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げぶ。
と、朝っぱらから仮にも女にあるまじき音を立ててしまったが許してほしい。勢い余って自らの手で喉奥に歯ブラシをぶっ刺してしまったのだ。おまけに、えずいた拍子に口の端から歯磨き粉混じりの涎も垂れた気がする。
それもこれも目の前の、霊長類ヒト科ヒト目/体長193センチの色白細長マッチョのせいだ。
「あ、ユキちゃん!おはよう!」
『太陽に向かってぇ、』
「『グッッッモーニン‼︎』‼︎」
赤と青のド派手なレオタードに身を包み、見事な脚線美を晒している男。
同じようにカラフルなレオタードに彩られたマッチョな男達が映るスクリーンをバックに、彼は爽やかに微笑む。
…ヘアバンドで髪が逆立った頭を、上体ごとグリン!とひねった、アクロバティックな姿勢で。
「あと5分でぇッ、コレ終わるからッ、朝ごはんッ、食べにいこーねッ『マッスゥール‼︎』‼︎」
声も高らかに…どころかもはや裏声の域で、スクリーンの同族達とハーモニーを奏でつつ、彼は全力で腰を振り始めた。
「……」
ドアをパタンと閉める。
3秒数えてから開けてみる。
『クジャクになりきってぇー、』
「『クルックゥー‼︎』‼︎」
レオタードから生えた筋肉質の長い腕が羽ばたいている。あまりの勢いと数の暴力(スクリーンの中の軍団+リアル1名)で、風も起こせそうな大迫力だ。
勢いよくドアを閉め、背中を預けるようにしてへたり込む。
後になって振り返れば爆笑モノの状況なのだが、この時の私はあまりの状況にキャパオーバーを起こしていたらしい。
なお笑えることに、私はこのレオタード男に昨夜抱かれたのだった。
「ごめんね、びっくりさせたよね」
10分後、私達はホテルの一階でバイキング式の朝食をとっていた。
世界で1番エキセントリックな目覚めを迎えたお陰か、朝はコーヒーのみで始める低血圧な私もヨーグルトやフルーツなんかを食べている。
一方、男は朝っぱらからハッスルしたせいでお腹が空いたのだろう、サラダに始まり、パンに卵にお肉にご飯にシューマイと、がっつり食べて口の周りを汚している。これまでの3回のデートでわかっていたことだが、この男は食事が下手だ。
「毎朝、ああいう体操番組を見てるんですか?」
「番組じゃないよ、アレ」
「え?」
「昔ご近所さんから買ったDVD」
彼がウエストポーチから出して見せてくれたのたのは、写真をコピー用紙に印刷しただけのジャケット、といういかにも手作り感溢れるパッケージだった。
ホテルの上等そうなテーブルクロスの上から暑苦しい笑顔を向けてくるマッチョと、なんとも言えない顔で見つめあう私。
この真ん中の金色のレオタードの人が先生でね、と、男は聞かれてもいないのに説明を始める。すごい優しい喋り方してくれるから頑張れるんだよね。ニューハーフなんだけど、フツーの人だよ。昔は何度か家にもお邪魔したんだけど、一緒にお菓子作ったりなんかしてね。
「僕、すっごいインドアだからさ。朝から外ランニングするとかは無理なんだけど、アレをしないと1日が始まらないんだよね」
男はにこにこと締めくくった。
もしかするとこの流れでDVDを売りつけられたりするのかと思いきや、話題はあっさりと今日観にいく予定の映画の話に移って、私はむしろ拍子抜けした。
ホテルを出ると、冬の冷気で凍りついたかのように男の表情が抜け落ちる。
そう、この男、“内”と“外”ではまるで別人のように態度を変えるのである。
“外”にいる間の彼は、ほとんど口を開かないばかりか、並んで歩いていても目すら合わない。ファーストコンタクトの際、彼が“外”モードだったので「クール(無愛想)な男なんだな」という第一印象を受けた私は、後に2人きりになって彼の“内”の顔を見たときは驚いた。どうやら、陽気でおしゃべりな“内”の顔の方が彼本来の性格らしいのだが、あまりの豹変ぶりに最初は何かに取り憑かれたのかと思ったくらいだ。
信号待ちの間、話も弾まず暇なので、およそ40センチ上にある男の顔を観察する。
彫刻のように整ったその横顔。肌が白いのも相まって、見た目からはおよそ血が通った人間らしさというものが感じられない。
最初、アプリで送ってもらった自撮り写真を見た時は、編集で盛ってるとしか思えなかったが、そこはお互い様というもの。
年は29。
仕事はIT系。
身長は高くガタイは良い方だが、インドア派でスポーツは苦手。
趣味は映画鑑賞で、主にアクションものやハリウッド系が好き。
たまに、サスペンスものも観るが、グロテスクすぎるホラーやゾンビは苦手だという。
そんなプロフィールを見て波長が合うと思ったのはもちろん、そこから実際にメッセージのやりとりを重ね、返事の素直さと平日の昼間という安全な時間を指定してきたことが決め手となった。
そしていざ会ってみれば、写真を3割り増ししたかのような顔立ちの大男がいて、反射的に踵を返したくなった。それでもかろうじて踏みとどまったのは、新作映画がどうしても観たかったからにすぎない。
そして今のところ、その判断に後悔はない。
しかし、先程のレオタード姿での奇態といい、“外”と“内”での極端な態度の切り替えぶりといい、まだまだ知らない顔がありそうだ。正直なところ、私はこの男を見極めかねている。
私があまりにもガン見していたからか、男は無表情のまま首筋に手を差し入れてきて、悪戯するようにくすぐってきた。
見た目のイメージに反して彼は体温が高い。指先からの熱がジリジリと肌を侵食していくような気がする。私が思わず首をすくめてもやめてくれない。
道中、男はそのまま私の首筋を弄り続け、摘みあげられたネコのような格好で映画館に突入する羽目になった。ここに来るまでもそうだったが、平均より遥かに背の高い男は周りの視線を集める。モールのエスカレーターを登っている時は対向車線(?)を下っている親子連れの子供から「でかっ!」と無垢な叫びを浴びていたし、今は薄暗い映画館で突然デカいシルエットに遭遇した大人があからさまにギョッとしているくらいだ。
しかし、忘れてはいけないのがこの男、とにかく顔がいいのである。
「あのー、お兄さん1人ですかー?」
トイレを済ませて戻ってくると、廊下で男は女性3人連れに囲まれていた。
彼が手にしている2人分の飲み物とポップコーンを見れば、1人でないことぐらいすぐわかるだろうに。
なんの映画見る予定なんですかあ?私たちなんの映画見るか決めてないんですけどー、お兄さんのおすすめは?このあと時間ありますぅ?もしよかったらお昼ご一緒しません?私たち今日いくらでも時間あるし、あ、別にたかろうとなんてしてないですよもちろんワリカンです、だから、そんなに警戒、しなくても…。
姦しい声がだんだんと勢いがなくなって行く。話しかけている間中男がずっと無表情かつ無言で、静止画のようにピクリとも動かないからだ。視線は宙の一点を見つめたまま、文字通り固まっている。
そんな彼にある種の異様さを感じ取ったらしく、ナンパ女たちは腰が引けていた。「やだ、ちょっと怖いよ…」「やめときなって」と、他の2人に止められながらも、勇気ある背の高い女が顔の前で手を振る。が、それにも瞬き1つしない男(そもそも女達が視界に入っているのかも怪しい)に完全に諦めたらしく、最後は半ば怯えた様子で逃げるように去っていった。撃退成功。
毎度のことながら斬新なナンパのやり過ごし方だ。私がちょっと男から離れるたびに繰り広げられるお約束シーンなので、こっちも慣れたもので、よーし終わった終わった今日も面白かったとタイミングを見計らって歩み寄る。巻き込まれるのは面倒なので助ける気はない私も私だ。
私たちが観るのは主に洋画で、今日はとあるヒーローもののシリーズ最終章だった。人気とあって公開初日を避けた上で平日の午前中を狙って私が事前にネット予約した。この男と映画を観るときは、後列の人の視界を遮るのを避けるため、席は当然1番後ろになる。
「ポップコーンってなんでこんなに美味しいんだろうね」
席に着くと、照明が薄暗いのと周りにまだあまり人がいないとあってか、珍しく男は気を緩めた。
「私、映画館のポップコーンが1番好きです」
「僕も。前にどうしても食べたくなって一回コンビニで買ったことあるけど、同じ塩味でも全然違うからびっくりしたよ」




