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2-4

 思わず「んおっ」と声を上げて(ここで「キャッ」なんて可愛らしい悲鳴が出ないのが私だ)隣を見れば、あり得ないくらい至近距離に蘭さんの顔。カッと音がしそうな勢いで、ただでさえ大きい目をさらに見開くから、三白眼みたいになっている。

「……」

「ッえ、何、ちょっと、」

 しかもそのまま有無を言わせない強さで腕を引いて店を出ようとするので、慌てて「荷物!」と叫ぶ。

 腕を掴んだまま風船のように着いてくる彼を伴って、自分の個室に入った私は頭を抱えたくなった。

 ふやけたラーメンはそのままだし、皮張りのソファーの上で毛布が乱れているし、買い込んだ下着や着替えやその他諸々をぶち込んだ紙袋は上から覗けば丸見えの状態で置かれていた。

 一言で言って生活感で満ち満ち溢れた空間である。

 すみません、すぐに片付けます!と私はまず紙袋の口を閉じようとして、出来なかった。

 掴まれた腕を引かれ、クルリと景色が回る。次の瞬間には視界いっぱいに蘭さんの顔があり、暖かい粘膜に唇が覆われた。

 どうやら私はソファーに座らされていて、蘭さんにキスされているらしい。

 ガチッと小さな音を立てて眼鏡が食い込み、思わずその痛みにうめくと、あっさりと唇を離された。長くて骨張った指に丁寧な仕草でメガネを抜き取られ、

「っ蘭さ」

 その丁寧な仕草とは裏腹に言葉を挟む隙を与えず、再び唇が塞がれる。

 ペロリと唇を舐められて、私は身を固くした。

 ドロッと血が流れ出る感触と、腹の中の“石”が蠢くような感覚。そのせいで胃が圧迫されているような不快感まで感じ、頭痛に侵された頭が、全然効いてねーじゃねーかあの薬!と毒づく。要するに何が言いたいかと言うと、今口に何か入ってきたとしたら、それこそ舌を入れられたりなんかしたら、多分きっとおそらく十中八九確実に………吐く。

 そう気づいて反射的に身を引くも、後頭部を壁にぶつけただけですぐに追いついてきた唇にバクッと容赦なく喰いつかれた。

 蘭さんは壁と頭の間に手を差し入れ、労るように髪を撫でてくるけど、それどころじゃ無い。

 どうも結構な音を立ててしまったせいで、隣のブースの人間に気づかれたようなのだ。個室といってもここは完全な密室ではなく、高い壁で区切られているだけだ。高い壁と言っても、その気になれば椅子に乗ったりして外から覗くことは容易な作りだ。案の定、視界の端に影が差したと思ったら舌打ちが降ってくる。

「んー、んん!んんんんー!」

 ねえ見られてる見られてるってば。バシバシと逞しい肩を叩いて必死で訴えていると、邪魔だと言わんばかりにその手を掴まれてしまう。もう片方の手は皮張りのソファーで滑る体を支えるのに忙しい。無抵抗のまま、私は蘭さんに唇をひたすらベロベロ舐め回された。

 オレンジ色の蛍光灯に照らされて、一度染めたことの無さそうな黒髪と同じ色をした睫毛に僅かな赤味が差している。焦点ピントの合わない視界で見えたそれに、私は意識を集中させようとした。

 舌の表面でザラリと、何かをこそげ落とすかのように最後に大きく一舐めして、やっと蘭さんは離れた。離れたといっても、まだ鼻先が触れ合うほど近い。

 は、と小さく息を吐いた私に無機質な声で断言された。

「アキちゃん、体調悪いんでしょ」

「え」

「自分が今どんな顔色してるかわかってる?唇だって紫色だよ」

 ()()で誤魔化してたみたいだけど。

 そう言う蘭さんの唇こそ、私のつけていたマットなカラーリップで赤く染まっていた。それすらも壮絶な色気に変換してしまう男。

 彼が舌を入れず口周りを舐めるのに留まったのは、文字通り私のリップを舐めとるのが目的だったらしい。

 “外”モードと“内”モードの中間くらいの顔をした蘭さんは「それで?」と目を細めた。

「一体何があったの、アキちゃん」

「何、とは…」

「何かあったんだよね」

 蘭さんが顎をしゃくる先にはパソコン画面。あ、と思わず間抜けな声が出る。何かの拍子でスリープモードが解除されたらしく、私が調べ物をしていた内容が映し出されていた。

「通帳」「身分証」「焼失」そんな言葉が並んだ画面が。

 今日はとことんやらかす日だ。そんな自分に苛立つ気力すら湧かず、取り繕うことすら思いつかずに洗いざらい吐き出すしかなかった。

 4日前に火事に合い、たまたま仕事で持ち出していたもの以外、何もかも燃えて無くなってしまったこと。

 通帳もハンコもカードも焼失し、銀行でお金をおろすこともできない為、財布の中にある所持金でやっていくしかないというのが今の私の現状である。極力、身元のわかるものを外に持ち出さないという習慣が裏目に出た結果だった。

 実を言うと、たまたま財布に入れっぱなしだったこのネカフェの会員証はとっくに期限切れだった。最後に来店した時に既に成人済みだったということで、身分証確認なしで更新してもらえたのは不幸中の幸いだと言えるだろう。

 自分でもドラマのような話だと思った。私が日頃からポンポンついている嘘より、本当のことを話す方がよっぽど嘘くさく聞こえる。

 しかし、蘭さんはアッサリと信じてくれたようだった。

「もしかして、具合が悪そうなのは火事の後遺症?」

「カジノコウイ…?ああ、いえ、私は煙も吸ってないんです。仕事から帰ってきた時にはもう家がなくなってて」

「それは………大変だったね」

 当事者である私より、よっぽど痛ましそうな顔をする蘭さん。

 そんな彼を安心させるために微笑みを浮かべる余裕すらない私である。

「お腹、痛いの?大丈夫?」と、蘭さんは私が自らのお腹をさすっている手(無意識だった)に、その大きな手を重ねてくる。

「痛いっていうか…」

「気持ち悪い?体調が悪いなら言ってくれれば、」

「体調が悪いとかでもなくて」

「…何、言ってるの。そんな顔色しといて誤魔化せるとでも」

「生理、なんです、ただの」

「せいり」

 あけすけな私の言葉をそのまま繰り返した蘭さんは、一拍置いてハッとした表情をして、最終的にはすまなそうな顔になった。長くて少し太めで、どちらかと言えば凛々しい印象の眉を、思いっきりハの字にするから情けなさが際立つ。

「ごめん…女の子に恥ずかしいこと言わせちゃって」

 んな大袈裟な。微笑みの残滓のようなものが唇を歪ませるが、それもきっとものすごく嘘っぽいんだろうなと思う。

 そんな私を見て何を思ったか、蘭さんは真面目な顔になった。

「アキちゃん、今からうちにおいで」

「…え」

「ほんとは食事の後に誘おうと思ってたんだけどね。でもアキちゃん、食事どころじゃないでしょ。とにかく、こんなところで、そんな無防備な格好で寝てちゃダメ。うちに寝においで」

「……いや、」

「嫌?」

「あ、いえ、嫌とかじゃなくて」

 むしろ、蘭さんは嫌じゃないのか。私は今血でドロドロでおまけに頭とお腹の痛みによる冷や汗でベタベタでなんなら化粧の下は肌荒れしていて。そんな女を連れ込んだところで、彼に何の得があるのか。

 本来なら2人とも翌日仕事はないということで、“そういうこと”を前提にした食事会の約束だったはず。

 控えめに言って面倒でしかないだろう、今の私という女は。

 それでも心配してくれると言うなら、ちょっとお金を貸していただければ大変助かるのだが。通帳&カード問題を解決すれば確実に返せるし、なんなら一筆書いてもいい。ああでも、そういえばハンコもないのだった、サインで良いかしら。

「アキちゃん…」

 蘭さんは私の言い分を聞くなり、アメリカ人のようにクルリと目を回した。何故私は呆れられているのだろう。頭痛に邪魔されて多少要領を欠いた説明だったかもしれないが、それでも至極真っ当なことを言ったつもりだ。

 もしかして人目を気にして遠回しな表現をしたせいでうまく伝わらなかったのだろうか。ならばこの際ストレートに言わせていただこう、旅の恥はかき捨て(?)だ。

「申し訳ないですけど、ご覧の通りドロドロのフラフラな状態ですし家にお邪魔したところでセックスもできない女なんて「アキ!」

 蘭さんはいつになく年上らしい、有無を言わせない高圧的な態度で命令を下した。

「いいから。うちに来なさい」

「……はい」

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