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第六話

夕暮れが湖を金色に染めるころ、ミリアは静かに祈祷院を目指して歩いていた。


足音すら吸い込まれるような静寂。やがて木々の切れ間から広がったのは、広大な湖と、その中央にぽつりと浮かぶ白い祈祷院──《サリエルの水面》。


その場所は、かつて水の精霊を信仰した者たちが建てたと言われる、心を映すための祈りの聖地。湖面に揺らめく白い尖塔は、まるで現世と夢の狭間に存在するかのように、淡くたたずんでいた。


「……ここが」


ミリアはそっと呟いた。彼女の目は閉じられていたが、空気の匂いと、足元に届く水の気配が、確かにその地を教えてくれていた。


岸辺にあった小さな舟へ乗り込み、手探りで櫂を動かしながら、ゆっくりと湖面を進む。水は驚くほど静かで、舟の揺れすらも穏やかだった。


やがて祈祷院にたどり着くと、迎える者の姿はなかった。ただひとつ、開かれた扉だけが、静かに彼女を受け入れるように風に揺れていた。


中は薄暗く、涼やかな空気が漂っていた。建物の奥、天窓から光が差し込む円形の部屋──そこに「水鏡の間」があった。


白い石に囲まれた空間の中央に、透明な水を湛える浅い水盤がある。まるで心を覗くために設けられた鏡のように、微かに光をたたえていた。


ミリアは静かにその前に立ち、しゃがみ込み、水面にそっと指先を触れた──その瞬間。


**


水を通して、誰かの記憶が流れ込んでくる。


深い深い沈黙の底で、記憶が芽吹く。

そして、静かに一人の青年の姿が浮かび上がった。


彼は白い祈祷衣を纏っていたが、その裾は泥にまみれ、髪も乱れていた。

頬はこけ、目の下には深い隈。

けれど、その瞳は、どこかまだ光を捨てきれずにいた。


──神官だった。

この地に仕える、信仰を司る者。


だが、彼の背後に広がっていたのは、沈黙と絶望に支配された村だった。


家々の戸は固く閉ざされ、道に人影はない。

時折、かすれた咳と、うめくような声が、風に乗って聞こえてくる。


疫病と飢え。

目に見えない何かが、人々の命を静かに、容赦なく削っていく。


青年は、必死だった。

祭壇に灯をともして祈りを捧げ、乾いた香草を炊き続け、何日も食を断った。

かすかな希望を手繰るように、古い経典の一節一節にすがり、神の名を何度も呼んだ。


けれど。


誰も、助からなかった。


子を失った母が、声にならぬ慟哭をあげ、

老いた者はぶつぶつと何かを呟きながら静かに横たわっている。


青年は、気づいてしまったのだ。

祈りは届いていない。

いや、もしかすると最初から、誰も答えてなどいなかったのではないかと。



「……僕は、間違っていたのか……?」


青年は、ひとり祭壇の前で崩れ落ちていた。

震える指先で石の床を掴みながら、懺悔のように呻いた。


「信じていたんだ。祈れば、きっと……救いはあると……」


唇を噛み、嗚咽を堪えようとする姿が、痛ましかった。

やせ細った体に、疲労と絶望が重くのしかかる。


「でも……何ひとつ、救えなかった……」


その声は、水底のように静かで深い。


「皆、僕を見た。……救ってくれるって、信じてた目だった……。でも僕には……何も……」


青年の視線は、空虚な天井を仰ぎながら、祈りにも似た言葉をつぶやいた。


「届かないなら……なぜ僕たちは祈るんだ……?」


──それは、信仰を捨てた者の声ではなかった。

それでも信じたいと願いながら、壊れていく者の声だった。


ミリアは、そっと胸元で手を組んだ。

彼の苦しみが、まるで自分の中に染み入ってくるようだった。


誰よりも、強く願っていた。

それなのに、報われなかった。

そのことが、彼自身を最も傷つけたのだ。



記憶の中の青年は、やがて涙を流すことさえやめ、静かに頭を垂れた。


「せめて……この痛みを……忘れないでいたい。誰かが、ここでこんな事があったと……知ってくれたら……」


それが、彼の最後の祈りだった。



ミリアは、目を閉じたまま静かに微笑んだ。

風が、水面をかすかに揺らす。


「……わたしは、忘れません」


その言葉は、誰に届くでもなく、それでも確かに発せられた。

祈りが届かないと思った場所にも、誰かの想いが静かに根を張っている。


「あなたが願ったことも、あなたが残した痛みも、わたしが──この先へ、運びます」


閉ざされた記憶は静かに消え、

再び現実の水面が、穏やかな光を揺らしていた。








“水鏡の間”を抜けた先──

さらに奥へと進んだ先に、その庭はあった。


水の底に広がる、幻想的な空間。

淡い光が水中に差し込み、まるで星が降っているようだった。


ミリアの足元には透明な水が浅く張り、そこには無数の“花”が咲いていた。

けれどそれは、土から咲く花ではない。

記憶の残滓が形をとった、儚く光を帯びた“想いの結晶”だった。


「……ここは……」


微かな水音とともに歩を進めたミリアは、やがてひとつの花の前で立ち止まった。

その花は、ほかよりも淡く──それでいて、どこか温かい光をたたえていた。


ミリアはしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。

指先がその花に触れた瞬間、世界がまた、揺らいだ。



一面の雪景色。

白い息を吐きながら、ひとりの女性が丘を登っている。


年の頃は、ミリアより少し上に見えた。

寒さに晒されながらも、まっすぐな眼差しをしている。


彼女の背には、小さな子供。

重さに少しだけ身体を傾がせながら、しっかりとその背を支えていた。


(……お母さん……?)


ミリアの心に、ふとそんな言葉が浮かぶ。


その女性は、ずっと子を守っていた。

荒れた村、貧しい暮らし、襲い来る病、戦の噂。

すべてを背負いながら、彼女はひとりで歩いていた。


「もう少しよ。……きっと、この先には陽の当たる場所があるから」


そう言いながら、ひたむきに。



時は巡る。

背中の子供が歩けるようになり、言葉を話し、笑うようになる。

だが、幸せは長くは続かなかった。


ある日、彼女の手を離れて、子は旅立っていった。

村を守るため、誰かを助けるために。

──それが、最後だった。


帰らぬ子を想い、彼女は何度もこの丘に立った。

風は冷たく、雪は音もなく降り積もる。

けれど、彼女は毎年、花を持ってここへ来た。


その花は、かつて子供が好きだった、青い小さな花。

山野のどこにでも咲く、名もない野の花。


「あなたが、どこかで見てくれていますように」

「どうか、寒くありませんように」

「次はきっと、春の風が吹く場所へ」


祈るように、願うように。



記憶の終わり、彼女は最後にこう言った。


「わたしはもう、長くはないけれど……でも、想いは咲くの。いつか、誰かの胸で」


そうして、静かに目を閉じた。



ミリアは、涙を流していた。

まるでそれが自分の中に咲いた花のように、胸に沁みていた。


(この人も、誰かを──守ろうとした人だったんだ)


小さな想い。届かない願い。

けれど、それは決して無意味ではなく、

誰かの心に宿ることで、再び世界に花を咲かせるのだ。


ミリアは立ち上がり、微笑んだ。


「わたしも……歩いていきます。あなたの想いを胸に」


風が吹いた。

水の底で、光の花々がゆらりと揺れる。


その中で、一輪の青い花が、静かに咲き続けていた。

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