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4-8

 

 ……。


「アキちゃん…?」

 3秒経った。

 衝撃はこない。

「ねえ、アキちゃんってば」

 7秒経った。

 衝撃は、こない。

 目を刃物で抉り出される、

 なんて、

 きっと、

 すごく、

 すごくすごくすごく痛いはずなのに。


「もしかしてアキちゃん…泣いてるの?」


 まさか。

 私が泣くわけない。と思って、いつの間にか閉じていた目を開けると何故か視界が滲んでいる。殺人鬼の顔も滲んでいる。

「あ、ああ、どうしようごめんね大丈夫?痛かった?」

 妙に慌てている様子の殺人鬼が、ナイフを放り出す。カラン、という金属が床にぶつかる音が、妙に軽かった。

「痛くしないようにするつもりだったんだけど、最後結構力込めちゃったねごめんね?」

 骨張った大きな手が顎を撫でる、のを、

「いやっ!」思いっきり叩いて振り払う。

 瞬きすると頬を液体が伝う感触、と同時に視界がクリアになる。

 目の前で、殺人鬼がぎょっとしたような顔をしていた。反射的に身を引くと、何故かホールドアップのポーズで相手も身を引く。

「……」

 彼から目を離さないまま、頰を伝う液体を拭ってみるが、色はよくわからない。少なくとも赤くはないし透明に見える、つまりこれは血ではない。

 というか、そもそも痛みというものがまるで無いし、今、両目で、しっかりと、世界が見えている。

「あの、アキちゃん…?」

 未だにホールドアップの姿勢のまま、殺人鬼が話しかけてくる。「えっと、これで、お芝居は終わり…なん、だけど」


 …。

「は?」


「あ、あの、ごめんねちょっとやり過ぎたっていうかアキちゃんがそんなに怯えると思わなかったっていうか」「は?」「ごめんねホントでもアキちゃんが余裕そうに笑ってたからちょっと僕もムキになってたっていうか辞めどきかわからなくなったっていうか」「は?」

 ちょっと、

 待て今この男は何て言ったオシバイって言ったかオシバイってあの“お芝居”って言った?これが?ただの?お芝居?

「……何で?」

「え?」

「なんなの?」

「えっと…?」

「何で急に、お芝居って、どういうこと?」

「あの、だって、今日ハロウィンだから」

「……?ハロウィンだったら、何なの…?」

「えっと、だから、サプライズ、的なつもりだったんだけど、ごめん…」

「は?」

「ごめんなさい」

 サプライズ。

 これが、ハロウィンのサプライズだと。この男は、そう言うのか。

 つまりこの男は、早見蘭は、

 ハロウィンのサプライズとやらのおふざけで、この私を。私が、どれだけ、


 どれだけ、


「アキちゃん?」「…んな」「え?」

 ふざけんな。

 多分、私はそう言った。と、思う。


 気が付けば、早見蘭を見下ろしていた。

 彼の顔は怯え切っている。

 何が起こったのか、よくわからない。さっきあれだけ暴れてもびくともしなかった巨大を見下ろし、私は息を切らしていた。

 手に熱を感じて、見れば指の関節の部分が擦りむけて血が滲んでいた。

 おまけに、大声で叫び続けた後のように喉が痛かった。

「あ、アキちゃん…」

 震える声で呼ばれる。

 早見蘭が、怯えた顔で私を見上げている。

 彼の顔は唇が切れて血が滲んでいて、おまけに私と目が合ったまさにその瞬間、鼻血が流れ出した。

 ああ、なるほど。

 私が殴ったのか。記憶は飛んでいるが、きっとそうだろう。当然だ。

 その光景から、顔を背ける。

「アキちゃん、待って」

 歩いて部屋に戻る。私の仕事部屋に。

 カーテンが剥がされ、放り出されたままの部屋で、まず、パソコンを手に取る。

「アキちゃん」

 専用のケースに入れて、リュックに詰める。

「ホントにごめん、話聞いて」

 モバイルバッテリーその他諸々をまとめたポーチを入れてるとリュックの口を閉じそのまま背負った。

「アキちゃん?…どこか、行くの?」

 クローゼットを開けようとして、早見蘭に立ち塞がられる。

「ねえ、待ってよアキちゃん!」「邪魔」

 押しのけて下着や服を取り出し、紙袋に詰める。

「…や、やだ、やだやだアキちゃん行かないでお願い」「邪魔!」「やだ!」「触んな!」

「ごめんなさい!ごめんなさ、」

 横っ面を張り飛ばすと男はよろめいた。その隙に洗面所に向かおうとして、ふと、廊下にソレが落ちているのを発見する。

 先程男の顔面に投げつけた本だった。

 本屋で探して、わざわざプレゼント包装にしてもらったことが随分と前のことのように思える。そのせっかくの包装も無惨に破れて、本のタイトルが露になっていた。

『誰でも簡単に作れるサラダのレシピ』。

 動きの止まった私の手元を男が覗き込む。

「え、それって、」

「チッ」

 舌打ちして一度部屋に引き返し、丸めてゴミ箱に捨てると、今度こそ洗面所に向かった。

 化粧ポーチやらアメニティやらを次々に紙袋に放り込む。

「アキちゃん!あの本ってもしかして」「黙れ」「ごめんなさい!あの、僕、ホントに」

「だから邪魔どいて」

 紙袋を下げ、玄関に向かう私の腕に男が縋り付く。クソ、なんだってこの家にはこんなにビニール傘があるんだ。

「いやだお願いアキちゃんホントにごめんなさいお願いだから行かないで」

「うるさい」

「行かないでくださいお願いします」

「触るなって言ってるよねさっきから」

「ごめんもう触らないから行かないで」

 言ったそばから肩を掴んでくる男の鳩尾に腹パンを食らわせる。

 邪魔なヒトデを足で蹴り飛ばして靴を履こうとすると、彼はいよいよ本格的に泣き出した。

「ごめんなさいアキちゃん僕何でもするから許してううん許さなくてもいいからお願い行かないで何でもするから」

「…何でもするって?」

 私が振り向くと、男は顔を涙でぐちゃぐちゃにして何度も頷いてみせた。

「うんする何でもするアキちゃんが望む事なら何でも、」

「なら、今すぐ死ね」

 ひゅっと息を呑んで彼は目を見開いた。その拘束が緩んだ隙に靴を履き、

「アキちゃん…‼︎」

 ひび割れたような声には、今度こそ振り向かない。玄関のドアを開け外へ出ると、後ろ手で鍵を投げ込んでから思いっきりドアを叩きつけて閉めてやった。

 フロア中に響き渡る轟音。

 しかし、次の瞬間にはただ耳が痛くなるほど静かな夜の静寂があるだけだった。



 いくらなんでも近所迷惑だっただろうな。

 特に最後のアレは。

 と、

 今更になってそのことに思いあたる。

 そして、同時に私は自分が全身で震えていることに気がついた。きっとマンションからここにくるまでずっとこの状態だったんだろう。体中が震えるような怒り、とはまさにこのことか。

 現に、そんな私を見てお茶を出してくれた新人社員は引き攣った笑みを浮かべている。

「、あの」

「はい?」

「ひっ、あの安田さんすぐ来ますからあのホントお待たせしちゃってすみません僕もう一回呼んでみますね!」

 返事をしただけでこの怯えようである。一体、今の私はどんな顔をしているんだか。

 自分でもわからないし、なんなら鏡でも出して確かめたいくらいだけど、わかったところで表情の修正ができるかと言われるとそれも無理だろう。今のこんな精神状態では。

 許せ名も知らぬ新人くんよ…と心の中でその背中に謝ると、ちょうど彼が逃げた先に安田さんが姿を現した。

「ああ、先生。こんばんは」

「こんばんは、安田さん。すみません、こんな遅くに…」

 安田さんはいきなり出版社に押しかけた私に何も聞かず、休憩室という名の寝床を貸してくれた。翌朝、新人くんからはサインを強請られた。意外に神経が図太い彼の名は色紙に書いた5秒後に忘れた。

「これからどうするんですか?アテはあるんですか?」

 私の大荷物を見て安田さんはそれだけを尋ねた。私が何も決めていないとわかると、

「とりあえず、近くのビジネスホテルをピックアップしてリストにしておきますね。まあ、もう一晩、いえ、二晩くらいこちらに居てくださってもOKですけど」

 テキパキとそれだけ言って、安田さんはデスクに戻っていった。どうやら彼女も泊まりがけで仕事だったらしい。エナジードリンクの空き缶が彼女のデスク周りで城の城壁の如く列をなして並んでいた。

 さすがにそんな彼女にこれ以上迷惑を掛けられないし、丁重に礼を述べてお暇することにした。

 今日は元々とある予定が入っていた。そこで、あわよくば今夜の寝床を確保できるかもしれないし、もしできなくても諦めてネカフェに行けばいい。


 で、その予定というのが。


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