第四話
霧が晴れ、広がる平原の景色を背に、ミリアは次の目的地へと歩みを進めた。彼女の足取りは軽く、心は穏やかだった。やがて遠くにそびえる古びた塔が姿を現す。エルガの塔。かつて偉大な魔法使いが住み、数多の魔法の痕跡を残したという伝説の場所だ。
塔は長い時の流れに耐えきれず、崩れかけていた。風に揺れる蔦が壁を這い、窓は幾つも割れている。それでも、どこか神聖な気配が漂い、ミリアは自然と足を止めた。
塔の入口は重く錆びついた鉄の扉で閉ざされていたが、彼女の手が触れると、まるで招き入れるかのようにゆっくりと開いた。中は薄暗く、埃っぽい空気が漂う。足音が響く廊下を進むと、古びた書物や魔法の器具が乱雑に置かれている部屋に辿り着いた。
その時、ふわりと冷たい空気が流れ、淡い青白い光が揺らめく。ミリアの前に、一人の老魔道士の幽霊が現れた。彼の瞳には深い悲しみと後悔が宿っている。
「何か用か、若き旅人よ」と幽霊は静かに語りかける。「私はエルガ、この塔の主だった魔法使いだ。しかし、今はただの残影。生きている者たちとは違う、孤独な存在だ」
ミリアは恐れずに一歩踏み出した。「エルガ様、私はこの見えなくなった目を治すための魔法を求めて旅をしています。どうか、あなたの知恵をお貸しください」
幽霊は微笑みながら杖を差し出した。「この杖に触れ、私の記憶を見よ。だが警告しておく、この記憶には重い後悔と、叶わぬ願いが込められている。何か君の役に立つ情報があればいいのだが」
ミリアはそっと杖に手を添えた。途端に視界は消え、代わりに温かな感情と切なさが波のように押し寄せた。彼の若かりし日々、仲間たちと笑い合う幸せな時間。だが、己の野心と誤った選択がもたらした破滅の影。信じていた者たちとの断絶。そして、誰よりも守りたかった者を失う痛み。
エルガはかつて、最強の魔法使いを目指し、この世の全ての魔法を追い求めた。彼の探求はやがて、仲間であり師であった老賢者との溝を生んだ。エルガは魔法の力を限界まで高めることに固執し、やがて禁忌の呪文に手を染めてしまう。それは世界の均衡を乱す危険な代物であった。
師との決別。仲間たちの離反。エルガの魔法は強大になる一方で、制御は次第に困難を極めた。彼の塔はかつての輝きを失い、ひとり孤独に留まった。
最も辛かったのは、自らの力によって愛する者を失ったことだった。エルガは暴走する自身の魔法から大切な妹を守るため、その身を盾にしたが、彼女は救えなかった。その痛みは幽霊となった今も彼の胸を締め付けている。
涙が頬を伝うミリア。彼の後悔がまるで自身のもののように感じられた。
「私の探しているものは見つかりませんでした。ですがエルガ様、あなたの苦しみ、願いはしっかりと伝わりました。私が必ず次に進む力に変えます」
幽霊はゆっくりとうなずき、微笑んだ。「…そうか、ありがとう。それにしても、君の力はただの魔法以上のものだ。触れたものの中に眠る想いを感じ取る、まるで”心の魔法”だ。これからの旅路、困難も多いだろうが、君ならきっと乗り越えられる」
「それと、今も生きているかは分からないが、かつての私の師──エルディスという老賢者がいる。彼ならば、君が探しているものについて何か知っているはずだ」
ミリアは杖をそっと返し、深い敬意を込めて頭を下げた。
「…本当に、ありがとうございました」
「…ああ」
幽霊は少し寂しげに、暗闇の中に消えていった。
ミリアが外に出ると、崩れかけた塔の影が夕日に染まり、まるで新たな希望の灯火のように揺れていた。彼女の旅は、わずかだが着実に前へと進んでいる。