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が、彼の手が私の肩に触れたその瞬間、窓の向こうで男が鬼のように目を釣り上げ、拳を大きく振りかぶる。
再び空気を震わせる轟音、そしてなんと今度は男の拳を中心にビシビシと窓に亀裂が走った。「「Wow‼︎」」と2人揃ってアメリカ人のようなリアクションをしてしまう。
シュンさんは私を振り返って「リツさん!奥の仮眠室に、ッ⁉︎」と半ば怒鳴るように言いかけて、ギョッとしたように動きを止めた。
私自身、シュンさんの目線を辿るまで無意識だったのだが、いつの間にか自分の手にハサミが握られていることに気がつく。しかもこのハサミはただのハサミではない、美容師のスキバサミであり、どうやらシュンさんの腰元から私が勝手に抜き取ったらしい。
要するに、私は立ち向かう気満々なのだった。
「危ないから隠れててくださいよ!ちょっと⁉︎」とシュンさんがいうのを無視し、私はハサミを構えたまま窓に近づいていく。
男とガラス越しに目が合う。その途端、みるみるその目が潤みを増し眦が垂れて情けなくその表情が歪んだのを見て、ハサミを下ろした。
私がガラス戸を開けて外に出た時には、男は窓に身体を預けるようにしてズルズルと崩れ落ちるところだった。
「蘭さん」と、その背中に声をかけると、彼はノロノロと顔を上げた。
頬は青あざ、乾いた鼻血の跡、唇は切れていて痛々しかった。
「…アキちゃん…」
祈るように名前を呼ばれる。
私は背中に回した手でハサミを握りしめたまま、慎重に歩みよった。
もうほとんど警戒をといてはいたが、万が一彼がこちらに襲いかかってくるようであれば、その目にハサミを突き立ててやるつもりだった。
「…蘭さん。どうやってここが「アキちゃん」
遮るようにもう一度名前を呼んだ男は、背を丸めて土下座のような姿勢を取った。そして己の頭上に掲げるようにして何かを差し出す。
タオルに包まれた、私のねじ回しだった。
「お願い…僕を殺して」
そう言って蘭さんは堤防が決壊したようにその場でわんわん泣き出した。
しばらくは会話にならなかった。
口を開けば「ごめんなさい」「殺してください」「アキちゃんの手で殺して」としか言わない蘭さんの手を引いて店内に入ると、シュンさんはまさにスマホを手に警察に通報しようとしていた。間一髪だった。
ドン引きしているシュンさんを尻目に、私は泣き喚く蘭さんをなんとか宥めようとした。
私は何で、一度はあれだけの怒りを抱いた相手に、こんなに必死になっているのだろう。自分で自分の行動が謎だった。
ともかく、そんな試行錯誤の結果。
床に座り込んだ彼がソファに座った私の膝に顔を埋め子供のように泣き続ける、という光景ができあがってからかれこれ三十分近く経つ。
流石に蘭さんも泣き喚くのをやめ、ぐずぐずと鼻を鳴らすだけになっていた。
考えてみれば。
彼がただの悪ふざけか何かであそこまでのことをするとは思えない。本人の演技力もさながら、血糊やら偽の死体やら、色々と手が混みすぎている。一晩おいて冷静になった今、彼の“動機”を知りくなっている自分に気づいた。
とりあえずは目先の疑問からぶつけてみることにする。
「あのさ、蘭さん。なんで私が美容室にいるってわかったの」
「さ、最初はただ、その辺を走って探してたんだけど、アキちゃん、昨日の朝、僕の目の前で、予約の電話してたの、思い出したから」
盛大につっかえながら、彼は涙声でなんとかそれだけ言った。が、しかし、
「でも私、店の名前や場所まで口に出して言わなかったはずだけど?」
やや語気が強めになってしまった疑問符に、蘭さんの肩が怯えたようにビクッと跳ねる。
「『走って探した』って…」と、シュンさんも突っ込むが、それに対しては蘭さんは怯えるどころか顔を上げてキッと彼を睨みつけた。
話が進まない。
「蘭さん」
「っう、アキちゃんが、予約するときに、『最近引っ越したから、歩きで行けるくらい近くなった』って言ってたから、だ、だから、徒歩圏内の美容室に行ったんだと思って、今朝、スマホで調べて、一件一件確かめた」
う、う、としゃくりあげる蘭さんの青いスニーカーは底が剥がれかかっており、その隙間から素足が見えている状態だった。靴下を履かないまま、あの後すぐに部屋を飛び出して私を追って来たのだろう。
ところで、彼はこんなボロボロの青のスニーカーなんて、持っていただろうか。いや、このスニーカー自体に見覚えはあるのだが、その記憶が正しければソレはつい先週おろしたてのものだったはずだ。
「……ねえ、まさかと思うけど蘭さん、私を探して一晩中走り回ってた、とか?」
「う…!」再び膝に顔を埋めガクガク頷く男。
思わず私はシュンさんと顔を見合わせる。するとその気配を敏感に察したらしい蘭さんがジットリと拗ねたような視線を向けてくる。
「何2人で通じ合ってるの…?」と声に出さずともその目が言っている。
私はそんな蘭さんの顔をガシッと両手で捕まえた。
泣き腫らした目を大きく見開いた彼はきゅう、と鳴いた。
「それで?一体、何であんなことしたわけ?」
彼は洗いざらい白状した。
私の詰問に半ばパニックに陥った彼の説明は、要領を得ない上にひどく途切れ途切れだったが、簡潔にまとめると。
まず、ことの発端はいわゆる“嫉妬”だった。
嫉妬の相手は、私がここ最近ハマってDVDまで購入し繰り返し観ていた、サスペンス映画のあのサイコパスな主人公である。
そして、それがただの嫉妬で終わらないのが蘭さんの蘭さんたる所以だった。
私の心を奪いやがった(←本当にこう言った)相手の言動を、そっくり模倣して再現してみせる。
彼はそう決心した。
そうすれば、私が架空の人物にばかり熱を上げるのをやめ、現実に存在する自分をずっと見てくれる。
丹念に計画を練り、練習を重ね、映画と似たシチュエーションを忠実に作り上げることで、私を喜ばせることができるかもしれない。
と、彼は本気でそう思ったらしい。
私はいよいよ呆れて天を仰いだ。
嫉妬の果てに辿り着いた、彼のぶっ飛んだ計画に対してだけではない。自分自身にも呆れていたのである。
思い返してみれば、私はあのサイコパスな主人公と蘭さんを比べるような発言をしていた。それも、一度や二度ではなく、何度も。
蘭さんの性格に対して、「もうちょっと強引な方がいい」などと、注文とも取れるようなことも言った気がする。
蘭さんはハッキリと明言しなかったが、つまり、彼がああいった行動に至った原因は、私自身の言動にもあるわけだ。良くも悪くも、私の言動を真っ直ぐ受け止める彼の性格を、私は顧みるべきだった。
…と、私が心中密かにそんなことを考えていると、彼の顔を包んでいる私の手に骨張った手が絡みつく。
「…?」
されるがままにしていたら、私の両手はそのまま厳かに彼の首に導かれた。
見上げてくる彼の目は昏い懇願に満ちている。
深いため息が出た。
「………やだよ。私は人殺しなんてしない」
この世の終わりのような顔をされた。はらはらと涙を零す彼に、私は再び天を仰いだ。
だから、私は、泣いてる人間が、苦手なんだってば。もはやその存在を信じてもいない“神”とやらに、文句を言いたい気分だった。
一体、私にどうしろと。
途方に暮れた挙句、私はわざと場違いな軽い口調で、天気の話でもするように問いかけた。
「それにしても蘭さんさぁ、よくもまあ、この短期間であそこまで仕上げたよね」
「…う?」
「小道具も凄かったけど、蘭さんの演技。蘭さん、俳優の才能あるんじゃない?」
蘭さんは、基本的に嘘をつけない。ついたところで、すぐバレる。今回の事だって、本人の言う料理以外の何かしていること、それ事態は隠せていなかった。
嘘をつくことと、演技をすることは、また別物なんだなあ、と私はもはや感心していた。
しかし蘭さんは、「そんなわけないよ…」とどこまでも謙虚だった。
「だって、“お前はもう二度と演技すんな”ってみんなに言われたもん…」
「…は?みんなって?」
「昔入ってた劇団の仲間」
「劇団⁉︎」
「……昔の話だよ。結局、一年も所属してなかったし」




