第五話
風に乗って、香辛料と果物と人の声が溶け合うようにして届いてくる。 ここは《トランガル》──物が集まり、人が交わり、騙しと信頼が同じ重さで流通する交易都市。
目の見えない少女・ミリアが街の門をくぐると、すぐに声をかけてきた者がいた。
「おっと、そこのお嬢さん。旅の人かい?」
それは、軽薄そうな笑みを浮かべた若い男だった。 名前はライル。地元の行商人の見習いで、日々を軽口と計算で渡り歩く、どこにでもいそうな若者だった。
「案内が必要なら、手を貸すぜ? もちろん少しばかりの代金はいただくけどね」
「ありがとうございます。それでは、案内をお願いします」
ミリアはそう言って静かに頭を下げた。ライルは内心でほくそ笑んだ。 目が見えない旅人──騙すつもりはなくとも、少しばかり得をするくらいは構わないだろう。
彼は、まだ知らなかった。 この少女が“見えないもの”を、誰よりも深く見通す力を持っていることを。
市場の喧噪の中、二人は露店の並ぶ通りを歩いた。 ライルがしきりに物を勧めたりするたびに、ミリアはやんわりと首を振って断るだけだった。
そんな時だった。
ミリアの足が、ふと止まった。
「……あの」
「ん?」
「その角の陰に、何か……誰かの悲しみに満ちた“想い”を感じました」
ライルが覗いてみると、そこには痩せた少年が膝を抱えてうずくまっていた。 ボロボロの服、荒れた手。誰にも気づかれぬよう、そっと空腹を耐えている。
「……ここでは貧富の差が激しくてね。ああいうのは、関わるとこっちが損する」
軽く言い捨てるように、ライルが先に進もうとした。けれどミリアは、お構いなしに少年のもとへ近づく。
ミリアは、自分の持っていたパンの包みを取り出すと、そっと、少年の手にそれを乗せた。
「これ……よければ、食べてください」
少年は驚いた顔でパンを見つめたあと、涙をこぼしながら何度も頭を下げた。
「……ありがとう、お姉ちゃん……ありがとう……」
その光景に、ライルは言葉を失った。
“何が得になるか”ではなく、“誰かの想い”に寄り添うということ。そんな行動が、何の見返りも求めず行われたという事実が、彼の胸の奥を静かに、しかし確かに揺らした。
しばらく歩いていると、突然ミリアがライルに声を掛けた。
「……あの、骨董屋に行ってみたいのですが」
「目が見えないってのに、行ってどうすんのさ」
「…いえ、なんとなく行ってみたいだけです」
ライルは首をかしげながらも、彼女を骨董屋に案内した。
骨董屋は、街の端にひっそりと佇んでいた。木製の看板が軋み、入り口の扉もやや重たかったが、中は驚くほど静かで、外の喧騒が嘘のようだった。古びた棚に、誰かの過去が積み上げられている。 誰も気にも留めないような奥の棚に、小さな懐中時計があった。ライルは思いつきで、それを手渡した。
「ほら、これなんてどう? もう動かないけど、何か面白いことでも言ってみなよ」
冗談まじりの問いかけに、ミリアは黙って時計を手に取った。 指先が金属の冷たさを感じた刹那、彼女の表情が変わる。
「……これは……」
彼女の心に流れ込んできたのは、 時計に宿っていた、何十年もの歳月だった。
誰かの痛みや苦しみのような、何か重苦しいものがその時計には詰まっていた。
「この時計……誰かの、強い想いが宿っています。大切な人に会えずにいたまま、時が止まってしまったような……」
目を閉じたままのミリアの表情が、ふっと曇った。 その言葉を聞いていた店主が、不意に呟いた。
「ああ、それ、昔とある場所で拾った品なんだ。誰かの思い出の品だと思うんだがね……それに、何年経っても持ち主が見つからなくてなぁ」
「それと、その時計があった近くにこれも落ちてたんだ。さすがに勝手に中を見るのは申し訳なかったから見てないがね。これ以上この店に置いてても仕方ないからあんた達にやるよ」
店主は小さな手紙を取り出し、ミリアに手渡した。
ミリアは手紙を開かずにそっと胸に抱えた。
「……きっと、この手紙を届けるべき人がこの街のどこかにいるような気がします。探さなければ」
その日の夕暮れまで町中の人から人へと聞きまわったが、収穫はなかった。最後に、ミリアはライルと共に町の広場へ向かった。そこに、子供たちにパンを配る老婆の姿があった。 ミリアは確信のように歩み寄り、話しかけた。
「すみません。これに、見覚えはありませんか?」
彼女はそっと懐中時計を差し出した。
老婆がゆっくりと顔を上げ、彼女の目が懐中時計に触れた途端、息が止まったように表情が固まった。そして、震える手でそれをそっと包み込んだ。
「……これは……私の……いいえ、あの子の、大切な……!」
老婆の目に、涙が滲んだ。
「遠い昔、戦争で息子と離れ離れになったの。最期の言葉が『戻ったら、これで時を合わせよう』だったのよ……けれど、あの子は帰ってこなかった。でも私は、ずっとこの街で、待ち続けていたの……」
そして、ミリアは手紙も手渡した。老婆はそれを両手で包み込み、静かに読み始める。やがて顔を上げると、彼女はミリアに向かって深く頭を下げた。
「ありがとう……あの子は帰らなかったけど、この時計が、あなたが……私の時間を動かしてくれました」
彼女の涙は、ただの悲しみではなかった。長い年月を経てようやく心が報われた、深い感謝の涙だった。
ミリアの胸の中でも、温かな何かが灯るのを感じていた。
その場面を見つめていたライルは、言葉を失っていた。今までただの“変わった旅人”だと思っていた少女が、人の心を確かに救ったのを目の当たりにして、彼の中で何かが変わった気がした。
夜、宿の小部屋。ライルは床に寝転がったまま、ミリアが貧しい子供にパンを分け与えた時のことを思い出していた。 (あんなこと、俺にはできない……いや、本当は、昔の俺も……)
あの時自分の姿が、子供と重なって見えた。飢えと孤独に打ちひしがれていた日々。誰にも助けてもらえなかった過去。 けれど今、ミリアという存在が、自分にとって何かを思い出させようとしている風に思えた。
翌朝。ライルは無言で起き出し、パン屋に立ち寄り、紙袋に食べ物を詰めた。 そして、あの広場へと向かった。老婆の姿はそこにはなかったが、昨日の子どもたちが、同じ場所で同じように座っていた。
紙袋を差し出したとき、一人の子が小さく「ありがとう」とつぶやいた。 その声が、ライルの心の奥にしみ込んだ。
(……別に、何かしてもらったわけじゃない。俺が、自分でやろうって思ったんだ)
その小さな選択が、彼の中で何かを変え始めていた。
それから数日間、ミリアと行動を共にしたライルは、次第に変わっていった。 商人としてのしたたかさを隠すでもなく、それでも、ミリアの言葉や行動に少しずつ心を動かされていた。
そして、旅立ちの朝。
ミリアが街を離れようとすると、ライルが背中を呼び止めた。
「……なあ。これ、持っていってくれないか」
差し出されたのは、旅に必要な物資を詰めた小さな包みと、粗末な革紐の守り袋。
「俺はさ、最初は……自分の得のためにお前といた。でも、今は……何て言えばいいかな。あんたと一緒にいて、俺の中で動き出した何かがあるんだ……ありがとな」
ミリアは受け取り、静かに微笑んだ。
「ありがとう、ライルさん。あなたの中にある優しさが、これからも誰かを助けますように」
「俺の中に……優しさなんてあったかなあ?」
「ありました。気づいてないだけです」
彼女はそう言って、静かに街道を歩き出した。
ライルはその背を、しばらく見送っていた。 トランガルの喧騒の中で出会い、そして何かを残して去っていった少女。その存在が、自分の中の何かを変えてしまったことを、彼はもう否定できなかった。
──また、会えたらいいな。 そんな思いが、胸の奥に小さく灯った。