。
背後ではまだ、酒場のざわめきが漏れている。
笑い声。怒鳴り声。グラスの音。
それが数歩進むだけで、急速に遠ざかっていく。
まるで、境界を一枚隔てたように。
「……こっちです」
案内役の男が、やけに早足で歩き出した。
振り返る回数が多い。
こちらを確認しているというより、“何かに追われている”ような目だった。
更に路地へ入る。奥に進むにつれて、通りは狭くなっていく。
建物同士の間隔が詰まり、空が細い帯のように切り取られている。壁は黒ずみ、ところどころに手垢のような汚れがこびりついている。
雨水が流れた跡か、それとも――別のものか。
足元の地面は、乾いているはずなのに、靴裏に妙な粘りが残った。
「……なんだか、さっきと違う道?」
ハンマーが声を潜める。
無意識に、肩がすくんでいた。
「人もいなくなっている」
レンが短く言う。
確かに、気配はある。
だが、“生活している人間の動き”がない。
生活音、環境音。
それらが、意図的に削ぎ落とされたように消えている。
キーパーは何も言わず、前を見て進む。
そのとき。
路地の壁際に、人影があった。
一人の男。
こちらに背を向け、壁に頭を預けて立っている。
ふと横顔が見えた。頬はこけ、目の下に深い隈がある。
だが。
瞬きをせず、呼吸もしているようには見えない。
ただ、立っているだけ。
「……あの人」
ハンマーが小さく言う。
「さっきから、ずっとあのままじゃない?」
案内役の男が、強い調子で言った。
「み、見ないでください」
「なぜだ?」
レンの声は低い。
男は一瞬だけ口を開き、すぐに閉じた。
言葉を選んでいるのではない。
“言いたくない”顔だった。
レンが一歩だけ前に出て、男を見つめる。
しばらく、何も言わない。
そして観念したように、口を開く。
「……アイツは、成れの果てです」
ぽつりと言った。
「買い取られた人間は、少し立つとああなって戻ってきます」
キーパーがわずかに視線を動かす。
その瞬間。
壁を向いていた男の首が、不自然に傾いた。関節の可動域を無視したような角度で曲がり、ぎぎ、と鈍い音が鳴る。
男の口が開く。
だが、声は出ない。
代わりに、喉の奥で何かが蠢いたように見えた。
液体のようでいて、固体にも見える。
呼吸に合わせてではない。
意思を持って動いているような、不規則なうねり。
ハンマーが息を呑む。
レンの指が、武器にかかる。
「やめろ」
キーパーの声は小さい。
だが、迷いがない。
それだけで、動きが止まる。
男はそれ以上動かない。
再び、ただの“立っている物”に戻った。
視線だけを残して。
「……なんだ、あれは」
レンが言う。
案内役の男は、しばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開く。
「……抜け殻だと」
声が、震えている。
「人間買取業者の者は、奴らを"抜け殻"だと言っていました。」
「抜け殻、だと?」
レンの眉が寄る。
「容れ物、とも」
その言い方に、ハンマーの顔が強張る。
「どういうことだ」
「お、おれにもわからない!」
男は発狂するように答え、歩く速度をさらに上げる。
さらに、さらに奥へ。
分岐をいくつも曲がり。
やがて、視界が開けた。
そこは小さな広場。瓦礫と、歪んだ木材で囲われた、不格好な空間。
何十という人間が、こちらを向いている。何人かは、武器を持っている。
「貴様…図ったな!待ち伏せかーー」
「レン、待て」
キーパーがレンを止めた。
よく見ると、誰もまともに動いていない。壁に額を押し当てたまま動かない者。地面を何度も何度も撫で続ける者。
空中に向かって、誰かと会話している者。
「あれら全て…抜け殻か」
何十という数の抜け殻。異様な光景はまるでゾンビ映画のパニックシーンのようだった。
少し広場を進むと、中央に簡素な台が見えた。
その上に立つ男が、一人。
誰もいない方向へ向かって、丁寧に頭を下げている。
「……はい。ええ……問題ありません……」
言葉遣いは整っている。
だが、目は焦点を結んでいない。
腕の皮膚が、不自然に膨らんでいる。
内側から何かが押しているように。
血管ではない。
筋肉でもない。
もっと別の“形”が、内側で動いている。
スクラッパーが低く言う。
「……ここが、裏か」
「ようこそ!」
突然頭上から声がした。
キーパーたちが広場の空を見上げると、大きな翼を広げた"何か"が空を飛んでいる。
その"何か"は背中に人を乗せ、羽ばたいている。
「思ったよりも遅かったので心配しました!」
聞き覚えのある、嫌悪感のある声。
真っ先に反応したのは、フィアー。
「よ、ヨロコビ!ヨロコビか!?」
「フィアー様…なぜ侵入者と一緒に?」
ニヤニヤと、薄笑いを浮かべるスーツ姿の男は、ゆっくりと広場へ降りてくる。ヨロコビを乗せていたのは、飛行型のマモノ。
「ヨロコビ……お、お前こそ、こんなところで何を?」
「やれやれ…キーパーさん。
この臆病者を、なぜ殺さなかったのですか?」
ヨロコビはフィアーを無視して、キーパーに問いかけた。
「よ、ヨロコビ…?」
「まぁ良いでしょう。これだけの"素材"が集まることは稀です。さぞ、主人も喜ばれるでしょう」
「素材…だと?」
スクラッパーが聞くと同時に、レンガ引き金をひきヨロコビに閃光を撃ち出した。
蒼白の閃光がヨロコビの眉間を貫く直前。地面が突然盛り上がり、土壁となって閃光を防いだ。
「何だと?」
『オイオイ…ずいぶんせっかちだなぁ』
土壁の中から、声がする。
土は更に盛りあがり、中から巨大なワーム型のマモノが根や岩を持ち上げながら飛び出してきた。
「こ、コイツは…!」
「ふ、ふふふ。」
『ヨロコビよぉ、コイツラが例の…?』
ワームの口が開かれる。そこにいたのは、酒場を教えてくれた"ディフェンダー"。
『ちゃあんと連れてきたんだな』
ディフェンダーは、ここまでキーパーたちを案内した男に告げる。
「あ、あぁ!約束は守った!だからもう見逃してくれ…!」
『もちろんだ。俺は何でも守る。約束も、守る』
『行け』
「あ、あぁ、ありがとう!」
男は走って広場から去っていく。
「相変わらず"イカリ"は甘いですねえ」
『いいじゃねえか。素材は目の前にたんまりある』
ヨロコビとイカリ、そして追従する二体のマモノ。
それらの眼は、完全に"獲物"を捉えている。
逃がすつもりは、無い。




