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4-11

 かつて蘭さんの所属していた劇団というのは、演劇に疎い私でもその名前を耳にしたことのあるほど有名なところだった。確か、どこぞの旧家の箱入り娘が若くして立ち上げたという、新興の劇団だったはずだ。

 今までの演劇にはない、最新のテクノロジーを駆使した斬新な演出と、ストーリーの緻密さ・壮大さがたちまち話題になり、後にアカデミー賞を取るような有名俳優をも輩出している。

 そんな煌びやかな世界に、目の前のこの男が。

「…所属してたって言っても、僕は偶然が重なって巻き込まれただけなんだよ…」

 蘭さんは、劇団長になったその娘さんとは高校時代の同級生だったらしい。

「同窓会に顔を出したら、あの人に捕まってさ。それまで話したことすらなかったのに、いきなり代役を頼まれて」

「代役?」

「そう。本来、主役をやるはずだった人が事故で怪我したとかで。僕はたまたま団長の目の前に立ってて、その主役の人と背格好が似てたってだけなんだよ」

 蘭さんは俯いてホットコーヒーを啜った。私も手の中で汗をかき始めたアイスカフェオレをストローで吸う。両方とも、つい先程シュンさんが淹れてくれたものだ。彼は店の何処からか持ってきたキャスター付きの椅子にドスンと腰を下ろした。手には自分の分であろう、マグカップを手にしている。

 そして、まじまじと蘭さんの顔を見つめたかと思うと、

「……やっぱり。アンタ、()()早見蘭か」

 そう言った途端、隣に座る男はフーッと威嚇の唸り声を上げた。毛を逆立てた猫のようだ。

 と私が思ったのに対して、シュンさんは「爬虫類かよ…」と呆れている。

「……何、2人は知り合いなの?」

「いや、知り合いっていうか「ううん、全然無関係の知らない人だよ」…オイ」

 シュンさんの言葉を食い気味に否定した蘭さんはプイと子供のように顔を背けた。これじゃあ、どちらが年上かわからない。

「…OKわかった。とりあえず2人は知り合い以上の関係ってことで」

「リツさんはそれでいいのかよ…」

「別に今無理に知らなくていいです」

 そんなに興味ないんで。もう少しでそう言いかけるところだった。だって、2人がただの知り合いではないという事実が、私に害をもたらすとは到底思えない。

「…あー、シュンさんは、蘭さんが劇団に入ってたことは…?」

「知ってたよ。観に行ったから」

「へえ。どうでした?」

 蘭さんはギョッとしたようにシュンさんを振り向き、それからしおしおと背中を丸めた。

「…どうせ酷評するんだろ。所詮僕は代役の、大根ダメ役者だったよ」

「え?いや、違ェよ。アンタの場合は、演技力が無かったっていうより…」

 むしろその逆、上手すぎたのだろう。

 皆まで言わなくともわかる。

 そしてこれもまた言うまでもないことだが、蘭さんが最初にして最後の舞台で演じたのは、やはり殺人鬼の役だった。

 髪を切りながら、シュンさんが教えてくれた。

「…実際、オレはその場に居ましたけど、観客のリアクションはそれはもう凄かったですよ。子供は泣き叫ぶし、大人でもビビって半泣きの人がいるくらいで。で、劇団には感想という名の苦情が何百件と寄せられたみたいです」

「…でしょうね。ちなみに、その劇のタイトルは?」

「『綺麗な目だね』」

「……………ホラーじゃん」

 怖っ!

 私はそう言って、大げさに腕をさする仕草をする。まるで、どこにでもいる普通の人間みたいに。

「今じゃ、劇団の初期作品にして“伝説の問題作”って言われてるらしいですよ」

 まあ、一部のマニアにはウケたみたいだけど。

 と、シュンさんは肩をすくめて見せた。

 そんな外国人じみた仕草が、奇しくも蘭さんに似ている。

 当の本人はというと、つい数分前までは、私の髪をカットするシュンさんの背中をギラギラと、それはもうしつこく睨み続けていた。

 が、今はソファーにその長い体を横たえ、いつの間にか寝落ちしていた。

 腫れ上がった頬や、閉じた目の下の濃いクマ、ボロボロで血塗れのスウェット上下。諸々の要素が相まって、その姿は容姿端麗なゾンビにしか見えなかった。

「……シュンさん。やっぱり、今日カットだけにして貰えます?」

 シュンさんは鏡越しにジッと私の顔を見た。

 およそ人らしい感情の“温度”というものが込もっていない、いつもの醒めた目つきだった。

「……………はあ、わかりました」

 飛んで火に入る夏の虫。

 呟くように言われ、私も彼の真似をして肩をすくめてみせた。

 カットを始める前にコーヒーを飲んだので、最後に髪を乾かす段階になってトイレに行きたくなってしまった。

 サイコパスも生理減少には負ける。コーヒーの利尿作用には敵わないのだ。そんなことを考えながら用を済ませ、店内に戻ろうとすると低い話し声が聞こえた。

 私は咄嗟に足を止めた。

 観葉植物の影から覗くと、どうやら覚醒したらしいゾンビがソファの上で身を起こしていた。

 おまけに、寝起きのせいかはたまた憎しみのためか、その目つきはいわゆる“藪睨み”だった。

 そんな蘭さんに向かいあって立つシュンさんは、こちらからはその背中しか見えない。

 彼らが何を話しているのかは、その密やかな口調とごく小さな音量のせいでわからなかった。

 ただ、最後にたった一言、これだけは聞こえた。


「あのコには言うな」


 言ったのは蘭さんだった。

 それは今まで一度も耳にしたことのない、低く、凄みに満ちた声音だった。口が動いているのが見えたから、かろうじて彼が言ったのだとわかったくらいだった。

「……」

 どうやらあのコとは私のことで、恐らくたった今蘭さんは何かしらの事実を隠蔽することを相手に約束させ、つまり彼にはまだ秘密の引き出し(、、、、)がある、ということらしい。

 ほお。上等だ。

 そう思う気持ちはあったが、しかし、その感情は苛立ちとは別の形をしているようだった。自分でも不思議なことに。ここ最近、私は私自身を見失うことが増えた気がする。それも、彼と過ごすようになってから……あ、やっぱり若干腹立たしいかもしれない。

 わざと大きな足音を立てて私が現れると、蘭さんはヒッと顔を引き攣らせ、シュンさんもわずかに肩をビクつかせた。

「何?」と挑戦的に尋ねると、大の男が揃いも揃って「いや」「なんでも」と言葉を濁す。

「まあ、いいけど。…シュンさん、私、もう髪はこのままでいいのでお会計お願いします」

「アッハイ」

「あ。あと、コレ買います」

「アッハイ」

 お会計を済ませるついでにスタイリング剤を購入し、さて、とソファを振り向く。

 蘭さんが長い腕で私の荷物を抱え込み、ガチガチに体を硬らせてそこにいた。

 その顔は相変わらず引き攣ったまま、恐怖でいっぱいに見開かれた目が私を見上げてくる。その顔を見ていると元々大してなかった腹立たしさもたちまち霧散する。しかし、それを認めるのもなんだか癪な気がしてしまう私である。なるべく淡々と、ぶっきらぼうに「帰るよ」というと、蘭さんはますます荷物を抱く力を強くした。

「…かっ、」

「か?」

「か、帰るって、どこに…?」

 私の服が詰まった紙袋がめこめこと音を立てて圧縮される。

「どこって、家だけど」

「誰の…?」

「私たちの。家っていうかまあ部屋だけど、家でいいよね便宜上。ああでも、蘭さんが買ったんだから蘭さんの家か。まあ、家主が嫌なら私は「嫌じゃない‼︎全然嫌なんかじゃない‼︎帰るすぐ帰る僕らの家に帰るアキちゃんと一緒に帰」わかったから落ち着けって、うわ⁉︎」

 白い両腕が、獲物を捕らえる蛇のように勢いよく絡み付いてきた。

 私のお腹に顔を埋め、蘭さんはもう何度目かになる滂沱の涙をダクダク流す。おかげでブラウスのお腹まわりがもう、ビッチャビチャである。小一時間ほど前に、彼の涙で盛大に湿った膝もまだ乾き切っていなかった。今日は陽射しは暖かいのに風が妙に冷たい日だから、きっと、外気に当たったら冷たくなる。膝はともかく、繊細なお腹が冷えたら、ヘタすると便秘か下痢になるのでやめてほしい。

「…あー、ホラ、よしよし」

 ポンポンとその大きな背を叩いてみる。ずずず、と大きく鼻を啜る音がした。オイこの服気に入ってるんだから鼻水は勘弁してくれ。ヘタをすれば血糊だってうつるかもしれない。

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