2-1
テレビ画面の向こうの災厄が、まさか我が身に降りかかるとは。
ブスブスと音を立てて煙をあげる我が家の残骸を見上げ、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
今朝は10時に起きてコーヒーを飲み、普段は食べない朝食をとって、私は出版社に出向いた。自分の本のレイアウトのことで、担当者さんとカンヅメ状態で、帰るめどがついたのがつい一時間前。普通の会社の退社時間をとうに過ぎていた。
疲労困憊ながらもそれを「心地よい疲れ」だなんて、普段ならマゾの言葉だと馬鹿にしていたフレーズを思い浮かべるくらいには、満足にいく仕事をした自負があった。珍しくタクシーなんか拾って、鼻歌まじりに今夜は買いだめておいたチューハイを開けてやろうなんて考えていた。
住んでいるアパートまであと1分足らずというところで、それまで一言も喋らなかったタクシーの運ちゃんが「なんだあアリャ?」と声をあげた。一通の道が2台のワゴン車で塞がれており、野次馬が集まっていたのだ。
何か揉め事でもあったのだろうか、巻き込まれたくないけどとりあえずここまでくればあとは歩くしかないな、状況によっては回り道で帰るか…と、その時はまだ他人事だった。
しかし、タクシーを降りたときに、今まで嗅いだことないレベルの焦げ臭い匂いが鼻をついた。続いて「火事だ」という単語が聞こえた時点で嫌な予感がした。野次馬の頭の向こうで夜の住宅街をチカチカさせている赤い光の先に、冒頭の光景が広がっていた。それをどこか夢の出来事のように捉えている自分がいる一方で、たまたま今日という日に入った仕事の為にパソコンを持ち出していて良かった、だなんて冷静に考えているもう1人の自分もいた。
それから、「関係のない人は下がって!」と当事者の私を無理やり下がらせようとする警察官に、第三の私がイラッとしたところで救世主が現れた。
「アキラ!」
「エンマさん」
警察関係者や消防隊らしき人たちをかき分けて走り寄ってきたのは、私のお隣さんだ。否、お隣さんだったというべきか。もう部屋ないし。
この私よりもさらに小柄で褐色の肌を持つ南米系の彼女は、綺麗な顔をしているが確かもう60近いはずだ。そんな彼女は私の肩を掴んでいる警察官をベリっと引き剥がし、力一杯抱きついてきた。大粒の涙をこぼしながら母国語らしき言葉で何が叫んでいるが、多分、無事でよかったとか、そんなところだろう。
「アキラさん…っていうと、つまり、あなたがが新山晶さん、でいらっしゃいますか?」
と、警察官。
「はい。あの、それで、私ここの住人なんですけど」
「ああ、はい、わかってます。失礼しました」
聞けば、アパートの住人で私だけが安否がわからない状態だったのだという。
確かに普段であれば、仕事があろうとそうでなかろうと、部屋にいてグダグダしている時間である。エンマさんが私が逃げ遅れて死んだと思ってしまったのも無理はない話だった。
警察官の説明によると、出火元は下の階の住人で30代の男性。私も何度か見かけたことがあるが、今にも死にそうなくらい疲れた顔をしたサラリーマン風の人だった。そうだ、そんなにも不健康そうな癖して、彼は相当なヘビースモーカーだったはず。すれ違うときは常にスーツからタバコの匂いがしたし、彼の部屋の窓から私のベランダによくタバコの煙が漂ってきたものだ。
「それが、タバコが原因ではなさそうなんです」
そう話す警察官も30代くらいだなと私は考えていた。
「実は、焼身自殺の疑いがありまして」
「は」
ショーシンジサツ。
その言葉が私の脳内で漢字変換されるより前に、いきなりあたりがパッと明るくなる。警察の黄色いテープの向こうで、マスコミのリポートが始まったらしい。一通の道を塞いでいたワゴン車はおそらく彼らのモノだ。
その後、反応もおざなりな私に警察官は名刺を握らせると、夜も遅いということで早々に解放した。私はそこでようやく今夜寝る場所のことに思い至った。解放、というよりは放逐された気分だった。幸い、エンマさんが私を待っていてくれて、彼女の友達の家にお世話になることになった。エンマさんに手を引かれ、上の空のまま彼女の友人宅にお邪魔し、上の空のままよその家の匂いが染み付いた布団で眠りについた。翌朝になっても私は上の空のままで、朝食のトーストをチビチビかじっていたら、テレビでまさに昨夜のリポート映像と思われるニュースが流れていた。チラッとではあるが、私とエンマさんらしきシルエットも映り込んでいる。この家の子供が「エンマ!エンマ!」と盛り上がっているのを尻目に、私はリポーターの女が化粧バッチリでいかにも深刻そうに、それでいてドラマチックに言葉を尽くして事件を語るのにイラッとした。スタジオの人間も、彼らにとっては所詮他人事なのに、いかにも渦中の人間であるかのような顔をしてコメントしたかと思うと、次の瞬間にはお尻を丸出しにしてひっくり返るパンダの映像に朗らかな笑い声をあげる。世間で起こる悲劇も喜劇も、わかりやすくまとめて一瞬の情報として流すのがアンタらの仕事ですもんねハイハイ、とここまで考えたところで私は気づいた。そうだ、仕事。
明日か、明後日には私の本の装丁の見本が、ファックスでいくつか送られてくるはず。
突然立ち上がった私を、この家の家主でシングルマザーのモナさんがオロオロと見上げているが、私はそれに構う余裕がなかった。というか、日本語ペラペラなエンマさんと違って、彼女にはほとんど言葉が通じないので、会話がそもそも成立しない。無いだろうとは思っていたが、念のためエンマさんに通訳してもらって確かめたところ、やはりこの家にはファックスは無かった。パソコンも無ければ、WiFiも無い。
というわけで、私は片っ端から知り合いにメッセージを送り、ファックスとWiFiのある仮宿を早急に確保しなければならなかった。
これまでの人生、刹那的な人付き合いしかしてこなかった私の悲しい性で、こんなときに頼りになる友人にアテはなく、借宿探しは難航した。
普通の就職をしなかった私に“同僚”はいないし、学生時代に付き合いのあった人間は、連絡先は残っていても今どこで何をしているかなんて見当もつかない。
となれば当然、出会い系での過去の交流から探るしか無いわけで。
「アンタは過去を振り返らないタイプだと思ってたよ」
「何ソレ」
「んー、なんというか、その場限りの付き合いばっかで、会う機会が無くなればわざわざ自分から連絡とって関係を続けようとはしない、みたいな?」
ほら、来るもの拒まず去るもの追わず、ってヤツ。
そんなことを言うのは、今宵の借宿先を提供してくれたイツキという年下の女だ。
そう、れっきとした女である。
本名はイチカというらしいが、イツキという名前で男性を騙って私に接触してきたツワモノで、いかに人生を自由に生きるかに全てを注いでいる(本人談)人間だ。恋愛対象の性も自由ならば、自分の性もその時の気分で自由に選ぶ。選んだ性別に合わせて喋り方や仕草を変えるのはもちろん、服装も髪型もコロコロ変わるし、職も相変わらずアルバイトを転々としているらしい。以前と唯一違うのは、住処が一所に落ち着いた、という点だった。
「それにしてもイツキが同棲してるとはね」
「同棲っていうか、寄生に近いかも」
だって、家賃とか光熱費とか、生活費その他諸々、向こうの親が出してるし。なんて、こともなげに言うイツキ。
私は深く突っ込まずに、自分の興味のある部分だけを聞くことにした。
「相手は男?女?」
「男。ぶっちゃけ、大学の後輩なんだよね。向こうは私のこと知らなかったみたいだけど」
「え、待って、イツキの後輩ってことは現役で学生?私がお邪魔して大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。どうせ、用事さえ済んだらさっさと出て行くんでしょ?」
イツキは大学では心理学専攻だったとかで、人の性格を分析するのは上手いくせに、空気は読まないという不思議な性格をしている。人のことを言えた義理ではないが、私以上にテキトーな性格をしているので若干不安な人選ではあるが、背に腹はかえられない。
で、エリカは今いい人いるの?
とすっかり女子の顔で聞いてくるイツキを適当に流しながら、私は仕事のことで頭がいっぱいだった。




