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結局学生くんの家には二泊三日お世話になった。
私が出て行く際、イツキはバイトで不在で、わざわざ玄関まで見送りに来た学生くんには“宿泊代”として五千円札を押し付けた。すると彼は何を思ったか、インスタントラーメンをビニール袋いっぱいに入れて渡してくれた。…全部にマーカーで「イツキ」と書かれていたけど、いいのだろうか。まあいい、ありがたく頂いておこう。どのみち怒られるのは彼だ。
もう二度と訪れることはないだろうマンションを後にして数時間後。
私はネカフェの個室で臥せっていた。予定では5日後にくるはずの生理が来てしまったのだ。それも、年に二、三回ある程度の、かなり“重い”やつが。
ネカフェに来るまでの道中に気付き、慌ててドラッグストアでナプキンと薬を買い込んだ。そのあと、鈍い腹痛と闘いながら出版社に私の本の“見本誌”について電話を入れた。
見本誌というのは、発売前に作者に送られる、完成形の本のことである。いつもなら編集者が自宅に郵送してくれるのだが、当分は住居が定まりそうもないので直接取りに行く旨を伝えたのである。当然その理由を聞かれ、火事で自宅が焼失したと正直に言うと、いつもは冷静な編集者の安田さんにそれはもう驚かれた。
「もしかして表紙見本を送るときにファックスの宛先が急に変わったのって…」
「あー、知り合いに借りたんです」
「わざわざ?早く言ってくれれば良かったのに。先生が出版社に直接見にいらっしゃるか、それが難しいなら私が印刷していつものカフェに持って行くなりしましたよ?」
なるほど、考えてみればその手があったか。どうやら、人生に一度あるか無いかの非常事態に私も動揺していたらしい。そこまで頭が回らなかった。
そこから安田さんはいくつか心配の言葉をかけてくれたが、時間が経つほどお腹の痛みが酷くなってきて正直それどころではなかった。まるで内臓に石でも詰まってるかのような圧迫感。
調べ物をしようとパソコンを立ち上げた頃には軽い頭痛まで始まっていた。それに耐えながら、夢遊病者のような足取りでドリンクバーのあるスペースに行って、カップラーメンにお湯を注いで戻ってきたところまでは覚えている。
微かな振動を感じてハッと顔を上げると、すっかり冷めてふやけたラーメンがまず目に入った。どうやらちょっとの間意識を失っていたらしく、パソコンの画面はスリープモードになっていた。振動はどうやらスマホからで、継続的なことから電話らしいとわかる。
安田さんが何か伝え忘れたんだろうか。
私は画面をよく見もせず(…というか、コンタクトを外してしまったのでほぼ見えていなかった)反射的に通話ボタンの位置を指でタップした。
「あ、もしもしアキちゃん?」
安田さんとは全然違う男の声でいきなり本名を呼ばれ、私は思わず背筋を伸ばした。
「え、あ、はい。…あれ?蘭さん?」
「はい、蘭です。アキちゃん、何かあったの?大丈夫?」
待ち合わせ場所にいないから電話しちゃったけど、今通話して平気?と聞かれて思い出した。
そうだ、今日は仕事帰りの蘭さんと合流してご飯を食べる約束をした日だった。
慌ててマウスを動かしてパソコンの時計を見る。体感時間では5分も経ってないと思っていたのに、最後に時刻を確認した時から裕に2時間が経過していた。そして、彼との待ち合わせ時間を30分も過ぎていた。しかも、私はその約束自体、すっかり忘れていた。
「っすみません寝てました!完っ全に寝落ちしてましたごめんなさい!」
「あーそっか。声がなんか疲れた感じだったから、そうかなーとは思ったんだ。事故とか事件とかじゃなくて良かったよ」
蘭さんの心の底からホッとしたような声に、ひたすら申し訳なさが募る。
「ホントすみません、マッハで向かいますね!」
「慌てないでね、無理しなくていいから。適当にその辺の店とか入って待ってるし」
「多分、今いるとこから15分もかからないと思うんで!」
「え?今いるとこって…もしかして外にいるの?」
「あ、はい」
「アキちゃん、外で寝落ちしたの⁉︎3月になったとはいえまだまだ寒いし風邪ひくよ⁉︎」
「いやいや、外っていうのは単に、家じゃ無いって意味です!暖かい店内で座ってたらいつのまにか寝ちゃってただけなんです」
「…アキちゃん、ホントに大丈夫?疲れてるみたいだし、僕がそっちに行くよ?」
「いえいえそんな。遅刻したのはこっちなのに悪いですよ」
「実は今日、車なんだ。歩くよりずっと移動は楽だから、ね?アキちゃんはそこで待ってて?特に食べたいものとか決めてなかったし、そっちにある店で美味しそうなとこ見つけて行ってみようよ」
どこまでも優しい蘭さんに、私は寝起きなのもあって盛大に口を滑らせた。
「あーいえ、それがこの辺って食べ物系があんまり無くて。立ち飲み屋かファストフードかコンビニ以外は、キャバクラとかホストクラブとか、風俗ばっかり、みたいな……えっと、だから、やっぱり私が蘭さんのところに行く方が良いっていうか…」
言っている途中で、私はいよいよ本格的に頭が痛くなってきた。身体的なものに加え、精神的な意味でも。
「…風俗ばっかり…?」
「や、今のはアレです、言葉の綾ってヤツで」
…完全に墓穴を掘ったな、これは。
「アキちゃん…?ねえ、ホントに、今どこにいるの…?」
「あー…」
己の迂闊さを呪いながら、私は観念して居場所を告げた。
ネカフェの場所を示した地図を蘭さん宛に送信するなり、スマホを放り出す。ここからは一分一秒たりとも無駄にできない。私はなけなしの気力を振り絞って行動を開始した。
経血の量がまだマシなうちにシャワーを済ませておきたかった。寝汗とかでベタベタの状態で蘭さんの前に出られるわけもない。
シャワー室に飛び込み、シャンプーとリンスを同時につけて髪をザッと洗う。メイクが落ちないよう、顔にはハンカチを当てるのを忘れない。それからボディーソープを身体にスパイスのように振りかけて猛スピードでこすり回した。それはもう、芋を洗うが如く。
例のコンビニTシャツの上に古着屋のワゴンで1000円で売っていたテラテラのキャミソールワンピを身につけ、髪を乾かし始める頃には15分が経過していた。
ネカフェ周辺は道が狭くて複雑とはいえ、もうそろそろ蘭さんが到着してもおかしくはない。
メイク直しはリップの塗り直し&コンシーラーでクマを隠す程度で諦めて、半乾きの髪を手櫛で整える。うん、濡れ髪風のアレンジに見えなくもない、と無理矢理自分を納得させて、最後にシルバーのペンダントをつけた。
かろうじて人前に出れる格好になったものの、眼鏡姿でハンドタオルを首にかけると結局ネカフェ難民丸出しだった。気分は洗い立ての芋である。
そんな残念な格好でヒョイと受付を覗くと、案の定。一際背が高く、一際目を引くシルエットが見えた。
学生時代から入り浸ってきた安さ第一のネカフェが、蘭さんがそこに立つだけで異国のバーと化していた。
日本人離れした体格に加え、日本人離れした肌色、黄金比で配置された目鼻立ち。
芸能人ばりの存在感で今日も周囲を圧倒している。彼のオーラで空気中を漂う澱んだ何かが浄化されているような気さえする。
洗い立ての芋は反省した。
20分前の私はよくもまあ、寝起き+着の身着のままで待ち合わせに直行しようとしたな。
それでよく彼の前に立てると思ったな、と。
いや、結局シャワーを浴びて身繕いをするだけの猶予は与えられたわけだけど。むしろこんな俗に塗れた治安の良く無い場所に、彼を来させてしまったことを反省した方がいいのか。
彼が今、店内の視線を集めているのはその美しい容姿のせいだけでは無いだろう。
ここは、一目で仕立ての良さがわかる高級スーツに身を包んだ、いかにも育ちの良さそうな天然坊ちゃんの来るところではない。本人もアウェイ感を感じているのか、居心地が悪そうだ。
店員に何か話しかけるも、すげなく断られている。「だからお客さんの個人情報は…」「個室スペースに行けるのは会員だけですって」「個人的な呼び出しには応じられないんスよ」云々。
…というか、何か揉めてないか?
「蘭さん」と声をかけると、彼の前に立っていた店員のにーちゃんがあからさまにホッとした顔をした。
「なんだ、ホントに知り合いだったんスね」
「すみません、私がもうちょっと早く迎えに出て来れば良かっ」たんですけど。
言い終わる前に、すごい勢いで腕を掴まれた。




