第七話
その森では、風さえも夢を見る──。
そう語る者もいた。
人里離れた山の奥深く、昼でも薄暗い常緑の森。
名前は《ネムリの森》。
誰ともなくそう呼ばれたのは、森に一歩足を踏み入れた瞬間に広がる、深い、深い静寂のためだった。
そこに響くのは、鳥のさえずりでも、獣の声でもない。
葉擦れと水音と、そして……微かな、眠るような気配。
ミリアはひとり、静かに森を歩いていた。
目は閉ざされていても、空気の揺らぎや草のざわめき、木の幹を撫でる風が、行くべき道を示してくれる。
「……この森のどこかに、手がかりが……」
噂では、この《ネムリの森》の植物は「過去の記憶」を蓄えるという。
老賢者についての糸口を求め、ミリアはこの地を訪れたのだった。
しばらく歩いた先で、ミリアは足を止めた。
人の気配。けれど、声はしない。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
返事はなかった。
だが、足音がひとつ。ミリアの前に立つ気配。
一人の青年だった。
言葉を発することはなく、ただじっとミリアを見つめていた。
髪は緑に近い灰色、瞳は森の影のように深い。
簡素な衣をまとい、背に木の枝のようなものを携えている。
「あなたは……この森の人、ですか?」
青年は小さく頷いた。
彼の周囲の空気には、不思議な優しさがあった。
ミリアもまた、言葉を重ねず、そっと微笑んで応えた。
言葉にならないやりとり。けれどそこには、確かな理解があった。
青年は静かに歩き出し、ミリアを先導する。
やがてたどり着いたのは──森の奥にそびえる、一本の大樹。
幹は太く、かつては森の中心であったことを思わせる威容。
けれど、いまは枯れかけ、枝は力なく垂れていた。
「……この木は、眠っているのですか?」
ミリアが問うと、青年はゆっくりと木に触れた。
その指先には、優しさと、痛みが宿っていた。
それを感じ取ったミリアは、そっと木の根元に膝をついた。
そして、両手で大樹に触れる。
途端に、世界が滲んだ。
森に響く、笑い声。
まだ若い老賢者が、誰かと語らいながら、森に種を植えている。
「この木は、記憶を守る。……だからこそ、悲しみではなく、願いを込めて植えるんだよ」
傍らには、まだ幼い青年の姿。
言葉はなかったが、その目には、賢者の言葉をまっすぐ受け止める光があった。
森の樹々は、人々の想いを受け止めながら育っていった。
けれどあるとき、何かがあった──。
黒い風が、森を裂いた。
多くの木々が倒れ、記憶が風に飛ばされた。
老賢者もまた、姿を消した。
そして、残された青年が森の番人となった。
ミリアが顔を上げたとき、大樹がかすかに光を放っていた。
その幹には、消えかけた痕跡のように、老賢者の言葉が浮かび上がっていた。
「願いの記憶は、風に消えない。いつか誰かが、ふたたび触れるまで」
ミリアは唇を震わせ、小さく頷いた。
「……必ず、見つけます。あなたを」
隣に立つ青年は、やはり言葉を発さなかったが、そっと彼女の肩に手を添えた。
森は静かに揺れている。
こうしてミリアは、《ネムリの森》に刻まれた記憶の断片──
老賢者とこの森を繋ぐ確かな痕跡を手にし、ふたたび歩き出した。
その背を、森の番人は静かに見送った。
まるで、遠い記憶に託された約束が、ようやく果たされる日を迎えたように。