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3-5

「さ、さっきリビングのドアを開けたらアイツが急に…!」

 指先まで震わせながら彼が差し示すのは、

「……あ。セミ」

 リビングの床でひっくり返っている大きな虫。日本の夏の代名詞だ。死んだように動かないが、これは彼奴(きゃつ)らの姑息なワナである。私は経験則上、それを知っている。

「……」

「……」

「……」

「ジジジジジジ‼︎」

「!…チッ」

 …知ってはいるが、霧散したはずの苛立ちが蘇るのは抑えられなかった。私が近寄ると案の定、セミは突如渾身の力で暴れ始めた。ウヒャア!と悲鳴をあげる蘭さんを尻目に、私はセミを鷲掴みにすると、そのままベランダに出て、あらんかぎりの殺意を球速(この場合、球=セミ)に乗せてぶん投げてやった。

「…よし。かなり遠くに飛ばしたからもう大丈夫」

 寝不足のむくんだ顔に爽やかな笑顔をトッピングして振り返った私を、蘭さんは尊敬の眼差しで見上げた。

「アキちゃんすごい…セミ触れるんだ」

「んーまあね」

「あんなにうるさくてデカい虫、怖くないの?」

「怖くないよ」

 それに、あれはセミの中でも比較的小さいアブラゼミだったしと私が言うと、蘭さんは心なしか引いた目で私を見つめた。

「……アキちゃんもしかしてセミ好きなの?」

「好きではない」

「あ、そうなの。…え?でも種類までわかって、触れるってことは、」

「好きではない。断じて!好きではないから」

「アッハイ」

 虫に対する生理的な嫌悪感は、世間一般の女子同様、私にだってある。

 ただ、かつて実家ではセミに始まり、カマキリやらコオロギやらバッタやら、虫が家の中に持ち込まれるのはよくあることだった。

 もちろん、断じて私の仕業ではない。私は物心ついたときから、自分の嫌なものは視界にすら入れない主義だ。私の人生、いかに嫌なことからうまく逃げるかに心を砕いている、と言っても過言ではない。

 ただ、うちには生まれた時から全てにおいて優先権を与えられた小さな怪獣おとうとがいたから。幼い私がどんなに本気で嫌がっても、親は気にも止めなかったから。

「お姉ちゃんでしょ我慢しなさい」「悪気はないんだし、別に死にはしないんだから」と。

 誰も助けてくれないならば、そりゃ人間そのうち適応するものだ。どうしても逃げられないなら、立ち向かうしかない。したくもない“我慢”を重ねた末、無理矢理“平気”になるしかない。私の子供時代は、理不尽に塗れていた。今だって理不尽というものはそこかしこに溢れているけど、大人になるにつれ私はそれらを避ける方法を学習していった。こうして嘘つきな私の今がある。

 私の憂いを帯びた表情を見て、蘭さんは何を聞くまでもなく、黙って頭を撫でてくれた。たまにこうやって察しが良くなるところも私が彼の好きなところの一つだ。

「じゃあアキちゃんは、別に虫が平気なわけではないんだね」

「平気だよ。でも、積極的に触りたいとは思わないかな」

「…無理させてごめんね。そういえば、アキちゃん、ゴキブリは怖がってたもんね」

「怖がってはない」

「でもこの前、」

「怖がってはない。断じて!怖がってはない」

「アッハイ」

 蘭さんが言っているのは、つい先週2人で映画館に行った帰り、マンションのエントランス前でゴキブリに遭遇した時の話だ。

 敵は、どうやっても私たちがソイツの視界に入るのを避けられないような、絶妙なポジションを確保していた。状況を打破するべく、作戦を練っていた私は、側から見れば確かに恐怖で硬直しているように見えたかもしれない。

 そんな私たちの膠着状態を破ったのは蘭さんである。彼はソイツを、決して潰さないよう絶妙な力加減で、遠くに蹴っ飛ばして見せたのだ。

「そういう蘭さんは、ゴキブリは全然平気だったね?」

「うん。僕も基本的には虫平気だし」

「あ、そうなの?」

「芋虫もムカデも蜘蛛も触れるよ。でもセミだけは例外。っていうかむしろ論外。昔、口に入れら…、口に、入ったことがあって」

「うわキッツ。トラウマになるね、それは」

「情けないよね、僕」

「誰だって苦手なものはあるよ」

「アキちゃんの場合はゴキブリ?」

「…言っとくけど怖かったわけじゃないから。その気になれば対処できたから」

「へえ?」

「私はただ彼奴らが発生するに至った衛生面での考察と敵の動きを事前に予見した上で最小限にして最大の効果を発揮する攻撃の準備を」

「はいはい。次またキャツラを見かけたら僕が追っ払うから。アキちゃんはセミをよろしく」

「…うむ。苦しゅうない」

 ふんぞり返りながら、私は考えていた。さっき蘭さんが、セミを口に「入れられた」と言いかけたのは明らかだ。

 …もしかすると、彼はいじめられっ子だったんではなかろうか。

 そう思ったのは、実は今回が初めてではない。

 かつて、修学旅行でバスに1人だけ乗り遅れ、現地で自力で集合するまで誰にも気づかれなかったという彼の武勇伝。

 それも、よくよく考えれば不自然だと私は思っていたりする。だって、普通は出発前にバスの中でも点呼はするものではないだろうか。それで出発前に彼の不在が判明しなかったということは、周りが示し合わせ、誰かが彼のフリをして点呼に返事をし、皆が黙認したのでは。

 なんて。

 思っても、言わないけれど。

 先程の彼を見習って、気遣いには気遣いを。善意には善意で返すのが、私というサイコパスだ。しかし、私は蘭さんがしてくれたように彼の頭を撫でることはできないので、仕方なく抱きついて背中を撫でてみる。すると、そのままぎゅうと抱きしめられた。

 相変わらず暖かいお体で。なんて思っていたらぼわーっと盛大な欠伸が出る。そうだ、私徹夜したんだった。そんな私を見て慈しみの表情を浮かべた蘭さんが、頬に流れた涙を唇で優しく吸い取っていく。

「アキちゃん昨日からずっとお仕事部屋にいたみたいけど、もしかしてあんまり寝てない?」

「んー…徹夜したの」

「そっか、お仕事忙しかったんだね。じゃあ、今日は一日ゆっくり寝ていたい感じ?」

「うん。今日、何かあるの?」

「うーん、と、買い物に行こうと思って。あ、アキちゃんが欲しいものあればついでに買ってくるけど」

「行き先による」

 蘭さんは某大型電化製品店の名前をあげた。なんと、テレビを買うつもりだという。

「テレビ買うったって、」

 別に壊れてないし、今あるのは割と新しいように見えるけどなんでまた。

 そう続けるつもりで件のテレビの方へ視線をやって、私は固まった。

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