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とにかく、一度身体を離しがてら顔を拭ってやろうと手を添えたところで、彼の体温が異様に低いことに気づく。先程顔を両手で挟んでいたときもその手を掴まれた時も、なんだか全く知らない他人に触れているような違和感があったが、ようやくその正体がわかった。低体温症とでもいうのか、これじゃ本当に爬虫類だ。いや爬虫類の体温なんて知らないが、つまり、彼の体は今、人間の限界を超えて冷え切っているということだ。まずいこのままじゃ2人とも腹を壊す。
と、まあそういうわけで、泣きじゃくる男を半ば引き摺るようにして慌しくお暇しようとしたところで、
「リツさん」
それが、私が私自身につけた名前だと、早くも忘れかけていた。1、2秒ほど間を置いて私は振り返る。「……何でしょう?」
「本当にいいんですか」
「……何が?」
「ずっと一緒にいるんですか。いられるんですか、その人と」
「……どういう意味?」
「貴方に結構デカい隠し事してますよ、その人。まあ、さっき気づいただろうとは思いますけど」
ぐう、と頭上で低く呻く声。
「そのくせ、自分は彼女に対して束縛激しいし。もしリツさんがこの先、その人の秘密を知って心変わりしようと、捕まったら二度と離してもらえませんよ」
「……だから?」
「だから、俺にしときません?」
ぐるるる。呻き声が唸り声に変わる。
「俺なら話せますよ、その秘密」
肩に回された腕に力がこもる。
「……蘭さんの秘密を教えてくれるって?あのさ、ヒトが隠したがっていることをバラす代わりに付き合えっていうのは、」
「俺の秘密でもありますから」
「……。つまり、その秘密とやらは、蘭さんとシュンさんで共有してるモノなわけだ?」
「共有というよりは、共通かな」
「共通…」
「そ。リツさんは知りたくない?俺たちの秘密」
「……」
「俺は話せますよ」
「……」
「リツさんの知りたいことは何でも話します」
「……」
いつになく熱の籠もったシュンさんの視線を受けて私はというと、実のところ気もそぞろだった。そんなことより、肩に回された白い腕が、上腕を掴んでいる長い指が、さっきから肉に食い込んで痛かった。頭上でぐるぐると唸り続ける不穏な声を聞きながら、しかし、私はただ安堵していた。ああ良かった。どうやら少し元気になったらしい、と。
その事実の方が、向かい合う男からの好意より己の身体にかかる鈍い痛みより、今の私には重要だった。
わずかに体温を取り戻した指先に手を添えて、私はキッパリと言った。
「蘭さんの秘密は、蘭さんが話したいと思った時に、蘭さんの口から聞きます」
だから貴方の秘密は知らなくていい。暗に込めたそのニュアンスが正確に伝わったらしく、シュンさんは一瞬顔を引き攣らせた後、冷笑を浮かべた。
「……へえ?良いんですか?そんななし崩し的なノリでせっかくの機会をムダにして」
それでいつか足元掬われるぞ、とでも言わんばかりの、不穏な物言いだ。
「はあ…まあ、別にそれで私の身に危険が迫るとか害が及ぶようなものじゃないんでしょ?」
「どうでしょうね。何をもって“害”とするかなんて、人それぞれだし」
如何にも含みを持たせた口調と何処までも煙に巻くような言葉で、彼はせせら笑う。
正直にいえば、彼らの秘密が気にならないわけがないと言ったら嘘になる、が、本気で知りたいかと言われればそれも嘘になる気がする。わかっているのはただ、目の前の男の上から目線の物言いが鼻につくということ。そしてそう感じたのもほんの一瞬のことである。大体こんなくだらない男に、非人間的にして非凡な私の感情に波をたたせることができるなんてことがそもそもありえない。プライドだけ高くてそのくせ妙に繊細で周囲の人間を見下すだけ見下して周囲に気を遣わせることで漸く自分の人生を快適に生きてきたようなくだらない男が、早見蘭を勝手に語るなと言いたい。この私をもって容易に計り知れない早見蘭の、何を知っているにしろ、お前が「知っている」という事実が私の人生に多大な影響を与えられるなんて思い上がりだ………他にも言いたいことは色々あるが、それこそ私にとって意味のない男に私の考えていることをわざわざ伝えるなんて意味のないことだとすぐに思い直した。今はただ、この面倒臭い会話を早く終わらせて帰りたい。それだけだった。
私はフッと短くため息をついて、蘭さんを見上げる。「…どうなの?実際のところは」
「え?」
「だから、蘭さんの意思は?」
「僕の、イシ?」
「あなた方のその秘密とやらで、蘭さんは私を傷つけるつもりがあるわけ?」
「ッ⁉︎そんなわけない!アキちゃんを傷つけるなんてそんなつもりは「オーケーわかったもういい耳元で叫ぶなシャラップ」……ぁい」
これで、蘭さんのそばにいても私に害がないことはわかった。とにかく今、私の身の安全は保証されている。もちろん、それは最低限の保証であって、私自身、警戒は怠らないつもりだけれど。でも、生きていく上で誰かのそばにいることに、それ以上のことまで知る必要はないはずだ。
じゃ、まあ、そういうことなんで。お騒がせしてすみませんでした。捨て台詞じみた言葉を別れの挨拶にして、とっとと店を出た。実際、「すまない」なんて微塵も思っていないし、世間でいうところの『フッた相手』への気まずさなんてものなんてなんら感じることのない私であるが、この店に来ることは二度とないだろう。
外に出ると案の定風が冷たくて、私たちはたまたま通りがけに見つけたパン屋に入った。明日の朝食のための食パンを買い、イートインで私は和風パスタを、蘭さんはホットドック3つとミネストローネを頼んで、周囲の引いた視線を肌に感じながら残さず平らげた。
部屋に帰ると、蘭さんは靴を脱ぐのもそこそこに私を担ぎ上げ、廊下に散らばったビニール傘その他諸々を足で蹴散らしながら寝室に運んだ。引きっぱなしの布団の上に優しく下ろされたかと思うと、何故かヘッドフォンを渡される。
「なにこれ」
「えっと、僕は昨日の…キッチンとか色々片付けてくるから。悪いけど、しばらくここで待っててもらうことになるから」
これプレイリスト、とタブレットを渡され、一度部屋を出て行ったかと思うと彼はジュースやお菓子を携えて戻ってきた。私の背中に例のヒトデをクッションがわりに具合よく配置し、ゴミ箱やティッシュやらを引き寄せてひとしきり世話を焼いた後、蘭さんは「ホントにごめんね」と改めて私を抱きしめた。何かを噛み締めるような抱擁だった。
本音を言わせて貰えばまだ蘭さんを完全に許したとはわけではないが、流石にそれを口に出すことは憚られた。また「殺してくれ」なんて言い出しかねない。そうなったら、困る。
「…わかったから。早く片付けてきなよ」
「うん」
「てか、普通に1人じゃ大変そうだから私も手伝うけど?」
「それはいいよ」
「なんで。2人でやったほうが、早く片付くじゃん」
「僕のしでかしたことだから、僕が責任持って片付ける。アキちゃんは、これで音楽でも聴いて待ってて」
「…そう。まあいいけど、ヘッドホンなら自分のやつあるし」
「これ、かなりイイヤツなんだ。周りの雑音とかほとんど入らないから。掃除してる間、結構うるさくしちゃうと思うし」
アキちゃん、突然の物音とか苦手でしょ。
核心をつかれ、私は思わず絶句した。蘭さんは腫れ上がった顔で甘えるように頬擦りすると、呆然としている私を残してアッサリと部屋を出て行ってしまう。
ドアの外からドタンバタンと派手な音が聞こえてきたところで漸く、我に帰った。
「………………はっ」
詰めていた息を吐き出すような笑いが漏れる。つい昨日、まるで見当違いのサプライズをやらかした男に、私の気性を(ごく一部とはいえ)見透かされているなんて思わなかった。そんな可能性、考えてもみなかった。
癪だと思う気持ちはあるが、それでもなんだか私は可笑しくなってしまったのだ。しばらく私はくくくと一人で笑い続けた。
そして、渡されたヘッドホンを装着することなく首にかけ、蘭さんが立てる物音、たまにそこに混じる「イテッ」とか「ヤバッ」という小さな叫び声が入るのに、いつまでも耳を澄ませていた。
いつのまにか夕方になり、部屋には控えめに西日が差している。窓の外、どこかで遠雷の音がかすかに響いていた。




