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#1

続きの執筆と共に各所を段々と推敲していきます。

------------------------------------------------------------------------------------------- 

 ※1※

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 淡い月光と、星々の満ちる澄んだ空。

 触れることの叶わない虚無と静寂の闇。

 暗く重い大気の底。

 爛々と輝き、我こそはと憚はばらず存在を主張する光の群れ。

 蛮声や嬌声の混じる喧騒。

 毒々しい光が、厚く汚れた雲を照らす。

 雑踏が騒然たる音をかき鳴らし、知らず知らずの内に心を蝕んでいく。

 その光の群れと音の空間の中心に”円”は存在した。

 巨大で歪な円。狭く、荒れ、入り組んだ世界。

 円の内側では外の世界と比較にならない程の光と、喧騒と、何より危険が待ち構えていた。

 円の中は多くの光の列が蠢うごめき連なった迷宮で構成されている。

 その迷宮は下手に攻略しようとすれば呑まれ、命を落としかねない。幾つもの小さな光がその迷路へと挑み、やがてその光も迷路を構成する壁の一つとなっていった。

 その迷宮の攻略は至難の業である。俊敏な判断力と力を持ち、命を顧み無い者にしかその迷宮に挑むことはできない。全てを兼ね備えていても、確実に突破することは叶わない。

 だが今、難攻不落の迷宮を掻かい潜り、猛然とした速さで突き進む一筋の輝きが存在した。

 周囲の移動する光の壁とは根本的に異なる、常軌を遥かに逸した速度。

 その輝きは猥雑わいざつで氾濫はんらんした光を切り裂き、自らの発する轟音を雑多で乱れた音の上に塗り潰す。

 銀くろがねにも黄金こがねにも見える輝きは抜き去る光の壁に応じて反射し、その色は次々と変容していく。

 そして光の迷宮が後方の彼方へ過ぎ去った時、一筋の輝きは本来、自らが放つべき光を取り戻す。

 虹色の輝きが、宵闇の迷宮に光跡を描く。

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 ※2※

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誰もいない薄暗く青っぽい芝公園付近の商社ビル内

男と女が向かい合って、椅子の上に立っていた。

もう限界であった。

納期ギリギリのスケジュールの変更。

幾度となく繰り返されるトライアンドエラー

仕事に対しての正当な評価など入社以来ひとつたりとてなかった

やめるにやめられない

幾多の会社を渡り歩いた二人は、この会社で出会った。

就職氷河期に際して、同期が次々と内定を得るなか、どうしても同期に遅れをとりたくない一心で派遣社員という立場に甘んじた。いつかは正社員になれる。時間はたくさんある、それがダメなら資格を取ればいい

しかし、思い通りに事は進まなかった。

派遣社員である為、役に立たなければすぐに別の職場へと斡旋される。長く続けるためにはどんな仕事でも断らず受け入れなければならない。逼迫したスケジュールは資格勉強の時間を奪い取り、いつかいつかと先伸ばしにした結果、同期は成功を得、幸せを掴み、その祝いの場所にも迎えなくなった。

負の連鎖は終わらない。

そんな似たような境遇に二人は共感しあい、距離が縮まるのに時間はかからなかった。

どんなに辛い仕事でも職場には自分をよりわかってくれる存在がいる。それが目下の幸せであった。

しかし、その幸せな一時は長くは続かなかった。

納期ギリギリになってのクライアントの仕様変更の通達。どんな仕事でも安請け合いをし、生き残るために自転車操業を厭わない会社と、雇われ中間管理職の上司は明日までにデータをアップしろと言う。

不可能であった。そもそも納期はとうの1ヶ月前に過ぎており、それに伴う仕様変更の改編と新たに設定された納期の期間はどう考えても見合わない。現在のプロジェクトメンバーの殆どは別のプロジェクトに移動し同じように仕様変更で逼迫している。この修正自体も元プロジェクトメンバーであった自分達が急遽引き戻され対応しろとのことであった。

限界であった。

二人は最早現状を解決する術も、逃げると言う判断も下せないほどに憔悴しきっていた。

死ぬしかない。責任をとってという意思もあるが、せめてもの復讐として立地だけは一流の一等地のオフィスを事故物件にしてやろうとここでの自殺を選んだ。

ふたりの首には既に縄がかけられている。足元の椅子にはキャスターがついており、少しでも蹴り出せばバランスを倒すかそのまま転がり、足場をなくした体はたちまち落下して、首に縄が食い込む。

単純であるが確実かつインパクトを与えられる死に方であろう。

「じゃあ、いいね・・・・? 」

男は正面に立つ同僚におずおずと自殺を切り出す。女は俯いたままだったがこくり、としっかり頷いた。

男は僅かな躊躇いも持たず頷く女の様子に多少動揺し、逡巡した。もう行うことはただ椅子を強く蹴りだすことだけだ。しかし、死の直前ともなると自らの状況を客観的に顧みて、これからの行いが間違いでは無いのかと疑問が首をもたげる。

死ねば楽になる。このままあと一歩踏み出せば現状から脱せられる。だが、本当にそれでよいのだろうか。

全てを投げうってここから逃げ出せばいい。安いドラマの様に、どこか遠く離れた場所に移住してもう一つの人生を始めるのも良いだろう。でも、その先は? 今ここで自殺という方法しか選べない自分が、自分たちの知らないどこか遠くの土地へ行ってやり直すことなどできるのだろうか。

無理だ。現状すら変える事も出来ず、変わりたくても変わろうとすることのできない自分たちがここから逃げ出しても同じことの繰り返しになるだけだろう。ならばいっそのことそんな不安等思い浮かべる必要もない楽な方法を取ればよい。今まで自分たちは我慢に我慢を重ねてきたのだ。少しばかり楽をしたっていいだろう。たとえそれが麻縄で首を絞められるような社会を生きる事からの逃避でも。

男は再び女の顔を見る。相変わらず俯いたままであったが、不思議とその表情には曇りの色は無く寧ろ覚悟を決めたように見えた。

ああ、彼女はとっくに自分が考えていたような事など何度も考えてそれでも勇気と未来を見出すことが出来ずここにいる。ならば自分もここで覚悟を決めよう。

男と女はお互いを見つめ合うと静かに頷き、椅子を蹴り出した。

意識したわけでは無い。だが思わずげっという空気が押し出される音が意思に反して喉から漏れ出た。

衝撃と振動が視界を揺らす。急激に縛り上げられた気道は苦しみよりも圧迫感を生み出し、動脈が締め上げられることによって顔面の表皮の血液がギリギリと膨れ上がるのを感じた。

生理反応で酸素を取り込もうと思わず縄に手を伸ばす。だが伸ばそうとすると更に喉に食い込む縄に力が入り、身体が縄を緩めるか現状を維持するかの二択によって混乱する。

段々と脳が酸素の無い状態に慣れてきたのか、不思議と落ち着いた精神で周囲を見渡す余裕ができてきた。

正面の同僚の顔はパンパンに膨れ上がり紫色に鬱血している。白目を剥き、口の端しからは泡も吹き出している。今までで見たことの無い表情だ。男性よりも女性の方が身体的に頑健ではないためか、自分よりも死に近づく速度が早いのかもしれない。

茫漠とする意識から視界の焦点が狂い、吊り下がった女の後ろ姿らしき影を映すガラスに焦点が移る。

酸素の不足による厳格であろうか。同僚の背中と思しきガラスに映った鏡像がゆらりゆらりと揺らめいている。まるで波一つない水面に一滴のしずくが落ちた時の様に。

ブラックアウトしかける意識の中、死へと向かう旅路の暇つぶしの様に男は同僚を映すガラスに目を凝らし、違和感を覚える。それは女の影では無い。別の何かが写っている。

最早理性的な思考に捌ける程の酸素は脳内には残っていないはずの男の思考力でも、その異常はハッキリと捉えれた。

向かいのビルから映った影ではない。寧ろガラスに映る女の鏡像はガラス自体の歪みによって歪曲した影のように見える。酸欠による妄想の産物を男は疑ったがそうではない。鏡像のデティールは明らかに作為的であり、平時の男の思考力でも想像がつかない異様であった。

それは恐らく何か動物の姿であり、こちらを見つめているように思える。

全てを映しこむ澄んだ水晶のような瞳。

ハッキリとガラスにその姿が映ったのではない。鏡像はその造形を具体的には現してはいないが、男にはそれが何者かの瞳のように感じられた。

獣を想起させるその顔はこちらをじっと見つめている。

そして、その姿は着実とこ・ち・ら・側に近づいていた。

ガラスの内側。自分たちが宙にぶら下がっているオフィスの方へと。

男の首を吊ったこれまでの一連の思考は死がぼんやりとしたものでしか捉えられず、恐怖など微塵もわかなかった。

しかし今目の前に現れた異形のそれはその茫漂とした恐怖心を再び激しく覚醒させるほどの怖気に満ちていた。

明確に何かをされた訳でもなければ、鏡像に揺らめく影の正体をはっきりと視認したわけでは無い。

しかし体は激しく動揺する。酸素不足による失神と痙攣とは明らかに違ったもの。根元的な恐怖心から来る動揺が心臓から体へと繋がって震えとなる。

一気に脊髄から腰椎に掛けて電気が奔り、全身の毛穴から発汗する。

今すぐに逃げ出したい。ここにいたくない。自分の理解の及ばないものがそこにいる。

緩まない様ビスを打った縄から伝わるほど天井が揺れる勢いで必死にもがき、束縛を解こうと首にかかる縄を緩ませる。男の思考は完全に混乱しており、生存本能と理性の糸がぐちゃぐちゃに絡み合う。

到底自殺しようとしている人間が行う行動では無く、傍目から見てみればその光景はさぞや滑稽に映ったものであろう。だがそれでも逃げ出したいという男の欲望の正体は、腹の底から湧き上がるあらゆる生物の抱える押さえられない生存本能だ。

もがけばもがく程首に掛けられた縄は締め付けられていく。

鏡像に映っているのは獣ではない。それすら超える恐ろしい“何か”だ。男は体を必死でゆすり縄を解こうとする。

鬱血する肌。真っ赤に染まり点滅する視界。耳と神経で感じる心臓の拍動。

来るな来るな来るな。男は徐々に近づく“何か”に最早祈りの念を送るほどに必死になっていた。

だが祈りも虚しく、ガラスに映る“何か”の距離の境目は遂に無くなり、後少しの距離でガラスをす・り・抜・け・こちらにやってくるのが分かる。

錯覚ではない。狂気に飲まれた意識による妄想の産物でもない。はっきりと確信をもって鏡像の正体である“何か”は自らの命を奪いに現れたのだと男は理解した。

しかし、吊り下げられた身体に逃げ場はなく、酸素の流れをせき止められた脳にはもはや活力を生み出すほどの余裕はなかった。

男の恐怖を薄くぼんやりとした虚脱感が覆っていく。視界が暗く、意識が深く沈もうとしていた。

すうっ、と重い体を脱ぎ捨て肺に取り込んだ息と共に自身の意識が抜け出ていくような感覚。意識が完全に体から抜け出て、僅かに息苦しさを覚えた一瞬。

男の意識は瞼と瞳の隙間から差し込んだ白い閃光によって再び現実へ引き戻される。

ガラスを通して氾濫する輝きがオフィスのあらゆる暗闇を霧散させ、天井から吊り下げられた二人の体を照らし、鏡に映る“何か”の影を光によって打ち消した。

途端先ほどまで“何か”を映していた窓ガラスは幾百もの欠片へと形状を変え、オフィス中に飛び散る。

闇を白く照らす閃光によって僅かに復帰した男の視線は、極度の興奮状態によって脳から分泌されたアドレナリンの効果によって宙に浮かぶガラス片に反射され照らし出されたオフィスに進入してきた存在をゆっくりと捉えることができた。

銀のヘルメットに黒いライダースーツ。人だ。しかし、それだけではない。その人物は前後に二つ備えたタイヤとそれを繋げる太く剛健な形をした乗り物-バイクに跨っていた。

しかし、その姿はバイクと素直に表現するにはまるで異形過ぎた。

夜の闇にも埋もれない白磁の輝きを放つボディカラー。

縦に四灯並ぶライトを収める役割のみに徹した、極端に面積の小さいフロントカウル。

そして何よりも直線と曲線の入り混じる複雑な形状のフルカウルボディとフロントフェンダーの先端が尖った攻撃的なフォルムは、過度な装飾の施された刀剣のような印象を男に与えた。

普段街中で聞く大型バイクのそれとは大きく印象の異なる硬く高いエキゾーストノートが特徴の白い異形のバイクは“何か”が映し出されたガラス毎オフィス突っ込み、天井から首に吊り下げられた二人の縄に向けてボディの下部を向けた。

ナイフのように研ぎ澄まされた車体はそのまま縄を真っ二つに裂く。二人の体は宙に舞った。

バイクは刃先のように尖った車体下部をオフィスの床にこすりつけ、火花を散らし整列した机を横滑りする車体で蹴散らして着地する。

一瞬、重力を忘れた浮遊感が男の意識を真っ白に染めかけるものの、その後に襲ってきた強い衝撃によって男の意識は瞬時に現実へと呼び戻された。

酸素の欠乏によってもたらされる激しい動悸と息切れ、頭痛が男を苛む。混濁した意識の視界の端には同じように地面に転がるぼやけた同僚の女の輪郭が見えた。

自分と同じように助かったのであろうか。

男は揺らぐ視界に力を込め、目を凝らす。

そして、男は絶句した。

白目を剥き、泡を吹いていた表情に変化はなかった。しかし、女の体は陸に打ち上げられた魚のように激しく跳ねている。

自分の体の損傷も厭わないかのように、激しく動くその様は同じ人間とは思えない異様な光景であった。

先ほどまで首をつっていた自分には、血中や脳へ行き届いていない不足する酸素のせいか意識しようとしても眼前の同僚のような激しい動きは出来ない。手足はマヒし、意識も朦朧として全身を怠さが覆っている。例え生理的なものだとしても、同じような状況に陥っていた彼女には到底今のような激しい動きができる程体力は残っていないはずなのだ。

体の自由が利かないのとは訳が違う。明らかに人の意志とは異なる意識によって体を乗っ取られている。そういう印象を男は持った。

だが、人の意志とは異なる意識とは? 男は自然と自分の頭の中に思い浮かべた同僚の今の様子を表す言葉に疑問を持った。

「遅かったか」

異形のバイクのライダーは言葉を零すとヘルメットのバイザーを開く。

女だ。バイザーから見えるのは目元だけだが、月光とガラスの反射によって青白く照らされた色素の薄い肌とプラチナの髪。北欧系の整った目鼻立ちに長い睫毛と翠眼。

そして肌に吸い付くライダースーツにフィットしたスラリとした長身痩躯の端正の取れた体つきがライダーの性別が女性であること如実に表していた。

男はこの異常事態の中、傍に立つ見上げた女の顔を見て場違いにも彫刻美術を見た時に似た感想を抱いた。

女はそんな男の視線には気にも留めず、豹変した女の様子を一瞥すると瞬時にシートから腰を上げのたうつ女の下に寄る。

自らを睥睨するライダーに向けて女は威嚇するように歯を剥ける。だがライダーはその様子を意に介さず跳ねる女の胸倉を掴んで強制的に立ち上がらせると、先ほど自分が割って突入してきたガラスとは別のガラスに女の身体を叩きつけ拘束する。

男は同僚に対して乱雑なライダーの扱いに声を上げようとするが、同僚の豹変した態度への恐怖心の方が強く眺める事しかできない。

女は暴れるが、ライダーの押さえつけはまるで万力のように女の身体の自由を抑え込む。

ライダーはガラスに女の顔を押し付け、片方の手で女の目を強制的に見開かせた。

途端、ガラスに映った半透明の女の顔がはっきりとした醜悪な形へと変化する。表情が変わったのではない。顔の構造自体が一瞬にして変化したのである。

「・・・・!」

男は声にならない恐怖の声を上げた。

およそ人間の頭蓋骨の形状を無視した異様な変貌。縦に引き伸ばされたような女の頭の形はまるで馬の頭部の形状の様であった。

現実の女は白目を剥き、体を仰け反って酸素を求めるように大口を開けている。

鏡像の女の姿は徐々に頭から体に掛けて、華奢な体躯を無視した醜悪で強大な“怪物”の肉体へと変化していく。

その変化に合わせ、現実の女の声が激しくオフィス中に響くが、身体は相変わらずライダーの頑健な拘束を解くことは叶わない。

そして鏡像の女の姿は背中からは最早元の形状が想起できないほどにまで変容した。

人間の常識では凡そ考えられない筋肉だらけの成人男性の身体に背中からは蜘蛛のような六本の肢が生えた馬の頭をもつミノタウルスの如き姿へと完全に変化したのだ。

その瞬間、オフィスを震わせていた女の叫び声はプツリと途切れ、身体は糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちた。

その容貌は吊られていた時よりも更に酷く変化しており、頬はこけ無数の皺が刻まれた顔は最早老婆の様であった。

一方、鏡像に映る怪物は倒れた女とは対照的により一層激しく動き、眼前のライダーに向かって怒りをぶつけるかの如く鏡面を何度も殴打する。

外から内側へ窓を叩くように鈍い音が響く。ただのガラスに映った鏡像の筈なのに、倒れていた男の元までその衝撃は伝わる。ガラスは怪物の殴打を受けた部分から徐々にひび割れ、その欠片がライダーの足元に一つまた一つと転がる。

ガラスを突き破るつもりなのだ。ガラスに映っている鏡像であるはずの怪物はガラスの向こう側からこちら側に向かって来ようとしている。

そして男は気付いた。先ほどまで自分を見つめていた存在はこの怪物であることを。身動きの取れない自分達を狙ってガラスの向こう側から狙っていたのだ。そしてどういうわけか自分では無く、ライダーの足元に横たわる、先ほどまで共に首を吊っていた同僚に乗り移ったのだと。

男はまだ動かない体を必死に揺らし、ガラスより遠のこうとする。倒れた同僚の事も気に掛けたが、庇おうとする余裕は今の男の選択肢の中には無かった。

対してライダーは荒れ狂う怪物を前にして、異常な落ち着きを払っていた。そして一切視線を怪物から逸らすことなく手元を覆う黒革のライディンググローブを外す。

バイザーの奥に見える素肌と同じく透き通るような素肌の五指が露わとなる。

ライダーは人指し指の伸びた爪先を親指の腹に食い込ませると一気に指を弾く。色素の薄い皮膚は一閃され、肌色とは対照的な生き生きとした鮮血が親指の腹に従ってつう、と滴る。

 ライダーは血だまりの滴る親指を小指から人差指まで滲むように丁寧になぞって各指先を血に染めた。五指の先端それぞれが真っ赤に彩られ、そのままゆっくりと小指、薬指、中指、人差指、親指の順にガラスに押し付けて引き、五芒星を描いていく。

鏡像の怪物はライダーの様子を見て荒れ狂い、益々鏡面を叩く力を強めるがライダーは微塵も動じず静かに口を開いた。

「血と肉と名を持たぬ者、あるべき場所へと誘いし我に属せ」

ライダーの小さく唱えた言葉は、しかしはっきりとした声音を持っており、オフィスの空気を一瞬にしてしん、と静寂に満たした。

数瞬の後、ガラスの表面には一挙に様々な幾何学的な紋様の入り混じった膨大な数の円が浮かぶ。

呪術の類で見られる魔法円に似た奇妙な円と図形。太極図を中心に広がる八卦図。それを取り囲むようにルーン文字が刻まれた円環があり、その外側には等間隔に置かれた五つの小さな円が配置されている。その小さな円の中心にはそれぞれ凡字によって記された火・水・土・木・金が描かれていおり、奇妙な形状の魔法円は大小問わずしてガラスの表面に現れ、次々と鏡面を覆っていく。

怪物は先ほどとは比べ物にならないほどの勢いで鏡面を叩くが、ひび割れたガラスが再び揺れる事は無かった。振動や音、怪物の姿以外のガラスの表面全てが時を止めたかの如く固定される。

怪物の身体がまるで塗りつぶされるが如く、小さな一つ一つの魔法円へと姿を変えていく。そして小さな魔法円は徐々に一つの巨大な魔法陣へと姿を変え融合していく。

あまりの魔法陣の輝きに床を這って逃げる男は思わず身体毎地面に顔を背けた。しかし目を瞑っていてでも分かる紅蓮の光に視界は染められ、疲労と精神の限界を超えて男の意識は途切れた。

ガラスに映る魔法円は膨張を続けオフィス全体を一際赤く染める程の大きさと輝きを放つと、女はガラスに触れた掌を話す。

瞬間魔法円はガラスから消え去り、周囲には夜の闇が戻った。

鏡面に怪物の姿はいない。残っているのは強い衝撃で所々がひび割れたガラスのみである。

ライダーは先ほどまでガラスに伸ばしていた掌を顔の右半分に翳す。しばらく動きを止めた後、手を払い顔を上げると、右目の奥には先ほどまでガラスに大きく刻まれていた紅く輝く魔法円が顕現していた。

ライダーは足元に転がる女と少し離れた位置に倒れた男を交互に見る。女の方はまるでミイラの様に骨と皮と化した姿。生きていたとしても恐らくは光が目に入っただけでショック死を引き起こすだろう。だが首に付いたままの縄を見てライダーは横たわる女の蘇生の意義を感じず、それは離れた位置に倒れている男についても同様であった。

ライダーは煌々と輝く右目を隠すかのようにバイザーを下すと、踵を返し自らが駆ってきた異形のバイクの下へ向かう。

右目がジンジンと脈動し、どぷり、と血涙が出るのを肌で感じた。急がなければ。

ライダーは月光に照らされ、周囲に白光を灯して操る者を待ち受ける異形のバイクのシートに再び着く。

グリップを握った時であった。ライダーは顔を上げる。

オフィス差し込んでいた月光が消えた。正確にはオフィス一面には間違いなく月光が差し込んでいたが、ライダーと異形のバイクの一帯のみ包んでいた月光が失せたと表現すべきだろう。

ライダーが視線の先には、月光に照らされた真っ赤な影が広がった。まるで地面に飛び散った血糊のようなその影は先ほどまでガラスに映っていた怪物とは違う。傍らには輝く鋭利かつ長大な得物が携えられており、その威容はまるで紅いローブを纏った死神の様だった。

バイクが突っ込んできた位置より一段高い窓の位置より、紅い影はガラスを破りオフィスへと進入した。ちょうどバイクの手前に着地するように。

190cmはあろうかという長い背丈と赤いフードの人物。それが紅いローブを纏った死神と思しき者の正体であった。手元の死神の鎌に見える得物は身の丈並みの大きさを誇る大剣バスターソードであり、顔は深く被ったフードの影に隠れて分からない。

行く手を塞ぐように大剣を構える紅いフードの人物。

表情は分からないが、確実にライダーに対して敵意を持った存在であることは誰の目から見ても明らかであった。

ライダーも紅いフードの人物に動揺している様子は見せない。寧ろ、予めこうして退治する事態を予見していたかのように。

お互い、躱す言葉は無く睨み合うだけであった。短くも緊張感が時間を拘泥するかのように膠着状態が続く。

不意に状況を打開するかのようにライダーは右手のグリップを一気に絞った。

その反応に応じて紅いフードの人物も大剣を構える。

異形のバイクは耳をつんざく強烈なスキール音を轟かせ前進した。

紅いフードの人物はバイクの前進にひるむことなく、大剣を掲げて突撃を敢行する。

瞬時に互いの距離は縮み、ライダーと紅いフードの人物の距離は逼迫。

紅いフードの人物は手に掲げた大剣を大きく振り、ライダーの首元目掛けて一閃する。

だがバイクの挙動は紅いフードの人物が思っている通りには進まなかった。バイクは前輪を宙に浮かばせると同時にリアホイールをオフィスの床へと刻み、紅いフードの人物を飛び越え自らが破った窓に向かって跳躍した。

虚を突かれた紅いフードの人物は振りかざした大剣毎、体をバイクの進行方向へと振り向かせるが、既にお互いの交戦距離の外に二人の位置はあった。

星の見えない暗く沈んだ空へと屹立する高層ビル群の中へ月光に垂らしだされた一筋の白き輝きが瞬く。

ライダーは振り返り、躱した紅いフードの人物の様子を確認する。自分が突き破った窓枠の傍には暗いオフィスの中、紅いフードの人物が亡霊のようにこちらを向いて立っていた。その姿に追撃の意志は見受けられなかった。だが同時にライダーが取る次の思考を見透かすかのように睥睨しているかのようにも思えた。

異形のバイクの軌跡は長大な放物線を宙へと描き、真下に蠢く光の洪水の中へとその姿を紛れ込ませていった。

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 ※3※

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 首都高速都心環状線(C1)。

 東京都千代田区・中央区・港区を環状に通る全長十四.八キロメートルの首都高速道路である。

 首都高各路線との接続路線は十本に及び、一日の平均交通量は十五万台以上。

 その内の6割はC1を通過しており、一日の約半分に渡って渋滞や混雑が発生している。

 殆どの路面は地上に作られておらず、高架やトンネルなどの構造による路面の比率は七十五パーセントを超える。


 元来は戦前の内務省が計画した、将来的に予見されうる個人所有の自動車の普及に伴う首都交通網の麻痺を防止すべく、当時国外では既に普及していた高速道路を参考にした「東京高速度道路網計画案」がC1、ひいては首都高全体の始祖構想であったとされる。


 戦後。高度経済成長に伴う自動車の爆発的普及と予期していた交通網の麻痺や都の財源復興を目処にした有料道路の交通網整備の問題を一挙に解決すべく、東京の街路機能を補完する立体交差道路の建設が急務とされた。


 昭和三十四年「首都高速道路公団」が誕生。「東京高速度道路網計画案」を草案とした「首都高速道路計画案」が施工され、昭和三十七年首都高一 号線京橋~芝浦間が開通。以後竣工から六十年近くが経過し、現在首都高の総延長は三百四十キロにも及ぶ。


 その膨大な範囲を誇る首都高に於いて、C1は極めて初期に完成した部類の区間である。六十年間そのレイアウトは殆ど変わらずに運用され続けており、その構造は首都高の中で最も完成度が高く、最も歪な作りとなっている。


 長きに渡って東京都の交通の中心部とされ、酷使され続けてきたこの区間は当然ながら修繕や改修を重ねてきており路面の舗装状況やダメージはセクション毎に異なる。更に後年の首都高拡張の折に増設された他区間からの接続や、それに伴って流入する無数の目的地を持つ車両郡の流れによって発生する渋滞や事故。

 東京の交通を支えるにはあまりにも脆く、そして首都高全体にとって無くてはならない生命線となっているのが現状のC1である。


 まさにC1は過密都市東京の大動脈として半世紀以上に渡り、首都交通網の中核を担い続けている。

 そして東京の空に浮ぶこの魔宮には、何者よりも早く、誰よりも強く駆け抜ける事を目的とした者達がいる。

 俗称「ルーレット族」と呼称される、C1を主にテリトリーとし、夜間から明け方にかけてタイムや速さを競う事を目的とした人種である。

 戦後より十年程が経過し朝鮮戦争特需による結果、経済白書において「もはや戦後ではない」と称された昭和三十年代の高度経済成長期。この時代は第二次大戦による産業破壊の為、自動車よりも部品点数が少なく生産が容易であり、普及率の高く戦後以降の人々の生活には欠かせない移動手段となっていたバイクが更なる飛躍と発展を求めたメーカーによる選手権・競技会によって加速度的な成長を遂げていた時代であった。

 やがて、バイクの改造等を施し集団暴走行為や違法競争を行う者たちが現れた。

 後に、暴走族やルーレット族の基盤となる“カミナリ族”と呼ばれる集団である。

 時代は移り、自動車文化の発展や相次ぐ技術革新によって“カミナリ族”はやがて“暴走族”へと変化しその派生として、峠を攻める事に特化した走り屋“ローリング族”や零~四百メートル間の速さを競う“ゼロヨン族”、湾岸線に於いて最高速を競う“湾岸族”などが出現した。

 “ルーレット族”もその派生によって誕生した競技型暴走族と称される集団の一つである。

 一般的に車両にて危険行為を侵す暴走族と同列に語られがちではあるが、“ルーレット族”の基本はC1を始めとした環状線等に於いて他車との速さやタイムを競ったりするといった競技色の強い暴走行為を基本とした集団を指す。

 その始まりは東京オリンピック時には建設中であった芝公園出入口から霞が関出入口開通したことによりC1全線が開通し都心環状線として機能を始めた昭和42年前後からである。

 それから三年後の一九七〇年代に入ってからは、不安定だった中東情勢により二度に渡って引き起こされたオイルショックの余波たるガソリン価格の高騰により、ルーレット族は衰退の一途を辿りC1からその姿を徐々に消していった。

 揺れる中東情勢が沈静化し、G5によるプラザ合意によってバブル経済と呼ばれる時代に日本が足を踏み入れた八十年代後半。排ガス規制が一段落したこともあってか、自動車メーカーは停滞していたそれまでの流れを取り戻すかのように新たな自動車を生産し、好景気によって余裕の出た消費者もまたそれに呼応するかの如く車両を買い、自動車メーカー側により高度な車両を望む声をぶつける。その結果、技術は更に進歩し、各自動車メーカーはこぞって性能の高い車両を開発・販売するに至った。ルーレット族の最盛期ともいわれる時代はまさにこの時代だ。これまでとは桁違いの性能を持った車両は多くの走り屋やチューナーたちを熱狂させ、日本のモータースポーツ文化はこの時代に恐竜的な進化を遂げた。この流れはバブル経済が破綻した九十年代に至ってもしばらく続き、現在でも最盛期に比べれば規模はかなり縮小したものの、未だにルーレット族はC1に存在する。

 そして今まさにそのルーレット族の一人が自らの存在を証明するかの如く宵闇に浮かぶ迷宮・C1を疾走している。

 夜の闇に相反する純白の輝き。

 流星よろしく尾を引いたその輝きは右往左往へ進路を変え、周囲に点在する光を次々と彼方へ置き去りにしていく。

 

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 ※4※

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 締め付けるような痛みが、胸の中心を刺激する。

 息を吸う毎に胸の重みは増し、息を吐く毎に痛みは鋭くなる。

 それと比例し、思考は段々鋭くなり、無駄な意識は削ぎ落とされていく。

 周囲を囲む闇と、暴力的な速さで流れ行く景色に意識が融和を始める。

 しかし、絶え間なく体に与えられる脈動と、蒸気を生み出すほどの熱が自分と言う存在をはっきりと認知させる。

 左右2本に伸びたチタンの鋼管。

 純白の輝きを表面に反射させ、空気を切り裂くボディ。

 眼を凝らせ。

 獲物を逃すな。

 恐怖を無くせ。

 柔らかで虚ろな意識から、堅実で存在感を持った現実が戻ってくる。

 再び聞こえ始めたスキール音。

 両手に戻ってきたハンドルの感触。

 体中に血液を送り込む拳大の心臓。

 切り裂いた風の残滓を一身に浴びる肌。

 眼前へと迫り来る壁――――。

 研ぎ澄まされた意識の下、視界に飛び込んできた威圧的な塊を前に前のめりだった視野が広くなる。

 目の前には進入してきた者をすべて圧壊させる曲面に沿った頑健なコンクリートの壁と、ガラス張りのビルが待ち構えていた。

 反射的に右掌のブレーキレバーに掛けていた四指に力が篭る。

 衝撃が体中を駆け巡り、体表が圧に包まれる。それと連動するように正面のディスクブレーキからは甲高い制動音が響く。

 制動とほぼ同時に右足へ瞬間的に力を込める。その動作に応じてリアブレーキが作動した。

 横滑りする視界。

 身体を包む重圧が前から

 視線の先が閉塞的な灰色の壁から開けた空間へと変化した。

 遮るものは何もない。

 

 コーナーを抜けた先に見える直線に体が即座に反応した。右手・足の力を解き、再び右手をグリップに持ち帰る。

 すかさずギアを落とし、アクセルオン。

 燃料を爆発させ動力を車輪に伝える並列四気筒DOHC4バルブエンジン。

 燃焼したガスをエンジンの動作に合わせて、快音と共に放出するフルエキマニデュアルカーボンマフラー。

 8000回転でクラッチを切り、シフトアップ。4000回転に針が触れると、それまで高速回転で半ば安定していた車体が鞭を与えられた競走馬の如く唸る。

 エキゾーストノートとスキール音のシンフォニーは怪物の咆哮の様に周囲の空気を震わせた。

 眼前を時速二五〇kmで後方へ過ぎ去っていく首都高の景色は白日夢を錯覚させる。

 胸元に抱えた燃料タンクから伝わる振動は心臓の鼓動とシンクロし、浮遊していた意識はバイザー越しの景色へと収束する。

 全ての動作一つ一つが歯車となって噛み合い、ただ精緻なる時を刻む事に終止する時計のように、白のカワサキZX14Rは自らの持つ最高のパフォーマンスを以って、ライダーを異次元の高速領域へと導く。

 そしてそれを駆るライダー・山形耀我もまた自らの心の赴くままに、沸き立つ闘争本能と14Rからの応えに全身全霊で返すかの如くアクセルを全開で振り絞った。

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 ※5※

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首都高都心環状線外回り汐留トンネル入り口

 

 時刻は午前2時。梅雨季の残滓たる湿度の高さが反映される不快指数の高い熱帯夜。

 千代橋を過ぎ、盛り上がった地面を緩やかに下降していくと同時に得物を待ち構える巨大な口が見える。奥へ奥へと誘うかようなオレンジと白の二色の照明が汐留トンネルの存在を14Rを駆る耀我に知らせた。


 汐留トンネルの入り口は下り坂と併せてブラインド気味の高速右コーナーとなっており、侵入する者の速度感覚を著しく狂わせる。

 しかし耀我は侵入者を惑わす汐留トンネルの魔性を振り切り、14Rのアクセルを緩める事無く突入した。トンネル内に滞留した熱気が耀我を包み込む。

 

 インからの緩やかな右コーナーはすぐに終わり、続いて短い直線の後、角度が変化する左向きのスプーンコーナーが待ち構えているのがこのトンネル区間の特徴である。

 

 注意すべきは切り替えしの左コーナー。緩やかなスピードであれば僅かに視界が遮られる程度のウォールでも、アタックを仕掛けインコースを攻める耀我にとってはトンネル内の外壁に従って沿うこの切り替えしは高速ブラインドコーナーと化す。

 右コーナーのRが弱まり直線へと変化する。

 視線を左に向け、進路を確認。一般車の姿は見えない。

 耀我は得心するとアクセルを緩ませ、間髪入れず腰の重心をずらし、進入時に体を傾けていた方向と重心を反対側に向け、再びアクセルを絞る。

 張り付くように左コーナーにつけると路面から立ち上った熱気を巻き込んで、14Rをコーナーインさせる。

 遠心力と後輪からのトラクションによって、深いバンク角を維持し耀我はアスファルトに膝をこすりつける。

首都高に無数に点在するトンネル郡において短い距離に分類される汐留トンネルだが、今の耀我にとってはこのトンネルが遥か深淵へと続く出口の無い洞窟のように思えた。

 正面から吹き荒ぶ熱風と腹に抱えたエンジンの熱、充満した排気ガスによる臭気等様々な障害が、耀我の意識に揺さぶりをかける。

 

 しかしその様な悪条件の中でも耀我はコンセントレーションを保ち続け、自らが駆る14Rと同化したかのように一切の動揺を見せずバンク角を一定の角度に傾けたまま姿勢を乱さない。

 猶予は無い。しかし余裕は保つ。限界ギリギリの目一杯ではなく僅かに“あそび”を残して攻める。

 耀我は自らに語り掛けながら、平静を保つ。

緊張のあまり呼吸が浅くなっている。深く長く、路面のコンディションに合わせて呼吸を繰り返す。

 ウォールが視界から捌け、前の景色が開けたものへと変化する。

 オールクリアとはいかないが、一般車の数はまばらだ。

 アクセルオン。地面を蹴り上げる衝撃が怒涛の如く耀我の全身を貫く。ブレる体とスリップするタイヤを必死に制御しながら、耀我は一般車の間を掻い潜る。

 

 後方のトンネルから咆哮が響き渡った。

 その瞬間、耀我の肌は粟立ち、心拍数が急上昇する。

 王道のV8エンジンから吹き上がる腹に響く重厚感のあるサウンドは、離れた位置かつ14Rの爆音の中にいる耀我でさえも関知できるほどの存在感を誇っていた。

 耀我はちらりとサイドミラーから後方を確認する。

 特徴的な黒のスリットペイントを施された真紅の巨大な体躯。

 それまでのシリーズとは一線を画し、異形と称された日本車然の丸みを帯びたデザイン。

 爆音を轟かせるシボレー・カマロ4代目Z28は、後方よりその大きなボディで周囲の車両を力づくで掻き分けるかの如く驀進する。

 ボディカラーの煽情的な赤色が夜の首都高に彩りを加える。

視界の両側を挟み込むビル郡が消失し、開けた視界の先には東京湾とその直上に掛かる七色に照らされた巨大な橋が眺望できる。芝浦と台場を結ぶ全長七百九十八メートルの吊り橋。東京港連絡橋、通称レインボーブリッジである。

 一旦新宿に向かって芝公園の出口から出る。 

 耀我は即座に右足を踏み込み、リアブレーキを作動させた。

 14Rのリアタイヤから煙が上がる。車体を大きく右に揺らし、浜崎橋JCT・湾岸線とC1の分岐にて車線を変更。進路を新宿・渋谷方面に向ける。カマロは14R車線変更に追従し、それに併せた。

 14Rは連続するカーブの入り口に差し掛かり、フロントブレーキを入れた。その作用で荷重が前方に移る。

 同時に、14Rは派手に後輪を派手に揺らしドリフトのきっかけを作った。

 メガスポーツの大柄なボディを振り回し、大排気量のエンジントルクに伴う豪快なスリップ痕をC1に刻み込む。

 その後方よりカマロの五メートルを優に超える巨躯が、決して広くは無いC1の二車線に渡ってスライドする。

 外回りの浜崎橋JCTから伸びるC1の侵入口と内回りの浜崎橋JCTから湾岸線へ伸びる侵入口が交差した。

 後方のカマロはインの挙動こそ荒々しいという言葉を体現するのに相応しい動きであったが、続くコーナーアウトは整然とした印象のグリップ気味のドリフトでクリア。度々聞こえていたスリップ音は巧みなアクセルワークによって相殺され、ドリフトとグリップの中間という理想的なタイヤスライドの収まり方をカマロは無難にこなした。

伊達や酔狂で転がしてるってわけじゃねえってか

耀我は心の中で舌を巻く。重厚なアメ車相手にC1という複雑なステージかつバイクである自分のアドバンテージを耀我は過信しすぎていた。

カマロは重量のあるボディのハンデを特徴として生かし、立ち上がりにおいて、エンジン出力と車重を相乗したトルクによるド迫力の立ち上がりの猛威を後方の耀我に見せつけるかのように振るう。ずしりとした衝撃と、ぐんと伸びる立ち上がりの所作はまるでカタパルトから射出される戦闘機の威容を髣髴とさせた。

 カマロ車高が大きく変化する。タイヤは接地しているが、トラクションと共にリアタイヤが深く沈み込んだ。

 ミラーから覗くその様子は耀我に印象深くに映った。

 走らせ方は上手いけど、車体が跳ね過ぎる。多分C1用のセッティングじゃない。コーナーだと足回りがネックで思いっきり振れないだろう

 コーナーアウトからの立ち上がりはカマロに分がある。しかしコーナーインの挙動は収まりこそ良かったものの、突っ込みは派手でとっ散らかっていた。直線の加速力はほぼ互角。長めのストレートなら14Rに分があるだろう。だがそもそもC1というステージに於いて14Rが後続のカマロを振り切れるほどの加速が可能なストレートがいくつあるだろうか。

 耀我は後ろを走るカマロのトラクションを見て一つの推論を立てる。

 次にカマロが前に出るタイミングがあれば、それはカマロが大きくスピードを落として突っ込みの態勢に入るコーナーインのタイミング。あのトラクションを活かすのならばコーナー序盤の突っ込みは多少の減速を覚悟しても安定させ、立ち上がりからの加速を狙うはず。

 なら突っ込みからの立ち上がりの間の旋回時間を僅かでも短くして向こうが体勢を整える前にこちらの加速力をフルに活かして一気に芝公園出口を抜ける。

 耀我は後のカマロから如何に逃げ切るかのプランをシミュレーションする。

 浜崎橋からしばらくは車線の本数が二本と少なく、コースも直線気味である。目立ったコーナーは無く、減速するポイントといえば芝公園出口付近に限られてくる。

 一般車の流れがクリアであればバイクなら減速無しでも抜けられるコーナーであり、そこから一直線に出口から一般道を抜けられれば、立ち上がりに注意するカマロから逃げ切れる。

 街頭に照らされた一般車のボディと輝くテールランプが相乗し、耀我の目にはそれが自らの進むべき道筋に見えた。

 進路を塞がれつつも、耀我は自らの愛機14Rの勢いを殺す事無く、車両間の僅かな隙間を狙って突っ込んでいく。

 擦過する車両の表面に自らの姿が反射し、写し出された鏡像の自分と視線が交差する。


 首都高都心環状線外回り芝公園付近。

 芝公園出口まで残り二百五十メートルを知らせる看板が正面に見えた。左手にはライトアップされ、様々な色へと変容する東京タワーが耀我達を見下ろしている。

 カマロと14R、二台の距離には殆ど差が無い。厳密にいえばジリジリと14Rの方が逃げているが、一般車を躱す際の若干の失速によって逃げ切ることがままならない状況なのだ。その差は三十メートル。

 14Rは左車線をなるべく意識した走りで走行を続ける。カマロはそれに追従するが、出口まで残り二百五十メートルに迫ったこの距離では14Rに並ぶことは不可能であろう。

 芝公園出口前のコーナー侵入。一般車の姿は無い。耀我はウォールから覗く前方の様子を見てスロットルを絞り14Rを加速させた。

 コーナーを抜けるとすぐに左側には芝公園出口へ通じる減速車線が見える。

 しかし、耀我は首都高から降りることはしなかった。いや、降りれなかったのだ。

そこには高速道路パトロールカーと車両通行防止の為のコーンや誘導灯・看板が設置されており、看板には【落下物処理の為一次通行止め】の表示が見える。

 うおっ

 耀我は慌てて左の減速車線へ寄せた車体を、再び本線へと戻した。

 その隣からぬうっとカマロが姿を現す。カマロは左車線にその車体を寄せており、14Rは壁とカマロの間に挟まれた形である。

 しかしカマロの距離は離れない。むしろカマロはじりじりと14Rに近づいてきている。このままでは壁とカマロに挟まれるであろう。

 てめっふざけんな! 

 耀我は思わず右足でカマロを蹴り上げる。

 しかし並走するカマロは耀我の足蹴をまるで予期していたかのような図太さで動じず、路面のバンクや一般車を躱しながらも続けて14Rの横にぴったりと張り付く。

 車内から覗くカマロのドライバー表情に余裕は無く、必死そのものであった。

 恐らくは直接手を下すつもりではなく、プレッシャーに押し負けた14Rがバランスを崩しウォールヒット、単独事故を起こした構図にしたいのだろう。

 耀我は目視で確認できる進路から先のコースを思い出す。

 この先の一ツ橋JCTまでの間は内回りと外回りの高低差が入れ替わる為、若干の直線があり高架自体も下りでスピードは出し易い区間となっている。

 だが、一ツ橋JCTを過ぎると高速二号目黒線との合流区間が存在する。この合流は右ブラインドコーナーを抜けた先にあり、C1本線と目黒線の加速区間は短く、また目黒線からC1への合流する際の加速区間は直線の為、合流する一般車の殆どは猛スピードで突っ込んでくる形となる。

 目黒線から合流してくる車両の殆どは、車の流れを止めないように最低限の後方確認のみ行い、一気に加速してC1本線との合流を図ろうとする。

 つまり、このまま左車線に寄せられたままだと壁と激突するか、合流車線の一般車に巻き込まれるかもしれないという事だ。

 耀我がこの状況を脱する為には芝公園出口を過ぎた先での勝負所である一ツ橋JCTの目黒二号線の合流前の右カーブにどれだけの速度で突っ込み、一般車に左右されず加速して立ち上がるしかない。

 しかし隣を走るカマロもその考えは理解しているのか耀我の隣を張り付いたまま離れようとしない。

 幸か不幸か、前方に一般車の姿は見えず、コースはクリーン。

 耀我は息をすうっと吸い込むと、再び右足をカマロに向かって蹴り上げる。

 しかし、今度はカマロのドアではなく、ウィンドウに爪先は向けられた。

 派手な破砕音が響き、カマロのドライバーシート側のドアガラスが木っ端みじんとなる。流石のカマロのドライバーもドアガラスが割られることまでは予想外だったのか動揺し走行姿勢を崩す。

 耀我はその隙を逃さず、カマロとウォールの間から脱出する。

 カマロの妨害もあったせいか目前にはコーナーが差し迫っていた。やるしかない、と耀我は覚悟を決める。

 14Rとカマロはそのまま右コーナーに突入。法定制限速度であるならば緩やかに見えるこの右カーブも、制限速度の約三倍で旋回する二台にとっては急カーブも同然である。

 カマロのステアリングが深く切り込まれる。グリップとドリフトの微妙なバランスで成り立っていたカマロのコーナリングが完全にドリフトに変わる。

 右より突っ込んだカマロのテールランプが14Rに迫る。耀我もカマロに倣いリアタイヤ滑らせ、ドリフトの体勢を取る。

 思った通り。カマロは立ち上がり重視の突っ込みと深く沈むダンパーの為、14Rに比べてコーナーインの速度が落ちる。

 意図せずのパラレルドリフト。カマロか14Rどちらかのバランスが崩れればウォールヒットは確実。

 下手をすれば14Rはウォールを飛び越え、高架下の地面に叩きつけられるだろう。

 耀我は嫌な予想にライディングを乱されまいと、必死でハンドルとアクセルを制御し、ドリフトの角度の維持に努める。

 同じ様な考えがカマロのドライバーにも伝播したのであろうか。カマロのコーナー角度が乱れ、テールがじわじわとアウトへ膨らみ始める。

 カマロのドライバーは必死でステアリングとアクセルを制御し、サイドミラーで山形の位置を確認する。

 じわじわとカマロの赤い車体と灰色のウォールに挟まれていく耀我と14R。あわや挟み込んで接触かという時、短くも長かったブラインドコーナーが終わり眼前にはストレートが開ける。

 カマロはアクセルを駆け直し、一気に加速する。横ばいになったカマロは車幅全体を使い、コーナリングに要したパワーを直線加速に要する八十kgfmの最大トルクで相殺する。しかし完全には横を向いた車体を縦に修正することはできず、白煙を撒き散らしながらずれ込んだ入射角のまま合流出口まで滑る。

 車体とウォールの隙間はすれすれであり、非常用電話を備えた柱がすぐ脇を過ぎた。

 カマロのドライバーはバックミラーやサイドミラーなど周囲を確認する。14Rはどうなったのであろうか。まさか自らが接触したことによって事故を起こしているのでは無いのだろうか。熾烈なバトルによって加熱した思考がカマロのドライバーの思考が一気にクールダウンする。

 14Rが追跡するプレッシャーに押し負け単身事故を起こせば、救助の姿勢を取りつつ自分達の姿が収まっているであろうカメラやメディアを回収するのがベストである。直接の接触による事故は自分達の望むところではない。カマロのドライバーは慌てて周囲に視線を配る。

 しかし、周囲に14Rの姿は無かった。無論吹っ飛ばされた際に生じるであろう欠片や残骸の一つも路上には転がっていない。この状況にカマロのドライバーは混乱した。

 先程のコーナリング中、14Rは間違いなくアウトサイドにその姿を寄せていた。そして自らが駆るカマロと一ツ橋JCTの目黒二号線のウォールに挟み込まれる形でいた。右コーナーのクリッピングポイントで既にギリギリの車幅であった14Rの逃げ場は後方しかない。前方に出ているのであれば間違いなく気付く筈であるし、そもそも車幅一杯を使ってドリフトを相殺し立ち上がり加速に入ったカマロの前を出ることなど到底不可能である。


 カマロのドライバーは、先程まで再接近していた際に鳴り響く14Rのエンジンサウンドの残滓が取れないままでいると思っていた。

 しかし、その残響は余りにも克明に今でも耳を穿っており、その証左に肌は粟立っている。左と右で聞こえ方が違う。それに気付いたカマロのドライバーは左側を振り向く。

 そこにはエキゾーストノートを響かせ目黒合流線を走る14Rがいた。

 カマロのドライバーは驚愕と共に、なぜ14Rがそこにいるのかを瞬時に理解した。確証は無く、状況証拠のみを集めた突拍子も無い考えではあるが、14Rがカマロと並走しているこの事態を説明するにはその考えしかなかった。


 道幅一杯を使ったカマロの脇に密着していた14Rは、その逃げ道として、目黒二号線合流口の飯倉出口を示す看板が掛けられた柱と非常用電話を備えている柱の間にある隙間を使ったのだ。普通自動車であれば一台分が収まる程度の幅。バイク等サイズの小さいものであるのならばその間のすり抜けも容易であろう。しかし、下に恐ろしきはそのコースを選ぶ人間離れした胆力と判断であろう。

 時速百五十キロを越えた速度でのコーナーワークに加え、分厚いカマロの車体と固い壁に挟まれた数センチの隙間しかない状況でも動じず走り続ける胆力。

 カマロがコーナーからの立ち上がりでどの程度道幅を使って立ち上がるのかを予想し、その走りを如何に妨げず自らもベストなコースとして二つの柱の間にある僅かな隙間を選択して抜けるという判断力。

 カマロのドライバーは呆然とした表情でアクセルを抜く。

 目の前で起きた異常事態に、最早追跡等といった考えはカマロのドライバーからは消えていた。

 驚きと安堵による虚脱感が、ステアリングを握る手の力をも和らげた。

 アクセルオフによる不安定な減速とステアリング保持力の低下によって、カマロの走行姿勢は横滑りの不安定なものへと一変した。

 減速したとはいえ時速百キロを超える速度でスライドしたカマロ。気が付いたカマロのドライバ―の対応も虚しく、もはや車内からの操作は効かない状態であった。やがて暴走するカマロは高速二号目黒線の合流口で運動エネルギーを喪失し完全に停車した。

ウォール等にヒットはしていない為、車体の見える範囲でのダメージは無いが恐らくアーム類がイカレたのか動かない。

ドライバーは無意識に止めていた息を吐くと、それに従い全身の力が抜ける。後部座席の男女も同様に極限の緊張下から解放されたためかげんなりと肩を落としている。

 カマロのドライバーはステアリングに預けていた体を起こし、顔を上げる。そこにはカマロのヘッドライトに照らされた白く煌めく14Rと、それから降りてこちらにスマホを向けている耀我の姿があった。

 フラッシュが何度も焚かれ、意識を取り戻そうとする思考がフラッシュの度に霞んでいく。もはやカマロの車内にいる面々には自らの姿を隠そうとする気力を持つ者はいなかった。

 何度かスマホにその光景を収めると、耀我は再び14Rのグリップを手に取る。

 マフラーから白煙を上げ、スキール音を掻き鳴らしながら14Rはライダーを乗せて走り去っていく。

 カマロの後ろでは高速二号目黒線から合流にしようとする車が立ち往生しており、渋滞が始まっていた。

 カマロのドライバーは動く気力すら沸かず、走り去っていく14Rの様子をただただ眺めている事しかできなかった。

 

 


 締め付けるような痛みが、胸の中心を刺激する。

 息を吸う毎に胸の重みは増し、息を吐く毎に痛みは鋭くなる。

 それと比例し、思考は段々鋭くなり、無駄な意識は削ぎ落とされていく。

 周囲を囲む闇と、暴力的な速さで流れ行く景色に意識が融和を始める。

 しかし、絶え間なく体に与えられる脈動と、蒸気を生み出すほどの熱が自分と言う存在をはっきりと認知させる。

 左右3本に伸びたチタンの鋼管。

 虹色の輝きを表面に反射させ、空気を切り裂くボディ。

 宙に浮んだ紅蓮に輝く光の筋。

 マシンはその光跡を追い、まるで糸を手繰り寄せるかの如く進む。

 眼を凝らせ。

 獲物を逃すな。

 恐怖を無くせ。

 自分の目的を思い出す。

 柔らかで虚ろな意識から、堅実で存在感を持った現実が戻ってくる。

 再び聞こえ始めたスキール音。

 両手に戻ってきたハンドルの感触。

 体中に血液を送り込む拳大の心臓。

 切り裂いた風の残滓を一身に浴びる肌。

 眼前へと迫り来る灰色の壁――――。

『くっ』

 研ぎ澄まされた意識の下、視界に飛び込んできた威圧的な塊を前に白黒の視界は一気に色彩を取り戻す。

 目の前には進入してきた者をすべて圧壊させる頑健なコンクリートの壁と、ガラス張りのビルが待ち構えていた。

 反射的に右掌のブレーキレバーに掛けていた四指に力が篭る。

 衝撃が体中を駆け巡り、体表が圧に包まれる。それと連動するように正面のディスクブレーキからは甲高い制動音が響く。

 

 制動とほぼ同時に右足へ瞬間的に力を込める。その動作に応じてリアブレーキが作動した。

 横滑りする視界。

 その先が閉塞的な灰色の壁から開けた空間へと変化した。

『今だ』

 コーナーを抜けた先に見える直線に体が即座に反応した。ライダーは右手・足の力を解き、再び右手をグリップに持ち帰ると一気に捻る。



箱崎PA


C1内には厳密に言えばPAという場所は存在しない。これはC1がC1周辺に存在する各路線を放射状に接続するための役割で建設された環状線である為であり、そもそも快速時ならば一周15分しかかからない短い距離に長距離運転の休息所としての役割を持つPA設ける意味はあまりないためである。

ここ箱崎PAも厳密にはC1内に存在するPAではない。しかし、首都高速道路6号向島線上りが接続する箱崎JCTはC1を構成する一端を担っており、また向島線からC1への復帰は容易である為、ここを休憩所や集合場所として利用するC1利用者も少なくない。

 耀我もまたここ箱崎PAを休憩所として利用する者の一人であった。

 先刻までカマロと熾烈な争いを繰り広げていたパールホワイトの14Rの姿はPAの立体駐車場内にある駐車スペースに在った。周囲にはカンカン、とエンジンの焼きつきの音が響く。

 鎮座する14Rのすぐ傍ではヘルメットを抱えた耀我とスマホの画面をのぞき込んでいる金髪とメガネの2人の青年の姿があった。

いやー! いいもん撮れてる撮れてる!

スマホの画面には先ほどまで繰り広げられていた耀我の駆る390Dukeとカマロのレースを真正面から捉えた動画が表示されており、金髪の青年はスマホの動画を見てにんまりと満足気に笑う。

ストリートレーサーとマッスルカーによるC1ドッグファイト。ベタだけど中々誰も手を出さない王道の組み合わせ。いいもん撮らせてもらったわあ、ありがたやありがたや・・・・

ベタだけど王道、じゃねえよ。死ぬかと思ったわ

あからさまに機嫌の悪そうな表情を浮かべ、耀我はスマホに夢中な金髪の青年の頭を思い切り叩く(はたく)。

ぐあっ

頭を叩かれた金髪の青年――――間柴悠は思わず声を上げる。

お前さ、最初に言ってたよな。どうせガチでやり合うわけじゃ無いから、気楽に散歩気分で逃げてればいいよって。どこが散歩気分だよ。ガチガチに追ってきてんじゃねえか

ンなこと言ったってしょうがないじゃない。向こうは本気で来てくれたんだからこっちもそれに応えないと

悠は耀我に向かって文句を垂れながらスマホの画面をスライドする。

動画の時間が巻き戻され、耀我をすれすれで撥ねかけるカマロ、耀我とカマロのバトルから首都高を流れる景色、きらびやかな都内の光景とその景色を反射させながら走ってる390Dukeとカマロが映っている。

でもさ、結局今こうして話してるんだから問題ないっしょ? むもんだいむもんだい

一見すると同年代の少女の様にも見える整った顔を耀我に向けると、悠は悪びれる様子も無く笑顔でオッケーマークを指で作る。

非常に明るい悠の笑顔と意味の異なる言葉が耀我の怒りの感情のスイッチを入れる。

無問題モーマンタイだろうが、間違えてんだよバカタレ

え? 何? ぐあああっ

耀我は場違いなほどに笑顔な悠に対してスリーパーホールドを決める。先ほどまでの笑顔と一転、真っ赤になりわざとらしく息を求めるかのように頬を膨らます悠の表情を見て、耀我は呆れながらもしっかりとけじめを付けさせる。

この間柴悠という男の趣味は動画投稿である。大手動画投稿サイトにて不定期ではあるが頻繁に動画をアップしている。

投稿のきっかけは耀我の駆る390Dukeを主題とした短編映画風にまとめ上げようという悠の発案により作成されたPVがSNSでヒット。その後はSNS等で話題になっているチューナー・チューンドカー・バイク等とコラボし、また個人間で依頼のあった動画リクエストに応えたり、レーベルに属していないアーティスト等の曲に載せたPVを作成していると言った活動が主である。

ぷしゅーっ・・・・・・

お疲れ

悠に一通りの制裁を終え、息を吐く耀我の前に缶コーヒーが一本差し出される。

耀我の視線はコーヒーを差し出している同じくT3に所属する友人の高橋時雄の顔に向けられた。時雄の将来の夢は映像作家希望であり、T3では映像構成を担当している。結成のきっかけである390Dukeを主題としたPVの撮影・監督も時雄の手によるものである。

耀我はスリーパーで地面に沈んだ悠を横目に、胸に留めていた空気を吐き出すと傍に停車している14Rの正面で腕を組んだ。先程まで自分の半身であった存在を感心した面持ちでまじまじと眺める。パールホワイトのボディには未だに強張った自分の顔が浮かんでおり、耀我は未だに自分の緊張が解れきっていないことを自覚する。


とりあえず、今回のお仕事の前払いってことで

金はいつ入んの? 

写真の出来次第で確認って所だから、早ければ明日とかかな? まあこの映り具合なら文句はないだろうけどね

悠はふと耀我から視線を動かし、耀我の足元と愛機の14Rに視線を移す。

耀我もそれに合わせ、視線を14Rと自分の足元へ交互に見比べた。愛機14Rの車体右側には擦過痕と思しき傷が見え、右足の太ももからふくらはぎにも同じ様な傷が付いている。先ほど目黒二号線合流口の柱の間にある隙間をすり抜けた際に付いた傷痕である。

うわーいたそー

おめーのせいだろ、てか別にケガしたわけじゃねえし

痛みなどは無いが、この傷を意識したのはこの駐車場に到着して暫く経った頃であり、万が一のことを考えると背筋がひやりとする。いつもバトルとなると文字通り“身を削って”の争いとなる。寧ろ耀我はそうして付いていく傷に少し誇りに似た感情を持っていた。

耀我は悠の手からコーヒーを受け取り開栓して口をつける。

耀我がコーヒーに口をつけるのを見届けると、悠も自らの手に持ったコーヒーを呷る。

焙煎された苦味が口中に広がり、耀我は疲弊した体にカフェインが染みこむの感じた。

まあ・・・・必死だったと言うか・・・・ギリギリだったけど

カフェインが浸透するのに連れてふくらはぎの擦過痕に熱が帯びてくるのを感じた。痛みではない。ギリギリだった証明が形となって残っている。その事実を今頃になって意識し、緊張で心臓が高鳴る。


 向島線上りに面したこのPAは、駐車場内から外を走行する車両の様子を見ることができる。耀我はその場に座り込み外の景色を眺める。

 相も変わらずクルマの流れは絶えない。無尽蔵に次々と現れては、似たような車種のクルマたちが視界を端から端へと駆け抜けていく。

まるでループする映像の如き光景だが、その様子は不思議と飽きることはなく、寧ろ心地よい騒がしさが先ほどまで荒立っていた闘争心を落ち着かせてくれる。

 人の声がしない。ただタイヤがアスファルトの上を転がる音とエキゾーストノートが聞こえるだけ。

 自分以外の気配を感じない、煌々とした白色灯に照らされる立体駐車場は耀我の孤独の世界への没入感をさらに高めた。

 しばらく宙を眺めていたが、不意に時間の存在を意識しスマホの画面を見る。時刻は午前二時半を指していた。

 そろそろ出るか

 お、了解

 耀我は踏ん切りをつけて立ち上がると傍の14Rに跨る。

 キーをセットして回すが、セルがかからない。

 あれ?

 どったの? 

 あきらめず何度か試すものの、あと一歩というところでセルが回転せず、エンジンがかからない。

 おいおい嘘だろ。マジか

 先ほどカマロのぶつけられた部分に目が行く。体感的にはそれほど衝撃は感じなかったが、セルモーターに異常が起きているのかもしれない。

 え、壊れたの

 わからん

 かかれかかれかかれ

 耀我は念じるように呟く。

 キーを再び回すと、タコメーターの針がそろって左から右へ扇状に動作した。

 七度目のスタートで耀我の耳に伝わる音がセルが急速に回る音から、太く力強い振動にエンジン音へと変わる。

 耀我は確認のためグリップを2度回し、ブリッピングによってエンジンの回転を確認する。

 駐車場のしんとした雰囲気をつんざくような圧を持った爆音が周辺に響き渡る。音を聞く限り、異常は無さそうである。

 焦ったぁ

 耀我は跨った体をくの字に曲げ、安堵の息を吐く。このまま動かなければレッカーを呼んで運んでもらうところではあるが、深夜に少年が首都高で大型バイクに乗っている状況を関知されるリスクを考えるとそれだけは避けたかった。先ほどまでエンジンが始動せず憎らしく見えていた14Rが、今は愛おしく見えて堪らない。

 耀我がハンドルに掛けていたヘルメットを手に取り、ワイヤレスイヤホンを耳孔に差しこもうとした時だった。

 甲高い音が聞こえる。

 一瞬耳鳴りかと思ったが違う。ジェット機や新幹線の音にも似ているが、それよりも遥かに高く、所々で音が可聴域を超えてぷつぷつと途切れる。

 耀我はヘルメットを元の場所に置くと、バイクから離れ立体駐車場入り口まで足早に戻る。

 聞いたことのないような音だが、徐々に音を捉えられ始めている事から、音の正体がこちら側に近づいてきている事は判断できる。

 PA入り口側を向くと、一台の車両がロータリーに入ってくる。

 清州橋IC方面より白の外国産SUVクーペが侵入してきた。思わずそれを目で追うが、高い音はまだ続いていた。

 しかも先程までとは異なり、よりはっきりと大きく聞こえてくる。

 その音量が左右の耳で若干、ほんの僅かな差異があることに耀我は気が付くと、音の大きな方である箱崎JCT方面に向かって反射的に首を振っていた。


 煌々とした輝きが耀我の視界を横一閃に切り裂く。

 

 爛然と煌く鮮やかな虹彩。

 波打つような印象を与える鋭利で細長く有機的な塊。

 白煙の尾で弧を描きながら、“それ”は箱崎JCTとPA入口への合流である交差点に横滑りで侵入して。

バイクだ、と耀我は目に飛び込んできた存在に対して直感的に感じた。

 何故ならその存在の前後には二つの車輪と思しきものが付いており、先端の尖った形態からしてフルカウルのバイクということが判断できる。

 しかしその見た目はバイクと呼ぶには余りにも異様であった。全長は軽トラック一台分と等しい長さを誇っており、ライダーは“跨る”というよりバイクの空力パーツの一つとして“収まる”というライディングポジションをとっている。そして何よりも印象的だったのは、ボディのカラーである。

 表面の色彩は見方によっては赤や青、金や銀になど反射する光によって輝きを変える光ディスクの裏面の様な虹色であった。

 

 その邂逅は一瞬であった。何が起こったのか理解できず、一切の思考が混乱の渦によってかき消されていく。しかし、その姿は一瞬の出会いに於いても視界は愚か脳裏にまで焼きつくほどに鮮烈であった。


音も衝撃も僅かに遅れて、耀我の元に猛烈な勢いで訪れる。

鼓膜が張り裂けそうな程の高音と腹に響く衝撃。PA全体が竜巻にでも包まれたかのような突風に襲われれ、耀我は荒れ狂う暴風に飛ばされない様に踏ん張っていることが精一杯であった。

うおおお、何だあれ



直後、がしゃん、と後ろから何かが倒れる音が聞こえる。

衝撃に打ちひしがれる体に気を入れ、耀我は振り向く。そこには転倒した14Rの姿があった。

しばらく茫然自失となっていた耀我であったが、不意に意識を取り戻すと、14Rのもとへ慌てて駆け寄る。

ようやくエンジン動いたのにぃ

引き上げた14Rは幸いなことに、まだエンジンが始動したままであった。表面にもダメージは

耀我は安堵の息を吐くと、先ほどまで自分が元居た位置を振り返る。まだ周囲の空気は轟音の衝撃が残りピリピリと振動しているかのような感覚に苛まれる。

(あのバカっ速い奴、なんだったんだ・・・・)

  


 首都高湾岸線辰巳第一PA。

 普段は改造車などが立ち並ぶこのPAも平日の深夜の時間帯は閑散とした空気に包まれいた。

 虹色の輝きを放つ異形のマシンの姿は、この場所にあった。

 そのマシンは、バイクと呼ぶには余りにも異様であり、しかしながらその姿はバイクとしか形容することのできない形である。

 光ディスクの様な輝きを表面に反射させ空気を切り裂く、軽自動車一台分の全長を誇る巨大なボディ。

 厚いボディに内蔵された12気筒のエンジンと、そのエネルギーを放出する左右3本に伸びたチタンの鋼管。

 地面に喰らい付き、その巨躯とは裏腹に軽やかなライディングを刻む前後合わせて四・本・のタイヤ

 何もかもが現実味を帯びないそのマシンは、しかしながら現実に存在する証を立てるかの如く、長く続く湾岸線の宙に光の軌跡を刻む。

 マシンのライダー

 虹色の輝きを誇る車体の内側より、12気筒の咆哮が唸りを上げる。

その先には巨大な影が幾重にも天空にそびえる巨大な都市が見えた。

その中心は赤々とした、血のような光が浮かんでいる。

茫洋とした赤に染め上げられたビル群。

東京の中心を取り囲む緋色のカーテンに向かい、マシンは虹色に輝くその姿を全て紅蓮に染め、姿を消した。

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