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「いらっしゃ、あれ?
リツさん?今日は早めですね、珍しく」
「どーもシュンさん、お久しぶりです」
ガラス戸を開くと床をモップがけしていた若い男は顔を上げて微笑んだ。微笑んだ、と言ってもほんの一瞬唇の端を釣り上げただけの、どこか皮肉な笑み。
ウェーブのかかったグレーアッシュの髪の隙間から見える目は、一瞬だけこちらに目を合わせるとすぐに伏せられた。
相変わらず愛想笑いのヘタな男だ。
しかも、早速無遠慮に距離を詰めてきたかと思うと、おもむろに私の髪に触れて、
「結構伸びてるな…今日はどうしますか」
取ってつけたかのような質問に、私もお決まりのセリフを返す。
「いつもと同じで、バッサリいっちゃってください」
「OK。ちなみに今日時間に余裕あるんですけど、カラーリングしません?」
「…せっかくだからしてもらおうかな。気分転換に」
「わかりました。じゃ、サンプル持ってくるんでちょっと待っててくださいね」
店内にはコーヒーの芳醇な香りが満ちているがしかし、この店はカフェではない。
ここは美容室で彼は美容師であり、そして、私にとって半年に一回くらいのサイクルでここを訪れセミロングになった髪をショートボブにしてもらうというのが習慣なのだった。
この習慣が私の中で根付いてからかれこれ4年は経つ。つまり、ここ4年間、私の髪はずっとシュンさんが切り続けていることになる。
最初会ったときの彼はいかにも若い娘にウケそうな内装の大きな美容室の若手従業員だった。
いかにもソツがなさそうなその外見とは裏腹に“接客”がヘタだと言われて彼はしょっちゅう先輩に叱られ、苦労していた。
「オレはホストみたいなことは出来ないし、これからもするつもりはないです」と、シュンさんは私にこっそり漏らしたものだ。
それが今ではこうして独立し、小さいとはいえ自分の店を持っている彼だ。独立することが決まったときには、まだ新しい店の改装も済ませていない段階から手作りの紹介カードを渡され、しっかり営業をかけられた。
「独立おめでとうございます。頻度は低いと思いますけど、行かせていただきますね」
「…リツさんはオレにホストであることを求めないから、リツさんが来てくれたら嬉しいです」
そんなやり取りをしたのを覚えている。
「すみませんシュンさん、今日荷物多いんですけど、ソファーに置いちゃっても大丈夫ですか?」
「ああ、いいですよ。平日だから、午前中の予約はリツさんだけですし、飛び込みでは来ないでしょうし」
「そういえば、まだお店のウェブサイト作ってないんですか?」
「作りましたよ。でも、サイト上でも予約の受付は電話のみで、当日受付は無理、って断ってあるんで」
これだけで、今時の若い子にとっては結構ハードル高くなるから。と、シュンさんはまた冷笑を浮かべた。
そんなことを言う彼だってまだ20代で、何なら私より一つ年下だったはずだ。
ちなみに、年下だからといっていかにも距離感の近い「くん」付けでは呼ばれたくなさそうなタイプと見たので、話すときは基本敬語&「さん」付けで呼ぶことにした、という経緯があったりする。
私はマガジンラックからテキトーに雑誌を一冊手に取り、鏡台の前の椅子に座った。
シュンさんは私の身体にクロスをかけようとして、ふと手を止めた。
「リツさん、その手…」
「え?あー、その、ちょっと怪我しちゃって」
今、私の手は指のあちこちに絆創膏が貼られ、手の甲から指の付け根にかけてはぐるぐると包帯が巻かれている。成人男性の頬を思いっきりぐーで殴った結果、指の関節部分が少々擦りむけてしまったのだ。包帯はあくまで絆創膏が剥がれないように巻いてもらっただけなのだが、こうして見るとかなりの大怪我をしていると思われても無理はない。
「………なんか、」
「なんか?」
「なんか、ヒトでも殴ったみたいな怪我、に見えるんですけど…」
「ヒトを殴った怪我ですから」
「………男?」
「まあ、はい」
「………大丈夫、なんですか?もし揉めてるんだったらオレが、」
「大丈夫ですよ。もう関係ないですから」
だから、思い出したくもない。
と心の中でそう付け加えた私を、シュンさんはじっと見つめ、
「……………そうですか」
ソファーに置かれた私の大荷物を眺め、それからまた私の顔を見て、逡巡するような仕草をしてからもう一度「そうですか」、と低く呟いた。
考えてみればシュンさんは、確かキックボクシングをしていたはずで(新人時代の彼はそのことでも商売道具の手を大事にしていないと怒られていた)、人を殴った怪我は見抜かれて当然だった。クロスをかけてくれる彼の白くて長い繊細そうな指は、よく見れば指の関節がぼこぼこと歪な形をしている。いわゆる“パンチダコ”というヤツだろう。
ところで、「もし揉めてるんだったらオレが、」に続く言葉は何だったのだろう。まさか私の為に身体を張ってくれる、とか?あの大男相手に、拳で立ち向かってくれるとでも言うつもりだったのだろうか。
彼からそれなりに好意を向けられてきた自覚はあるが、私自身が拳で立ち向かう女だとわかった以上、引かれたかもしれない。いや、おそらく確実に引かれた。
と、思ったのだが。
「で、リツさん、行くアテはあるんですか?」
「え?」
「ブン殴ったソイツの元から逃げてきたんですよね、リツさんは」
「逃げ…ん、まあそうです」
「よかったら、しばらくウチに居ます?」
「……いいんですか?」
心の中で密かに彼をアテにしていたのは確かだが、私のバイオレンスな性格の片鱗を見てなお、そう言ってもらえるとは思わなかった。
「いいですよ。リツさんなら」
しかし、彼は至極あっさりとそう言った。聞けば、この美容室の上階がそのまま彼の今の住居になっているらしい。
「結構スペース余ってるんで、今日この後すぐ上がって貰ってもいいですよ。オレ、予備の布団持ってるから、ベッドはリツさんが使っ……あー、でもその場合、身の安全は保証できないから、リツさんが嫌なら部屋には荷物だけ置いて、夜は店の仮眠室の方で寝てくれても良いし。……オレは、できればずっと部屋に居てくれたら、すげえ嬉しいけど」
「……」
こんなに饒舌な彼を見るのも彼のタメ口を聞くのも彼が好意をあからさまにするのも初めてで、思わず無言になってしまう。そんな私を切長の目で覗き込んでフッと笑ったシュンさん。
「リツさんがしたいようにすれば良いよ。無理強いなんてしないから、ゆっくり考えて。……で、髪色どうします?」
「アッハイ。…えっと、」
いつもより近い距離で身を寄せ合い、私がシュンさんに半ば肩を抱かれるような形でサンプルを覗き込んだときだった。
ガアン‼︎‼︎
鋭い轟音が店中に響き渡る。
一瞬、店全体が揺れたと錯覚したほどだった。
反射的に音源と思しき方角を振り返る。
出入り口のガラス戸の横、通りを大きく見た渡せるようなショーウィンドウに、早見蘭が貼り付いていた。
彼は昨夜見たそのままの格好…つまり、返り血モドキの赤黒い飛沫を浴びた服を身にまとったままだった。しかも、長い時間外気に晒されていたらしく全体的に薄汚れ、さらに凄惨な様相を成している。
おまけにその表情といったら、今にも歯軋りの音が聞こえてきそうな憎悪に歪み、こちらを睨みつける目はあまりの激情の為か潤んで鋭い光をたたえ、まるで本物の殺人鬼だった。
「…は?何、何何何マジで何だよアイツ嘘だろ通魔かなんか?」
震える声でシュンさんがそう言ったのも無理はない。
窓の向こうなのどかな日差しの下に、ホラー映画から抜け出してきたような男を目の当たりにすれば、普通の人間なら誰だってこうなる。
しかし、それでもシュンさんは壁に立てかけてあったモップを手に取り構えた。どうやら立ち向かうつもりらしい。大した気概だ。
しかも私を庇おうとしたのだろう、シュンさんは後ろ手で私の肩を掴んで下がらせようとした。




