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「お兄ちゃん!これ!タコ!タコすごい美味しいよ!」
「ん、ほんとだ。タコってこんなに美味しかったんだな」
露天風呂から部屋に戻ってきた俺たちは、テーブルに並べられた豪華な海鮮料理に舌鼓を打っていた。
たこ、うまい。食感は元から好きだったけど、なんというかうまみがあるれてくる。最高だ。
「あ、それ俺の金目鯛!」
「すぐ食べない方が悪いんです〜。というか、タコ食べ過ぎだから!私の分なくなっちゃう!」
本当だ。まぁ、タコうまいからしょうがないね。
「おー!このマグロ今までで一番美味しいかも!」
満面の笑顔を浮かべて、美味しそうに箸をすすめる幸。その姿に俺は、なんというか懐かしさを感じた。
「何かいいことあった?」
「んー秘密!」
グッ、とサムズアップして答える我が妹。秘密と言いながら、良いことがあったのは隠す気がないらしい。タイミング的にも、沙織と何か良いことがあったのだろう。
「ご機嫌なら何よりだよ、お嬢様」
「そ、今日の私はお嬢様だから。言ったよね?これはデートだって。ちゃんとご機嫌取りしてね?」
はいよ。そう軽く返す。デートという言葉に対する軽い動揺は、兄という矜持にかけて隠し通す。
「なんか久しぶりだな、こんな感じ」
「そうだね。ほんとに、ほんとうに久しぶり」
幸という人物は、俺の妹はワガママなのだ。まさに我が家のお嬢様で、今思えば「あの頃」は、家族全員が幸のわがままに振り回されてた気もする。
彼女は我が家の中心だった。
「ほんとに、美味しいね」
「そうだな」
そこからお互い、特に言葉を発することなく時間が過ぎてゆく。箸の速度は変わらずに、二人の間に流れる時間だけはやけに短く感じた。
だけどそこに気まずさはなく、かといってありきたりな言葉で表すには足りない、兄妹特有の空気が流れていた。
そんな時間がしばらく進んだ。
食器が下げられ、何となしに電源を点けたテレビを二人で見て、再び温泉に入って、そして戻ってきて。
それがある種のカウントダウンであることを、お互いどこかで分かっていた。彼女は何かを決意して、それを打ち明ける機会を待っていた。
そして二つ並べられた布団に潜り、電気を消して何分かが経った頃。ぐいっと俺の布団に潜り込んでくる存在が。
お嬢様の表情は暗くてわからないが、見ようとしてもそれは阻止されるだろうし諦める。
「うるさいお兄ちゃん。黙って」
「まだ何も言ってないだろ」
脇腹をつねってきながら、理不尽な要求をするわがまま姫だが、単なる照れ隠しなのは分かっているので、それ以上は何も言わなかった。
「私ってさ、わがままだと思う?」
それはどういう意図で放たれた問いだろうか。それは今日の話なのか、それとも最近のことなのか、それともかつての妹としての問いだったのか。
答えに迷った俺は、少々ズルい答えを返した。
「仮にわがままだったとしても、嫌ったりしないから安心しろよ」
自分で言っておいてなんだが、かなり青くさい返答である。じわじわと羞恥心が湧いてきて、暗闇でもわかるんじゃないかってぐらい、俺の顔は赤くなっているだろう。
「きも」
短く一言で返す幸。しかしその言葉とは裏腹に、その声色はなんだが楽しそうなものだった。
俺が誤魔化したのにも気づいているだろう。でもそこを追求してこないあたり、答えとしては及第点だったのではないだろうか。
「じゃあ、いっか」
幸は俺のお腹の方に腕を回してきて、顔を背中に埋めるように抱きついてきた。
幸はいつも、大事な話をするときにこうして顔を隠す。今まではあまり意識していなかったが、これは幸なりの甘え方なんじゃないかって思った。
だから俺は、兄として妹に向き合わなければいけない。
じゃあ、いっか。何がじゃあで、何がいいのかなんて分からない。だから俺はただ正面から、幸の言葉に耳を傾けるだけだ。
幸の言葉を待つ。息遣いが鮮明に聞こえてきて、それは一抹の緊張をはらみながらも、どこか信頼の滲むような熱を感じた。
俺の前に回した腕に力が入り、そして彼女は言った。
「お母さんと、ちゃんと仲直りしてよ」
「……幸?」
その言葉に懐かしさを覚えたのは、きっとそれを言った本人である幸もだろう。
普通の親子だったのだ。かつても母と、喧嘩ぐらいはした。
それは幸も同様で、お互いにお互いが宥めあって、仲直りさせようと声をかけ合った。
でも今は違う。お互いに成長して、互いを取り巻く環境も状況も違う。
「お母さんだって謝ってるじゃん」
拗ねたような声でそう言う幸。そこには一抹の不安と、怯えと、久しく見ていなかった子供らしさが浮かんでいた。
わがままだなぁ。素直にそう思った。
だけどなぜだろう。どうしてこんなにも愛おしさが湧き上がってくるのだろうか。
「ほんと、わがままだな。お嬢様」
「うん。今日は、私が主役だもん」
だからね。そう言って幸は続けた。
「このまま離れ離れになんてなりたくない。本当は元の家で3人で暮らしたい。おじいちゃんたちのことは好きだけど、それでもやっぱり私は3人がいい」
「お兄ちゃんがどう思っていたって、私はお母さんが大好きだもん。もっと言えばね、お兄ちゃんと一緒にいるお母さんが好きだし、お母さんと一緒にいるお兄ちゃんはもっと好き」
「好きなんだからしょうがないじゃん。この気持ちを抑えられるわけないの。それぞれなんてやだ。みんな一緒で、みんな大好きがいい。綺麗事じゃない。そうじゃなきゃやだ。そうじゃなきゃダメ。私はそれ以外に認められない」
「今の私たちはそうじゃない。私は停滞なんて望んでない。その先に、1日でも早く、今すぐにでも辿り着きたい」
声を震わせながらも、涙を流さないように堪えているのだろう。彼女の腕から、背中から体に伝わる体温が、幸の想いを全身に広げていく。
「だからお兄ちゃん。わがまま、聞いて?」
俺たちにとって決定的で、
幸が自らタブーとしてきたであろう言葉で、想いで、
そして最大のわがままーーーー
「お母さんのこと、許してあげてよ」
その声はか細く、それでも心に響くような力強さがあった。
俺の意見を最優先としてきた幸が、こんな勝手なことを言ったのはいつぶりだろうか。
俺の意見を最大限尊重してきた妹の、こんなわがままを聞くのはいつぶりだろうか。
幸のことをこれほどまでに、「子ども」のように感じたのはいつぶりだろうか。
俺は振り返る。その足跡に、俺の踵は刻まれていたか?
背伸びしながら、ここまで歩いてきたのではないか?
(大人になんか、ならなくてよかったんだな)
お兄ちゃんは悪くない。お兄ちゃんは被害者だから。
そんな言葉たちよりも、そのわがままは不思議と大切に思えたから。その一声で気づけることがたくさんあったから。
彼女がこれまで封じ込めていた、純度100%のお願い。罪を自覚し、償おうとしていた彼女にとって、決して言ってはいけなかった言葉。
どのような葛藤があっただろうか。我慢して、塞ぎ込み、封じ込めてきたこの本音を曝け出すのに、どれだけの勇気が必要だったか。
美化しちゃいけない。幸にとって、きっとこれはスタートライン。
やっと踏み出せた、本来の軌跡。
ロジックなんて明瞭簡潔。謝ったんだから許してよ。
彼女の本音と、家族の形。きっかけはいつも幸だった。
幸はずっと我慢してたんだと、改めて自覚する。別にそれを自分のせいだとは思わないけど、これ以上そうさせたくないと、そう思えるだけの成長はできた。
できなきゃ、嫌だ。
「散歩でもするか」
「……へ?」
俺は照れ臭さを振り払うように、幸の拘束をやや強引に解いて立ち上がった。俺の突然の行動に困惑している幸の手を取って、立ち上がらせる。
「しようぜ?作戦会議」
「ーーーーうん!」
時刻は10時を少し回ったところ。あまり高校生と中学生が出歩くにはよろしくないとされる時間だ。
だけど今日は、今日という日ぐらいはいいだろう。
「なんだか、悪いことするみたいだね」
「まぁ、良い子ではないだろうな」
今度は俺から手を繋いで、俺たちは外に出た。
世界の色は変わって無かった。ただ、俺の見方が変わっていただけだった。




