2-5
受付のにーちゃんは私たち2人を見て引いた顔をした。裸眼のぼやけた視界でもわかるくらい、あからさまだった。
口紅をベッタリつけた仏頂面の大男は無言でクレジットカードを突きつけ、その彼にほとんど抱えられているようなちっこい女は紫色の唇でグッタリしているのだ。無理もない。蘭さんが暗証番号を機械に打ち込んでいる隙に「通報する?」とジェスチャーで聞いてきたくらいだ。
119番か、はたまた110番の案件と思われているのか。まあ、どちらにせよ不要である。
私は笑って首を横に振ったが、きちんと笑えていたかどうかはわからない。
背中に張り付くような視線を感じながらネカフェを後にし、車に乗り込んだ時にはほぼ目も開けていられなくなった。
蘭さんはいつの間に購入したのか私にスポーツドリンクを握らせ、「気持ち悪くなったら遠慮なく吐きな」とまで言ってくれた。
ぼんやりとしか見えなかったけど、車の種類なんて全然わからないけど、おそらく今乗っているコレは高級車だ。
意地でも吐かないぞと決意を固めた私だが、流石は高級車、滑るように走る。その心地よい振動と、たまに頬に感じる骨張った指の感触。
閉ざされた視界でただ身を委ねながら、どれくらい時間が経ったのだろう。
何故か自分がコアラになっている夢を見た。
そうだ、間違いなくこれは夢だ。そう思った瞬間、体がガクンと落ちるような感覚に囚われ、私は人間として布団の上で目を開けていた。
「…うぇ」
反射的に身を起こそうとするも、視界が回って布団に逆戻りした。
というか、何故私は布団に寝かされているのか。それも、田舎のおばあちゃんのうちにあるような、昭和レトロな柄をした布団だ。
全体的に白っぽい、洋風でフローリングの部屋に合わないそれを何となく手で揉んでみる。
布団は私が使っていたものより重みがあって、頭を動かすと枕からジャリジャリとかすかに音がした。
…遠い昔、知らないおばあさんにお手玉を握らされて教わったのを思い出す。中に詰められていたのは確か「おじゃみ」と言ったか。そう、そのおじゃみの感触がする。
現実逃避がてら無心に枕を揉んでいると、何やら男女の声で話しているのが聞こえ、足音が近づいてきたと思ったら、扉が開いて“現実”がやって来た。
現実は、ラフな格好をした蘭さんと、ピラフの美味しい喫茶店のパンクなおねーさんの形をしていた。…私にはそう見えるのだが、正直自信はない。特に後半。
何せ視力が悪い上に瞼も重くて狭い視界のせいで、2人の表情すらよくわからない。やっぱりまだ夢の中かもしれないと思い始めたところで、おねーさんが口を開いた。
「何か食べたいものは」
私はその声がよく聞き取れなかった、否、正確には聞き取れたが意味を掴み損ねた。視界だけでなく思考もぼやけている。それでも何か言わなくてはと考え、結局出てきた言葉が、
「コアラ…」
「「コアラ⁉︎」」
2人をギョッとさせてしまった。
「アキちゃん、コアラのお肉が食べたいの…?」
え、どうしようどこで手に入るんだろうアマゾンで探せばあるのかな。そんなことを言いながら私の枕元に屈んで困惑しきりの蘭さん。
「ちがう…コアラになった、ゆめを見てたみたいで。その気分が、ぬけなくて」
一方、蘭さんの隣に同じように屈み込んだおねーさんはすぐに冷静さを取り戻したらしい。
「何それ。つまり、あんたは今ユーカリが食べたい気分ってこと?」
「にんげんの食べものがいいです…」
「だろうね。もういい、テキトーに作るから」
そう言い捨ててさっさと部屋を出て行ってしまった。そんな彼女も非現実的だが、そもそもこの部屋は何処なんだ一体。いや、なんとなく想像はつくが、一応確認はしておこう。
「らんさん」
「ん?」
「わたしはどこ」
…言葉のチョイスを間違えた気がする。
記憶喪失な人が思考にもバグを起こしたみたいな質問になってしまった。が、ニュアンスで言いたいことは伝わったらしく、蘭さんは苦笑して優しく答えてくれる。
「ここはね、僕のマンションの、寝室だよ」
「…きっさてんの、おねーさんがいた気がする。まぼろしかな?」
「幻じゃないよ⁉︎生身の人間だよ⁉︎」
「ナマミの人間」
「うん。ていうか、あの人ね、実は僕の姉なんだ」
「ボクノアネ…?」
ボクノアネ、ボクノアネ、と呪文のようにその言葉がぐるぐる駆け巡った。ボクノ、アネ。ボクの姉。僕の姉。つまり蘭さんの姉。すなわち喫茶店のおねーさんは、蘭さんのお姉さん。
そうだったのか。
ようやく漢字変換されてその意味を掴んだときには、素直な感心が口をついて出た。
「姉弟そろって、見目麗しくていらっしゃる…」
「ミメウルワシ…?」
今度は蘭さんが首を傾げ、その顔を見ているうちに徐々に意識が覚醒してきた。
そして、覚醒した頭が信じられない事実を導き出す。
「…私、寝てました…?」
「寝てたねえ」
「…どのくらい、寝てました…?」
「ほんの2時間くらいだよ」
2時間も。
絶句する私の頬を指の背で撫でて、蘭さんは「さっきより顔色はマシになったね」と微笑んだ。
確かに、ネカフェに居た時より気分はずっと楽になっていた。ただ、意識がハッキリしてくるにつれ、多いに血を含んだナプキンの湿った感触に不快さも際立つというもので。
あの、お手洗いは…と小さく聞いた私に、彼は案内すると言ってなんと私を抱き上げようとした。
いいと断って、自力で起き上がるも布団からまるで転がり落ちるような格好になって、結局蘭さんに支えられながら廊下を歩く羽目になった。まるで介護だ。そう思うと同時に扉の多さに私は圧倒されていた。どれだけ広いんだこの家は。間違いなく高級マンションだ。“案内”が必要なのも頷ける。
トイレの中には私が買い込んだナプキンが運び込まれていた上、小さなゴミ箱が備えられていた。足で踏んで蓋を開けるタイプのそれは、ペダルの部分にビニールのカバーがついたままだった。明らかに新品だ。
「ありがとうございます。色々と面倒かけちゃってすみません」
おねーさんに呼ばれてリビングにやってきた私はまず、深々と頭を下げた。トイレのゴミ箱は同性としてこういう時に必要なものがわかっている彼女の計らいに違いないと思ったからだ。
「お礼なら蘭に言いな。アタシは蘭に呼ばれて来ただけだし。車で爆睡したあんたを抱えて運んで、布団に寝かせたのも蘭だから」
「…マジですか」
それで目覚めなかった自分に何よりもびっくりである。
とにかく、ありがとうございますと私は蘭さんにも丁寧に頭を下げる。深い感謝を込めて。
しかし、
「羽のように軽かったよ」
「それはない」
にこにことそんなことを宣う蘭さんに次の瞬間には真顔で突っ込んでしまった。




