第30話 狂恐怖布II
第30話
閉じた眼の紋様が、フィアーの手のひらの上でゆっくりと開いていく。
開かれた瞼の中心にある、暗い穴。その深淵から覗き込む眼球が、キーパーを見つめ返している。
目を逸らすことが出来ず、視線が絡み合っていく。視界の端で、狭いはずの部屋が、壁が、やけに遠くに広がっていく。
徐々に現実の輪郭がぼやけ、足元からじわじわと冷たいものが這い上がってくる。
だが、それだけ。
フィアーは手を向けたまま、小さく呟いた。
「……やっぱり、おかしい」
その虚ろな瞳が、キーパーの顔を興味深そうにじっと見つめる。
「恐怖が、無いわけでは、ない…はず。」
「どうした?また幻覚でも見せてくれるんじゃないのか」
キーパーは短く息を吐く。
「来ないのなら、こっちから⋯」
フィアーの肩がびくりと震えた。
「……動けるのか。」
「普通は、動けなくなる」
その声は、どこか説明というより独り言に近い。目の前の相手を倒すための分析というより、戸惑いだった。
「なら…仕方ない。」
手のひらの紋様が一度瞼を閉じる。そしてもう一度開かれると、眼だったはずの穴からは歯と舌が見える。
『コワい…こわイ…独リ、コワい』
手のひらが言葉を発した、次の瞬間。
視界が反転した。
床が消える。
壁が引いていく。
ランプの明かりが引き千切られ、真っ暗な何かに飲み込まれたと思った次の瞬間、キーパーの足元に柔らかな感触が戻る。
次の瞬間、黒かった視界が強烈な光に照らされ、真っ白に染まる。
足元の感触は、館の石床ではない。
風が吹いている。ひりつくように乾いた、風。
嗅覚が戻ってくると、鼻を刺すような焦げ臭さ。
徐々に目が慣れてくると、空は濁った灰色だった。遠くには砕けた建物。無数に抉れた大地。焼けた地面から薄い煙が立ち上っている。
「……ここは」
口に出した瞬間、自分でも分かった。
忘れるはずがない。
第一ラウンド。
終わりの戦場「荒原エリア」だ。
たった一人、生き残るため。ランキングを追い求め、日々参加者たちが極限状態で殺しあっていたゲーム。
背後で小さな靴音が鳴った。
ザッ。
ザッ。
ゆっくりとした足取り。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
黒髪が肩で揺れる。顔立ちは幼いのに、瞳だけが妙に冷たい。見覚えのある服、見覚えのある立ち方。
細い指先が、何かを摘まむように宙をなぞる。
キーパーの喉がわずかに鳴った。
「……お前は、」
少女が笑う。
懐かしいね、とでも言いたげに。
「ちゃんと、生き抜いてくれてるんだ。」
その声は静かだった。穏やかですらある。それなのに、キーパーの心臓は激しく脈打っている。
「リンネ⋯」
キーパーは拳を握りこむ。
分かっている。
これは、幻覚だ。
フィアーの能力が見せる、恐怖の残像。
それでも、胸の奥に爪が立つような感覚は消えない。
この少女は、第一ラウンドの記憶と結びついた、生々しい死の気配そのもの。
少女が両手を広げた。
「あの頃は、楽しかったね。」
その指先に小さな火が灯る。
ぱちり、と軽い音。
火は次の瞬間に膨らみ、掌大の炎球となった。
「覚えてるよね。」
炎の傍らで、もう片方の手には白い霜が走る。
指先からつららのように氷の柱が何本も伸びた。
「私と、●●●で、いっぱい殺したよね」
自分の名を呼んでいる。それは分かるが、名前の部分はひどいノイズにかき消されて、聞き取れなかった。
「俺は、俺は殺してない⋯!」
少女が首を傾げる。
「同じようなものじゃない。」
炎が渦巻く。
氷が軋む。
さらに、少女の髪がふわりと浮き、頭上で青白い電流が弾けた。
バチッ、と鋭い音。そして雷光が少女の足元を走り、大地に黒い跡を残す。
「その証拠に、1位はあなただったでしょ?」
いつの間にか、少女の足元には無数の死骸が転がっている。
「私"たち"で、処理してあげた。」
キーパーの瞳が細くなる。
「……エレメンタル、マスター」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
「●●●」
再度、名を呼ばれる。
その瞬間。
炎球が迫ってくる。
単なる投射ではない。空気を切り裂いて、まるで生き物のように軌道を変えながらキーパーの顔面へ迫る。
キーパーは反射的に左へ跳んだ。
直後、炎球が背後の瓦礫に激突する。
爆ぜる。
ドォンッ!!
熱風が背中を叩く。砕けた石片が飛び散り、肌をかすめる。焼けるような熱が首筋をなぞった。
「ぐッ……!」
着地と同時に踏み込む。
距離を詰める。
「これは、これは幻覚だ。これは幻覚だ!!」
相手は遠距離型だ。撃たせ続ければ押し込まれる。幻覚だろうと何だろうと、殴れる間合いまで入るしかない。
だが。
足元が凍った。
パキパキパキッ――
「!」
踏み出した右足の周囲から氷が伸び、石畳ごと足首を拘束しようとする。キーパーは即座に義手を振り下ろした。
ガンッ!!
黒鉄が氷を砕く。
砕けた氷の破片が舞う。その向こうで、少女が指を鳴らした。
雷が落ちる。
バヂィッ!!
白い閃光が視界を焼いた。
キーパーは咄嗟に避けようとするが、氷に足元をとられ直撃する。
黒鉄の表面に雷が這い回る。耳鳴り。歯の根まで痺れる衝撃。
「グガァッ……!」
だが、倒れない。否、痛みと痺れで倒れることすら出来ない。
「早く、早く"異物"を処理して。」
少女が話し続ける。キーパーの耳には届くが、脳の処理が追いつかない。
痺れを押し殺し、とにかく一歩、二歩と踏み込む。
少女の目がわずかに揺れる。
「私と●●●の、使命」
「黙れ…」
答える代わりに、拳を強く握り直す。
「思い出して」
「黙れ…」
炎の嵐が吹き荒れる。氷の刃が雨となる。走る稲妻がキーパーの首筋に噛みつく。
それでもキーパーは、止まらない。
「●●●」
「俺の名を、呼ぶな…」
サンライズヴィレッジでも感じた、激しい頭痛。恐らく、魂の記憶が目覚めようとしている痛みなのだろう。
それでも、キーパーは拳を振り上げる。少女は動かなかった。
「●●…」
「ニセモノのリンネが、俺の名を呼ぶなぁあア゙!!!!」
右の一撃。
パリィイイン
振り下ろされた拳は、少女に届く前に"何か"を砕き割る。
粉々に割れた破片が、自分の姿をうつしながら地面へと散っていく。
そして、世界に亀裂が走る。
ピシッ…ピシッ
◆
赤い扉の部屋。
フィアーが後ずさっていた。
壁に背をつけるようにして、こちらを見ている。手のひらの眼の紋様は開いたまま。それでも、顔には明らかな焦りが浮かんでいた。
「……何で」
震える声。
「何で、壊れない」
キーパーは自分の体を一瞥する。炎で焼かれた痛みも、氷で割かれた傷も、雷撃で焦がされた跡も無くなっている。
だが、疲労感は変わらない。
キーパーは息を整えた。
「リンネの髪の分け目は、右じゃなくて左側だ⋯」
「そ、そんなの知らないよ」
「お前の能力は、恐怖を増やす。そして、トラウマを呼び起こす。そんなもんか?」
「ぐ…」
フィアーは一瞬体を震わせる。
だが、キーパーには“恐怖の増幅”が効かない。
「恐らく、俺の"維持"は精神にも効くらしい。」
「…または、シン化によって効かなくなったか」
フィアーがもう一歩下がろうとして、踵が壁に当たる。
「来るな」
「ふざけた真似をしてくれたな」
キーパーは先ほどよりも軽い足取りでフィアーに迫る。
「来るな!」
「仲間たちを返してもらおうか」
もう、フィアーまで手の届く範囲。
「来るなーーー!」
フィアーが両手をこちらへ向ける。
右手には、先ほどまで見せていた紋様。そして左手のひらには、もう一つの青い紋様。
「難儀な写鏡!」
フィアーの声に呼応して、両手の紋様が開かれる。
フィアーとキーパーの間に、黒い霧を引きずる鎌を持った死神の姿が現れる。
「こ、これは君たちの心を映した幻覚じゃない…」
フィアーは顔を青ざめながら、諦めのような声で話した。
「僕の心にある、僕自身の恐怖の具現化だ!」
死神は、鎌を振り上げる。
「殺したく…なかったのに。」
フィアーは誰に聞かれるでもない声で最後につぶやき、目を両手で覆い隠した。
「こいつが奥の手ってわけか。」
死神は鎌を振り下ろす。だが、ヨロコビが使役していたマモノほど速くはない。
キーパーは余裕を持って避けるが、鎌の太刀筋には黒い霧が残る。
「そ、その霧に触れると……僕の恐怖がうつる。近づくな…!」
「お前、敵なのに何で心配してるんだ?」
言われて、フィアーはハッとして顔を赤らめる。
「とはいえ、恐怖の伝染か。少し厄介だな」
そのとき、背後でかすかなうめき声がした。
「……キーパー……」
レンだ。
ぐったりした様子だが、自分の足で歩けている。
「酷い目にあった…。フィアー殴らないと、気がすまない」
キーパーは振り向かないまま言う。
「ちょうど目の前にいる。だがその前に、あの死神をどうにかしないとな」
レンは答えず、足元へ落とした銃へ手を伸ばした。
床を擦る音が、部屋に小さく響く。
その僅かな気配を背中で感じながら、キーパーは前を見る。
フィアーが震える。
「来るな」
死神がゆっくりと距離を詰める。
鎌を振り上げ、部屋の空気が歪む。
キーパーは前へ踏み込んだ。
まだ決着は遠い。
だが。
少なくとも――
ここから先は、もう一方的に見せられるだけでは終わらなかった。




