1-4
ひろいひろいと言い続ける男の、油+唾液で無駄に艶めかしい口元をおしぼりで拭ってやると、今度は嬉しそうに目を細める。背後にパタパタ揺れる尻尾でも見えそうな、無邪気な笑顔。
さっきまで獲物を追い詰める肉食獣のようだったのに、今はまるで構われて喜ぶ子犬だった。
なんだか化かされたような気分のまま、ベトついた手をおしぼりで拭っている私に、男は自分の名刺を差し出した。
「早見…蘭、さん?」
「そう。ほら、有名な少年探偵のアニメ、あるでしょ?ヒロインの名前とおんなじだから、昔からめちゃくちゃ揶揄われるんだよ」
「…この会社…しかも、代表取締役って…」
「ああ、幼馴染と2人で共同で立ち上げた会社だからね。あっちは社長も兼ねてるから毎日会社にいるけど、僕はめったに出勤しないから、顔を知らない社員に勝手に女だと思われてたこともあったな」
名刺には私でも聞き覚えのあるベンチャー企業の名前が印字されていた。海外のようなおしゃれなオフィス&自由な社風を伺わせるCMとその躍進ぶりが話題になっていたはずだ。そんな会社の取締役という事実を、なんてことないようにサラッと話す早見さん。
いったいどの口で“頭が悪い”だなんて言えたもんだか。
「本当は人前で名乗るのもヤなんだけど、ビジネスの場でそんなわけにもいかないし」
…それにしても名前に対する嫌悪感がすごい。でも、その気持ちは私もうっすらわからないでもないな、と思った時には衝動のまま口にしていた。
「私はちなみに、晶っていうんですよ」
「…うん?え、何が?」
「私の名前。新山晶です」
「アキラ…?」
「はい」
「え、それって、ユキちゃんの本名が、ってこと…?」
「はい。私がアキラだったんですよ、実は」
名刺とか持ってないですけど、と私が言い切らないうちに、えーッマジで⁉︎と派手に驚く早見さん。
「ユキちゃんっていうのは、じゃあ、偽名だったんだ⁉︎」
「偽名、ていうかまあ、うん、そうですね」
「本名じゃない名前なのに、自然に反応できるなんてすごいよ。ユキちゃん、じゃなかった、えーと、アキちゃん?ぜったい女優の才能あるよ」
「んな大袈裟な」
私は仕事の特性上、ペンネームを使いわけている。だから正確には名刺そのものを持っていないのではなく、本名の名刺を持っていないわけだけど、そもそも名刺を含め、身分を示すものを持ち歩く習慣が私には無い。
用心深い…というのとは、少し違うと思う。私は、自分の“内側”を見られるのが嫌いだ。自分で見せると決めた分を小出しにするくらいなら良い。でも相手からプライベートなことを聞かれたときはたいてい嘘で乗り切るし、スマホや手帳はもちろん、ちょっとした走り書きですら勝手に覗かれるのは昔から許せなかった。
名前に関しては、学生時代からその場の気分でテキトーな名前を名乗っていたくらいで、後でバレても「昔友達につけられた根拠不明のあだ名」などということにしていたので本名で呼ばれることの方がここ数年は少なかった。多分病院くらいだ。
かといって名前に嫌悪感がある、というのも少し違う気がする。「男の子みたいな名前だ」とそれなりに揶揄われた経験もあるが、それで本名を名乗りたくなくなったわけじゃない。
自分の名前というものを認識して20年以上たった今でも、“晶”というのが私の名前の気がしない。
それは、私にとって何の意味もなさない文字にすぎない。ただそれだけだ。
ちなみに今回、私がこの男と出会ったアプリで“ユキ”という名前にしていたのは、会員登録したその日、雪が降っていたから。意味うっす、と我ながら呆れる。でも、私にとってはそれだけで充分それを名乗る理由になるのだ。
…うん、改めて考えてみると早見さんのケースとは全然違う。なのに何故、私は本名を名乗ったりしたのか。
多分「魔がさす」ってこういうことを言うんだろう。それか、あまりにも素直に無防備に己の“内側”を晒してくる男に、私の中のなけなしの誠意というヤツが疼いたのかもしれない。
そもそも私の行動原理なんてだいたい衝動or直感(この2つの違いはよくわからない)でしかないのだ。今回はそれがたまたま珍しい方向に作用したにすぎないのだろう。
「…早見さん、ちょっと考えたんですけど」
「うん?」
「これ、ローマ字にするわけにはいかないんですか?」
「名刺の名前を、ローマ字表記にするってこと?」
「はい。会社名は漢字のままでも、個人の名前の部分はローマ字の名刺を前に見かけたことがあって。ほら、今ってグローバルな時代ですし。英語で“走る”って言う言葉が、RUNじゃないですか。そう考えると響きが似ててかっこいいし、RANにすれば、なんか一気に花のイメージが無くなりません?」
「……」
ぱやっと口を開く29歳取締役。
「や、まあ私の個人的な意見にすぎませんけど」
「ユ…アキちゃん」
「あ、別に呼びやすい方でいいですよ」
「天才。大天才だよ!それ、採用!」
「あ、はい。別に天才というほどでは」
「ちょっと会社に電話してくる!」
「あ、はい。どうぞ」
え、今から?と私が首を傾げたときには、早見さんはスマホをタップしながら店の出口に向かっていた。
善は急げを地でいくタイプらしい、こういうところが若年にして取締役たり得るのだろうか。
と思ったら勢いよく戻ってきて、これまた勢いよく顔を寄せるとむちゅっと私の頬にキスをした。
映画俳優のような、優雅で自然な仕草だった。
「……⁉︎」
「ありがと、アキちゃん。これからは僕のこと蘭って呼んでね!」
「ア、ハイ。ワカリマシタ」
いつか動画で見た宇宙ネコのごとく固まる私を置いてきぼりにして、再び出口に向かった蘭さんは、
ズガン‼︎
…と。
思いっきりドアのところで額をぶつけた。
店中に響き渡る轟音だった。
私が我に返ったのはもちろん、蘭さんが私にエロティックな脅迫をしていた時すら、置物の如く何の反応も示さなかったおじいさんがビクッとなったレベル。
「ええ……?大丈夫?」
という私の声に答えるものはいない。おじいさんは再び置物に戻ってしまったし、蘭さん本人はそのまま何ごともなかったかのように颯爽と店の外に出ていってしまった。今は興奮気味に電話に向かって捲し立てている。
ああ、“外”モードに切り替えることすら忘れて、あんな嬉しそうな顔をして。
しかし幸い、額から血を滴らせながら満面の笑みで電話する男に、ナンパをする強者はいなさそうである。…いや、ちっとも幸いじゃないな、流血沙汰だ。ヘタすれば通報されかねない。
「これを。いくらでも汚していいんで」
立ち上がった私に、おねーさんが保冷剤と新しいおしぼり(本日3回目)を差し出した。
絶妙な心遣いである。ピラフも美味しいし、これからも通おう。
「蘭さん!」
「アキちゃん」
飛び出してきた私に、額からタラタラ血を流しながら笑顔で振り返る男。
…まあ、うん。
とりあえず、彼は面白い。




