4-6
最後に手に取ったのが何年も、何十年も昔に思える、私の武器。
赤い柄のついた、ねじ回し。
それは、いつも持ち歩いているハンドバッグの、外ポケットに入れっぱなしにしているはずだった。
しかし今は、そのハンドバッグが無い。重い紙袋の方はそのまま持ってきたのに、バッグの方は廊下かリビングに落としてしまったらしかった。自分の肩からその感触が消えたことすら気がつかなかったとは。
クソッ!
先程の蘭さんのように、思いっきり毒づきたかったが、声には出さない。出せるわけがない。ていうか、なんで私は“蘭さん”なんて呼んでるんだあんなヤツに敬称をつけるなんてどうかしている。
ヤツは、
早見蘭という名のあの男は、
今をもってして、ただの敵!
そして、体の大きな敵に立ち向かうには素手では不利。それに、こういう時にただ隠れているだけでは、いずれはジリ貧になってしまうだろう…ってだから、考えるなよ私なんでもいいからとにかく武器を取りに行くんだよ、と腰を上げたそのとき、
不意に視界が開けた。
服をかき分け、こちらを覗きこむ大きなシルエット。
暗闇に慣れた目が、はっきりとソイツの姿を捉える。いつのまにか音もなく忍び寄ってきたらしい、早見蘭。
陶器のような肌、整った目鼻立ちに、少し太めで綺麗な形をした眉。
こんなときでも、彼の顔立ちは美しかった。その美しい顔をもって今、彼はこの上なく醜悪に笑う。
「あは。見ぃつけたァ」
男は、目の前で見せつけるように舌なめずりをした。
相変わらずびっくりするくらい長い舌は唾液と赤い液体で濡れていて、いよいよ人外じみていた。
「アキちゃん?おーい。あれ、何、固まっちゃってんの?」
男はピタピタと冷たい銀色で私の頬を叩く。
「アーキぃ、返事くらいしろよ、名前呼んでんだからさぁ」
ピタピタピタピタ。
銀色のソレはナイフの形をしていて、誰のものともわからない血が未だ滴り続けている、それが私の頬にも付着する、とてつもなく気持ち悪い。
そんな私の目線を追った彼は、一度ナイフを離す。何をするのかと思いきや、ナイフを己の口元に持ってくると、舌を這わせ刃に付いている未だ渇いていない新鮮な血をベロリと舐めとった。
その表情といったらまさに“恍惚”という言葉以外の何モノでもなく。
とてつもなく気持ち悪い。
そう思うのに、私は同時にそこに壮絶な色気を見て取る。
そして、彼は万力のような力で私の肩を押さえ込み、顔を近づけてきた。反射的に顔を背けた私の頬を、熱くて長い舌が這う。肉食獣が獲物を嬲るような仕草だった。
肉食獣は嗤う。憐れな獲物を嘲笑う。
だが残念だったな早見蘭。
私も中身はそちら側だ。
にい…と私は唇を釣り上げる。
こんな時こそ笑ってしまうのが、この私。
危機に直面した時ほど逆に口角が上がってしまうのは昔からの癖であり、いつもは普通の人間に擬態する為に堪える癖がついている。
でも今は、そんな必要はないわけで。
そもそも微笑みとは本来、牙を剥き出しにする威嚇からきているとの説が巷ではあるわけで。
そして、説が有ろうと無かろうと、私は今、自然に、あるがままの、化け物の微笑みを浮かべているわけで。
そんな私の、通常なら場違いとも言える微笑みに、男は嗤ったまま訝しがって首を傾げ、
そして、
獲物を拘束する手の力を緩める。
私はその瞬間を待っていた。
男の顔面に、紙袋から取り出した本を力一杯叩きつける。「あぶ⁉︎」「ッハ!」
呻く男を鼻で笑ってすかさず私は廊下に飛び出すと、バッグが落ちていないのを確かめつつ耳からむしりとったイヤリングを遠い廊下の端にぶん投げた。
小さな金属が落下する音に背を向け、リビングに飛び込み、男が狙い通り音に釣られて反対方向に向かったことを見届けてから改めて部屋を見回し、
立ち尽くす。
そこに広がっているのはまさしく血の海、
(見るな)
その中心にあるのは鋭利な何かでぐちゃぐちゃに蹂躙された肉塊、
(考えるな)
それでもまだかろうじて原型が人間で、恐らくは若い女性だったとわかってしまう、
そんな肉塊、が
(考えるなったら!)
私の未来
ガシャン‼︎バラバラバラ…
玄関の方で何かを派手に倒したような音に、
我に帰る。
続いてパンッ!パンッ!と、軽い謎の破裂音がした後、
ゆったりとこちらに向かってくる重い足音。
私の意思とは関係なしに慄く唇から、中かが漏れそうになるのを、己の手で押さえつけることで堪え、とうに視界の端で見つけていたバッグに駆け寄りソレを引っ掴むのとほぼ同時、
ドパン!
と。
元々ほとんど開いていたドアをわざわざ蹴り開けて全開にしなければ気が済まなかったらしい、殺人鬼のご登場である。「小賢しいことしてくれんじゃーん。スッゲェ探したんですけどー?」
「……」
軽薄な口調と、気怠そうな表情。
これまでついぞ見せたことのなかった退廃的な雰囲気を纏った男は、ニヤニヤしながら歩みよってくる。
「つーかさ、さっきからずっと黙ってるけど何?俺のこと無視してる感じ?」
「……」
「っふ、んなわけねえよな今もバッチリ目ぇ合ってるもんな?だいたい、本気で無視なんかできるわけねえもんな俺みたいな危険人物が目の前にいて」
「……」
「いやだからさー無言はやめろって。何かしら反応が欲しいわけよコッチとしては。あ、わかった。ビビって言葉も出ないんだ?」
「……うるせえな」
「あ、やっと喋ってくれた良かったーアキちゃんのお口がなくなっちゃったのかと思ったよ」
一転して、無邪気な口調。
まるで殺人のサの字も浮かばないような、以前の態度へ戻った男はニコ!と私に明るく笑いかける。
「ねえ、アキちゃんはさー、ヒトが一番キレイな瞬間っていつだと思う?」
「…。知るか、そんなの」
「絶望したときだよ決まってんだろ」
決まってねえだろどこの常識だよ。
ローテーブル越しに立ち止まった殺人鬼と睨み合う。
「ヒトをさ、まずは殺さずに最大限、できる限り惨たらしく、痛めつけて痛めつけてなんなら形とか多少変えてやってさ。で、ソイツが血とか涙とか汗とかあらゆるものを噴き出して感情剥き出しにして意地汚く命乞いして懇願して屈服した俺に瞬間からさ、いわば俺がソイツの神サマになるわけよ」
「…はァ?」
普通の人間同士でも性格や価値観が合わず、理解し合えないことがあるように、サイコパスにもそれぞれ個性や独自の考え方というものがある。殺人に走る理由もやり方もそれぞれであれば、生き様もそれぞれであり、まるで犯罪とは無縁の人生を送るサイコパスも世の中にはいるのだ。
その最たる例がここにあった。
さしずめ今の状況は、
実際の殺人行為には快楽も利点も見出さないタイプのサイコパス
VS
人を可能な限り痛めつけ拷問し辱めた果ての殺人こそ生き甲斐といったタイプのサイコパス
…といったところか。
「だからァ、ソイツに苦痛を与えるのも赦しを与えるのも生きるためのエサを与えるのも、全部神サマであるこの俺なわけ。で、俺は今からアキちゃんの神サマになる予定なんだけど、そんな俺には最大級の敬意を持って接して欲しいワケよご理解?」
まるで頭の弱い哀れな小動物を相手にするような哀れみと慈愛に満ちた視線で私を見つめ、猫撫で声で男は言った。
たいそうなご高説である。ひとっつも理解できないけど。コイツの言っていること全て私にはまるで理解できないしだからコイツとは一生わかり合えない、ということだけは理解した。
「ま、いーやその辺はこれから時間かけておいおいわからせるってことで。まあ、とにかく、そんなこんなで俺という神を前にしたヒトってのはさ、普段なら絶対に拒否するようなことでも吐き気を催すようなことでも自分がこれ以上痛めつけられないためなら何でも言うこと聞いてくれるワケよ。
それでもダメで痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられてそれでもいつかは助かる赦してもらえる解放してもらえるって心のどこかで祈り続けていよいよもう助からない殺されるっていう、
それを悟ったときのヒトの表情がさ、
もう、たまんねえんだよ、
なっ!」
床を強く踏み込む音。
気持ちよく自分語りに浸っていと思いきや一瞬にして豹変し襲いかかってきた男に、




